網を構えて待つ海の女神。溺れた者はその館へ行く。
ラーンとは何の神様か
ラーンはひとことで言えば海で死んだ者を迎える女神です。海の神エーギルの妻で、ランとも書かれます。
持ち物は大きな網ひとつ。これを海に構え、船と人を海中へ引きこむとされました。名は「奪い取る者」と解されます。
北欧神話には、死者の行き先がいくつも用意されています。戦って死んだ者はオーディンのヴァルハラ?とフレイヤのフォールクヴァングへ、病や老いで死んだ者はヘルの国へ。そして海で溺れ死んだ者は、この女神のもとへ行きます。
注目すべきは、行き先が待遇まで分かれていることです。黄金を持っていれば安らかな館に入れてもらえ、持っていなければ暗い館に入れられると語られました。
夫との間に九人の娘があり、「波の乙女」と呼ばれます。
ラーンの名前の表記と読み方
古ノルド語では Rán(ラーン)。日本語ではランとも書かれます。
名の意味は「奪い取る」「略奪」に通じるとされます。ここで面白いのが夫の名との対比です。エーギルの語源は「迎え入れる者」とされます。迎え入れる夫と、奪い取る妻。 海の二つの顔が、夫婦の名前に分けて与えられています。
この女神の名は、海を指す詩の言い換えにも使われました。「ラーンの道」と言えば海のことです。船乗りの言葉のなかに、この名が溶けこんでいたことになります。
二〇一五年には、エリダヌス座イプシロン星にこの女神の名が与えられました。
Rán(ラーン)
古ノルド語の表記。「奪い取る者」を意味すると解される。
Ránar vegr(ラーナルヴェグ)
「ラーンの道」。海そのものを指す詩の言い換え。
Ægir(エーギル)
夫である海の神。語源は「迎え入れる者」とされ、妻の名と対をなす。
ラーンの物語
網 ─ 海に構えられているもの
この女神を語るとき、必ず出てくるのが網です。
嵐の海には網が構えられている。人々はそう考えました。船が沈むのも、人が波にさらわれるのも、この網に引かれたからだとされます。
網は貸し出されたこともあります。古エッダ?『レギンの歌』で、賠償の黄金を集めていたロキが、小人アンドヴァリを捕らえるためにこの女神から網を借りました。アンドヴァリはカワカマスに化けて滝に潜んでいましたが、網から逃れられません。
神話でもっとも重い呪いをかけられた指輪は、この網があったから世に出ました。 竜ファフニールも、英雄シグルズも、その黄金とともに滅びます。
海の女神の道具が、陸の悲劇の始まりに使われている。 目立たない一行ですが、話の骨をつないでいます。
黄金を持って船に乗る ─ 実際の習わし
この女神をめぐって伝わる話のなかで、いちばん生活に近いのがこれです。
人々は船に乗るとき、黄金を持っていきました。
理由がはっきりしています。もし溺れてこの女神に捕らえられても、黄金を差し出せば安らかな館へ入れてもらえるとされたためです。持っていなかったために暗い館へ入れられた、という物語も伝わります。
死後の待遇を、生きているうちに用意しておく。 海で暮らす人々の、切実な備えでした。
あるサガは、別の言い伝えも記します。溺死者の霊が自分の葬式に現れたなら、それは女神が死者を温かく迎えた証拠だと信じられていた、というのです。
帰ってこない者をどう見送るか。 この女神は、その答えとして立てられていたようにも読めます。
九人の娘 ─ 波に名を与える
夫エーギルとの間に、九人の娘がありました。「波の乙女」と呼ばれます。
名前はそれぞれ波の姿を表します。ヒミングレーヴァは「天に輝く者」、ドゥーヴァは「沈める波」、ブローズグハッダは「血まみれの髪」、コールガは「押し寄せる大波」。
海をひとかたまりで見ず、うねりの種類ごとに名と人格を与えたのが、この一家です。
さらにこの九人は、虹の橋の番人ヘイムダルの母とされます。九人の母から生まれたというヘイムダルの出自は、この姉妹を指すと解されています。
海の一家から、神々の番人が生まれている。 エーギルとラーンは巨人族に数えられながら、神々と敵対しません。終末の日にも神々と戦わないようです。
ニョルズとの違い ─ 二人いる海の神
