死者の国の女王。半身が生者、半身が死者の姿。

カール・エーレンベルク 「ヘル」 / パブリックドメイン 出典
ヘルとは何の神様か
ヘルはひとことで言えば返さない神です。
ロキの子で、死者の国ヘルヘイムを治める女王。姿は忘れがたいものです。
体の半分は生者の色、もう半分は死体の色をしていた。顔つきは険しく、恐ろしい。
この国へ来るのは、戦って死ななかった者です。病で死んだ者、老いて死んだ者。オーディンのヴァルハラ?にも、フレイヤの館にも行けなかった者たちです。
光の神バルドルも、ここへ下りました。
神々が返還を求めたとき、ヘルは条件を出します。
世界のあらゆるものが彼のために泣くなら、返そう。
世界中が泣きました。ただ一人、老女に化けたロキだけが泣きませんでした。
バルドルは戻りません。
英語の hell(地獄)は、この女神の名に由来します。
ヘルの名前の表記と読み方
古ノルド語では Hel。日本語では「ヘル」「ヘラ」と表記されます。
「ヘラ」はギリシャ神話の女神ヘラと紛らわしいため、この項では「ヘル」で統一します。
名の由来は「隠す」を意味する語です。地下に隠された場所という意味で、もとは国の名でした。国の名がそのまま女王の名になっていることになります。
英語の hell(地獄)も同じ語です。ただし北欧のヘルヘイムは、罰を与える場所ではありません。
Hel(ヘル)
古ノルド語の表記。「隠されたもの」を意味する語に由来する。女王の名であり、同時にその国の名でもある。
Helheimr(ヘルヘイム)
「ヘルの家」の意。この女王が治める死者の国を指す。
hell(ヘル)
英語の「地獄」。この女神の名と同じ語にさかのぼる。
ヘルの物語
死者の国へ送られる ─ 三兄弟の処分
ロキと巨人の女アングルボザの子は三体。狼フェンリル、大蛇ヨルムンガンド、そしてヘル。
オーディンは予言を聞き、三体を連れてこさせました。
蛇は海へ投げ込まれ、狼は手元に置かれ、そしてヘルは──
オーディンはヘルを下界へ投げ落とし、九つの世界を与えた。病や老いで死んだ者すべてを、彼女に割り当てるために。
放り落とされて、そこの支配者になりました。
館の名はエーリューズニル(雨に濡れる館)。
新エッダ?は、その調度をひとつずつ挙げています。
皿の名は飢え。ナイフの名は餓え。下男はのろま、下女はぐず。閾は落とし穴、寝台は病の床、垂れ幕は輝く災い。
すべての家具に、絶望の名がついている。 北欧神話でもっとも陰鬱な描写です。
どういう場所か ─ 罰ではない死後
ここで誤解されやすい点を整理します。
ヘルヘイムは、悪人が落ちる地獄ではありません。
来るのは「戦って死ななかった者」です。病で死んだ者、老いて死んだ者、事故で死んだ者。
悪しき者がここへ来るのではない。藁の上で死んだ者が来るのだ。
「藁の上で死ぬ」とは、寝床で死ぬという意味です。北欧の戦士にとって、これは恥でした。
逆に言えば、善人でも病死すればヘルへ来ます。 光の神バルドルがここへ下ったのが、その証拠です。
行いではなく、死に方で行き先が決まる。
キリスト教の地獄とは根本的に違う考え方です。ただし語が同じであるため、キリスト教が入ったあと「hell=罰の場所」という意味に変わっていきました。
バルドルを迎える ─ 上座に用意された席
バルドルが死に、ヘルヘイムへ下りました。
神々はヘルモーズを使者に送ります。九夜、暗い谷を馬で駆け、黄金の橋を渡り、ヘルの門を馬で跳び越えて館へ着きました。
そこで見たものが記されています。
バルドルは、上座に座っていた。
囚われても、責め苦を受けてもいません。客として、いちばん良い席にいました。
ヘルモーズは一晩泊まり、翌朝ヘルに願い出ます。バルドルを返してほしい。
