エーギルとラーンの九人の娘。ひとりひとりが波のかたちを表す。
波の乙女とは何の神様か
波の乙女はひとことで言えば波そのものである九人姉妹です。父は海の神エーギル、母は女神ラーン。巨人の女に数えられます。
特徴ははっきりしています。九人の名前が、そのまま波の姿を表していることです。天に輝く波、沈める波、血まみれの髪、高くせり上がる波、押し寄せる大波。
海をひとかたまりで見ず、うねりの種類ごとに名と人格を与えたのが、この姉妹です。 一柱の海神で片づけていません。
もうひとつ大きな役どころがあります。虹の橋の番人ヘイムダルが「九人の母から生まれた」とされることです。その九人はこの姉妹だと解されています。
海の一家から、神々の見張り番が生まれている。 短い記述ですが、神話の骨格に関わる位置にいます。
波の乙女の名前の表記と読み方
日本語では「波の乙女」と呼ばれます。原典では「エーギルの娘たち」という言い方で九人まとめて指されます。
『詩語法』が挙げる名は次の九つです。ヒミングレーヴァ(天に輝く者)、ドゥーヴァ(沈める波)、ブローズグハッダ(血まみれの髪)、ヘヴリング(高くせり上がる波)、ウズ(叩きつける波)、フレン(重なる波)、ビュルギャ(取り囲む者)、バー?ラ(漂流者を弄ぶ大波)、コールガ(押し寄せる大波)。
七人目は、同じ『詩語法』の別の箇所ではドゥロヴンという名で挙げられています。 写本によって揺れがあり、九人の顔ぶれは完全には固定されていません。
これらの名は詩のなかで波そのものを指す言葉としても使われました。
Ægis dœtr(エーギスデートル)
「エーギルの娘たち」。九人をまとめて指す言い方。
Himinglæva(ヒミングレーヴァ)
九人のうちの一人。「天に輝く者」を意味する。
Kólga(コールガ)
九人のうちの一人。「押し寄せる大波」を意味する。
波の乙女の物語
九つの波 ─ 名前が海を分ける
この姉妹のいちばんの特徴は、名前が説明になっていることです。
天に輝く波。沈める波。高くせり上がる波。叩きつける波。重なる波。取り囲む波。押し寄せる大波。
海に出た者なら、どれも見分けがつきます。船を持ち上げる波と、上から叩く波は別ものです。
波を九つに分類し、それぞれに名と姿を与えた。 これは詩の飾りではなく、海で生きるための区別だったと考えられます。
なかでも異質なのがブローズグハッダ、「血まみれの髪」です。ほかの八人が波の形を指すのに対し、この名だけが色を指します。荒れた海の赤みを指すとも、戦いを暗示するとも読まれてきました。
ヘイムダルの九人の母
北欧神話には、九人の母から生まれたとされる神がいます。虹の橋ビフレスト?の番人ヘイムダルです。
古エッダ?はこう歌います。
われは九人の母の子なり、九人の姉妹より生まれし者なり。
この九人が誰かは、詩のなかでは明かされません。しかし海の神エーギルとラーンには、ちょうど九人の娘がいます。
そのため、ヘイムダルの母はこの姉妹だとする読み方が有力になりました。海から生まれた見張り番という像は、この解釈から生まれています。
断定はできません。原典が両者を結びつけて書いているわけではないからです。それでも、九という数の一致は無視しにくいものがあります。
海の一家 ─ 敵ではない巨人たち
父エーギルは巨人族に数えられます。それでも神々と敵対しません。
むしろ神々のために酒宴を催す立場にいました。古エッダ『ロキの口論』の舞台はこの館です。運びこまれた黄金が輝いて、照明が要らなかったと記されます。
母ラーンは網を構えて溺れた者を引き寄せますが、こちらも神々の敵ではありません。
終末の日ラグナロク?にも、この一家が神々と戦ったという記述はありません。
巨人でありながら、戦列に加わらない一家。 北欧神話の巨人観が、敵対だけで説明できないことを示す例です。
九人の娘たちも同じで、誰かを倒す場面はありません。海がそこにあるように、ただ存在しています。
波が挽く石臼 ─ 別の伝え