北欧神話には、海に関わる神が二系統あります。
ひとつはヴァン神族?のニョルズ。港と航海と漁の神で、富をもたらします。人間の海の営みに寄り添う神です。
もうひとつが、エーギルとラーンの夫婦です。こちらは外海にいます。人間の都合とは関わりなく荒れ、船を砕き、人を呑む。
同じ海が、恵む面と奪う面で別々の神に振り分けられています。
どちらが上ということではありません。漁に出るときはニョルズに祈り、嵐に遭ったらラーンの網を思う。海に出る人の心の動きが、そのまま神々の分担になっています。
なお、夫エーギルは神々のために酒宴を催すなど、神に近い立場にいます。巨人族でありながら、敵ではない。この一家の位置は少し特殊です。
ラーンの家系図と家族
ラーンの子・子孫: 波の乙女母と九人の娘
ラーンの性格と人物像
ラーンは、感情を語られない女神です。
怒りも、憎しみも、気まぐれも記されていません。ただ網を構えている。それだけです。
しかし冷たいとも言い切れません。黄金を持ってきた者は安らかな館に迎え入れ、溺死者の霊を葬式に送り返すことさえあります。迎え方の差はあっても、迎えること自体は拒みません。
面白いのは、恐れられながら取引ができる相手として扱われている点です。フェンリルにもヨルムンガンドにも交渉の余地はありません。この女神には黄金が通じます。
海は理不尽だが、まったく理が無いわけではない。 船で暮らした人々が、経験からたどり着いた海の像だったのでしょう。
夫が宴を開いて神々をもてなす一方で、妻は網を構えて待っている。この夫婦のかたちも、海の二面をそのまま写しています。
ラーンゆかりの地と遺跡
この女神を祀った社や神殿は見つかっていません。 網や館の伝えは残っていますが、建物や祭祀の跡として確かめられたものはありません。
ゆかりの場所として語られるのは、海そのものです。詩では海を「ラーンの道」と言い換えます。北欧の沿岸には、船が沈んだ場所や難所に古い名が付けられている土地が多くありますが、この女神の名に確実に結びつくと言える地名は確認できていません。
ラーンが現代に残した痕跡
この女神の名は、海を指す言葉と、空の星に残りました。
「ラーンの道」: 海そのものを指す詩の言い換え。『詩語法』が海のケニングとして紹介している。
黄金を携える習わし: 船に乗るとき黄金を持っていく習わしが伝えられる。溺れてもこの女神に渡せば安らかな館へ入れると考えられていた。
エリダヌス座イプシロン星ラーン: 二〇一五年に、この恒星へ女神の名が与えられた。同じ星系の惑星には夫エーギルの名が付けられている。
ラーンが司るもの
航海安全
海に出る者が黄金を携えてこの女神に備えた習わしによる。
海
外海そのものを司る女神として語られる。
死者の導き
溺れ死んだ者を迎え入れる役割を担う。
ラーンについてよくある質問
ラーンは何の女神ですか。
外海を司る女神です。大きな網で船や人を海中へ引きこみ、溺れ死んだ者を自分の館へ迎えるとされます。
ラーンは神ですか、巨人ですか。
女神と呼ばれますが、夫エーギルは巨人族に数えられ、九人の娘も巨人の女とされます。神々と敵対せず、終末の戦いにも加わらない特殊な位置にいます。
なぜ船に黄金を持っていったのですか。
溺れてこの女神に捕らえられたとき、黄金を渡せば安らかな館へ入れてもらえると考えられていたためです。持っていなければ暗い館に入れられるという話も伝わります。
ニョルズとはどう違うのですか。
ニョルズは港や漁など人間の海の営みに関わる神で、こちらは外海の荒々しさを担います。同じ海が、恵む面と奪う面で別の神に振り分けられています。
ラーンと併せて覚えたい言葉・用語
ヴァルハラ(Valhöll)
オーディンの館。「戦死者の館」の意。選ばれた戦士が毎日戦い毎晩よみがえって、ラグナロクに備える。
古エッダ(こエッダ)
詩の形で伝わる北欧神話の歌謡集。13世紀の写本に収められたが、成立はさらに古い。作者は不明。
ヴァン神族(ヴぁんしんぞく)
豊穣と富を担う神々の一族。アース神族と戦って和睦し、ニョルズ・フレイ・フレイヤが人質としてアースガルズへ渡った。