ヘルの答えはこうでした。
本当に彼がそれほど愛されているのか、試してみよう。 世界にあるすべてのもの、生きているものも死んでいるものも、すべてが彼のために泣くなら、彼はアース神族?のもとへ帰れる。 だがひとつでも拒むなら、彼はここに留まる。
理不尽ではありません。条件を出し、それを守っただけです。
ひとりが泣かない ─ 条件は満たされない
神々は世界中に使者を送りました。
人も、獣も、大地も、石も、木も、あらゆる金属も泣いた。
新エッダは、そこに一行を添えます。
霜から出て温かい場所へ入ると、ものが濡れるのを見たことがあるだろう。 あのように、すべてが泣いたのだ。
世界のすべてが泣きました。
しかし帰り道、洞窟にソックという名の巨人の老女がいました。
生きているときも死んでからも、あの男から得たものは何もない。 ヘルは持っているものを持ち続けるがよい。
この老女はロキでした。
条件は満たされません。バルドルは戻れませんでした。
ヘルは約束を破っていません。言ったとおりにしただけです。この女神は、神話のなかで一度も嘘をついていません。
ラグナロク ─ 死者の軍勢を出す
終末の日、ヘルの国から死者たちが出てきます。
死者の爪で作られた船ナグルファルが浮かびました。
ナグルファルは死者の爪で作られている。 それゆえ、人が死んだときその爪を切らずに葬れば、船の完成を早めることになる。
新エッダは、ここで読者に警告します。爪を切ってから葬れ、と。神話が生活の作法に直結している珍しい例です。
この船に、ヘルの国の死者たちが乗り込みます。船を操るのはロキ。父と娘が、同じ側に立ちました。
ヘル自身が戦う場面は記されていません。軍勢を出したという事実だけが残ります。
返さなかった神が、最後にすべてを送り出しました。
ヘルの家系図と家族
ヘルの性格と人物像
ヘルは、冷たくはあっても、不当ではない神です。
この女神が誰かを騙した場面、約束を破った場面はひとつもありません。
バルドルを上座に座らせ、返還には条件を出し、条件が満たされなかったから返さなかった。それだけです。
姿は恐ろしく、館の家具には絶望の名がつき、迎える相手は戦えずに死んだ者ばかり。
それでも、この女神は自分から何かを奪いに行ったことがありません。 送られてきた者を受け取り、治めているだけです。
新エッダの表現も、あくまで淡々としています。
顔つきは険しく、恐ろしい。
性格については何も書かれていません。恐ろしいのは見た目だけで、行動は最後まで筋が通っています。
生まれてすぐ放り落とされ、誰も来たがらない場所を任され、そこを黙って治め続けた。北欧神話で、もっとも役目に忠実だった神かもしれません。
ヘルゆかりの地と遺跡
ヘルを祀った場所はありません。 誰も、死者の国の女王に祈りたくはなかったはずです。
しかし名前は現代まで残りました。 英語の hell、ドイツ語の Hölle、スウェーデン語の helvete。ヨーロッパの言語で「地獄」を指す語の多くが、この女神の名にさかのぼります。
祀られなかった神が、言葉としてもっとも広く生き残った。 皮肉な結末です。
ヘルヘイムへの道の伝承地(Helvegr)
死者が下る道
ヘルヘイムへの道の伝承地の住所: アイスランド・ノルウェー(伝承上の地)
ヘルヘイムへの道の伝承地に残るもの: 伝承と地名
ヘルヴェグ(ヘルへの道)は、死者が下るとされた道です。九夜かけて北へ下り、暗い谷を通り、ギョッル川にかかる黄金の橋を渡ると記されます。
橋にはモーズグズという乙女が番人として立っていました。
アイスランドやノルウェーには、この道にちなむとされる地名が残っていますが、特定の場所ではなく観念上の道と考えられています。