海と九人の女をめぐっては、もうひとつよく知られた語り口があります。
詩のなかで、海は「エーギルの娘たちが挽く臼」と言い換えられることがあります。波が絶えず動き、砕け続ける様子を、粉を挽く石臼に重ねた表現です。
姉妹の名は、こうして海そのものを指す言葉として詩人に使われました。 ある波の名を出せば、聞き手にはその海の様子が浮かびます。
名前が九つあることの意味は、そこにあります。 一つの言葉で海を呼ぶのではなく、状況に応じて呼び分ける。
近代には、小惑星のひとつに姉妹の一人コールガの名が与えられました。押し寄せる大波を指す名です。
波の乙女の家系図と家族
波の乙女の親: ラーン母と九人の娘
波の乙女の性格と人物像
波の乙女は、個人として描かれない九人です。
台詞がありません。姉妹のあいだの関係も、性格の違いも書かれない。名前だけが並びます。
しかしそれは記録が失われたからではなく、もともとそういう存在だったからだと考えられます。波に個性はありません。ただ形が違うだけです。
姿ではなく、動きに名前を付けている。 この姉妹は、神話における自然の擬人化のなかでも、かなり素朴な段階を残しています。
母ラーンが網を持ち、父エーギルが宴を開くのに対し、娘たちは道具も館も持ちません。持ち物が無いのは、彼女たち自身が海の一部だからです。
そして九人そろってヘイムダルを産んだとされる。産む場面だけが、この姉妹に与えられた唯一の行為でした。
波の乙女ゆかりの地と遺跡
この姉妹を祀った場所は見つかっていません。 社も、地名も伝わっていません。
ゆかりの場所として語られるのは海そのものです。詩では海を「エーギルの娘たちが挽く臼」と言い換えます。北欧の沿岸には難所ごとに古い呼び名が残る土地が多くありますが、この姉妹の名に確実に結びつくと言える地名は確認できていません。
波の乙女が現代に残した痕跡
この姉妹の名は、海を指す詩の言葉と、空の天体に残りました。
波を指す言葉: 姉妹の名はそれぞれ波の様子を表す語で、詩のなかで海そのものを指す言い換えとして使われた。
「エーギルの娘たちが挽く臼」: 海を指す言い換えのひとつ。絶えず砕け続ける波を、粉を挽く石臼に重ねている。
小惑星コールガ: 九人の一人コールガ(押し寄せる大波)の名が、小惑星の一つ(191)に付けられている。
波の乙女が司るもの
海
波そのものの化身として語られる。
航海安全
波の種類を見分けることが、海に出る者の備えだったことによる。
波の乙女についてよくある質問
波の乙女とは誰ですか。
海の神エーギルと女神ラーンの間に生まれた九人の娘です。巨人の女に数えられ、それぞれの名が波の姿を表しています。
九人の名前は何ですか。
ヒミングレーヴァ、ドゥーヴァ、ブローズグハッダ、ヘヴリング、ウズ、フレン、ビュルギャ、バーラ、コールガです。七人目は別の箇所でドゥロヴンとも記されます。
ヘイムダルの母なのですか。
そう解されています。ヘイムダルは九人の母から生まれたと歌われますが、その九人が誰かは詩に明示されていません。エーギルとラーンにちょうど九人の娘がいることから、この姉妹とみる読み方が有力です。
ラグナロクでは神々と戦いますか。
戦ったという記述はありません。父エーギルは巨人族に数えられながら神々のために宴を開く立場にあり、この一家が終末の戦列に加わった記述は残っていません。
波の乙女と併せて覚えたい言葉・用語
バー(bꜣ/人格・魂)
人の頭を持つ鳥の姿で描かれる、その人の人格にあたる部分。昼は墓を出て動き、夜は遺体へ戻るとされた。
ビフレスト(Bifröst)
地上と神々の国をつなぐ虹の橋。赤い部分は炎で、ヘイムダルが番人として守る。
古エッダ(こエッダ)
詩の形で伝わる北欧神話の歌謡集。13世紀の写本に収められたが、成立はさらに古い。作者は不明。
ラグナロク(Ragnarök)
北欧神話の終末。神々と巨人が戦い、双方がほぼ全滅して世界が焼け落ち、海に沈む。そののち新しい大地が浮かび上がる。