爪を切ってから葬る習俗(Naglfar)
神話が生活に残った例
爪を切ってから葬る習俗の住所: 北欧全域(民間の作法)
爪を切ってから葬る習俗に残るもの: 葬送の作法
死者の爪で作られる船ナグルファルの完成を遅らせるため、死者の爪を切ってから葬るという作法が伝えられていました。
新エッダはこの作法を明記しており、神話が実際の葬送の手順として守られていたことを示します。北欧神話が生活に入り込んでいた数少ない確かな例です。
ヘルが現代に残した痕跡
ヘルの名は、ヨーロッパ中の言語に「地獄」として残りました。
英語 hell(地獄): この女神とその国の名にさかのぼる。キリスト教が入ったあと、罰を受ける場所という意味に変わった。もとの北欧のヘルヘイムは罰の場所ではない。
ドイツ語 Hölle/スウェーデン語 helvete: いずれも同じ語源。helvete は「ヘルの罰」を意味する語からできている。
爪を切ってから葬る作法: 死者の爪で作られる船ナグルファルの完成を遅らせるため。新エッダに明記された、神話が生活の手順になった例。
「半分が死体の姿」という造形: 生と死を半身ずつ持つ姿は、後世の創作で死神や冥界の主の定番の造形になった。
ヘルが司るもの
死者を治めること
戦って死ななかった者すべてを迎え入れる。行いではなく死に方で行き先が決まる。
約束を守ること
条件を出し、その条件どおりに振る舞った。神話のなかで一度も嘘をついていない。
境界
生と死の半分ずつの姿は、二つの世界の境目そのものを表すとされる。
ヘルが登場するゲーム・アニメ
創作では強大な悪役にされがちですが、原典のヘルは戦いません。攻めてくることも、罠を張ることもない。
送られてきた死者を治め、条件を出し、それを守っただけの神です。この落差は、北欧神話の神のなかでもっとも大きいといえます。
ヘルが登場するゲーム
ヘルが登場するアニメ・漫画・映像
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ヘルについてよくある質問
ヘルは何の神様ですか。
死者の国ヘルヘイムを治める女王です。ロキの子で、体の半分が生者の色、半分が死体の色をしています。
ヘルヘイムは地獄ですか。
違います。罰を与える場所ではなく、戦って死ななかった者が行く場所です。病死や老衰で死んだ者が来ます。善人でも病死すればここへ来ます。
ヘルはなぜバルドルを返さなかったのですか。
「世界のあらゆるものが泣くなら返す」という条件を出しましたが、老女に化けたロキだけが泣かなかったためです。ヘル自身は約束どおりに振る舞っています。
英語の hell はヘルの名前ですか。
そのとおりです。この女神とその国の名にさかのぼります。ドイツ語 Hölle、スウェーデン語 helvete も同じ語源です。
ヘルの兄弟は誰ですか。
狼フェンリルと大蛇ヨルムンガンドです。いずれもロキと巨人の女アングルボザの子で、オーディンによってそれぞれ別の場所へ処分されました。
ナグルファルとは何ですか。
死者の爪で作られた船です。ラグナロクでヘルの国の死者を乗せ、ロキが操ります。完成を遅らせるため、死者の爪を切ってから葬る作法が守られていました。
ヘルと併せて覚えたい言葉・用語
ヴァルハラ(Valhöll)
オーディンの館。「戦死者の館」の意。選ばれた戦士が毎日戦い毎晩よみがえって、ラグナロクに備える。
新エッダ(しんエッダ)
1220年頃にアイスランドのスノッリ・ストゥルルソンが著した散文の書。神話を体系的に整理しており、現在の北欧神話の理解はこの書に多くを負う。
アース神族(あーすしんぞく)
オーディンを主神とする神々の一族。戦いと支配を担う。アースガルズに住む。