軍神。狼を縛るために自ら片手を差し出した。

「剣の神テュール」 / パブリックドメイン 出典
テュールとは何の神様か
テュールはひとことで言えば代償を払った神です。戦と、そして法・誓約?を司ります。
この神を有名にしているのは、狼フェンリルを縛る場面です。神々が魔法の紐で狼を縛ろうとしたとき、フェンリルは条件を出しました。「誰かが口の中に手を入れるなら縛られてやろう。」
誰も応じなかった。テュールだけが右手を差し出した。
紐が解けないと知ったフェンリルは、その手を噛み切ります。テュールは以後、隻腕です。
もうひとつ重要なのは、この神がもとは主神だったとする説です。名は「神」そのものを意味する語と同じ根を持ち、ギリシャのゼウス、ローマのユピテルと同じ語源にさかのぼります。
英語の Tuesday(火曜日)は、この神の名に由来します。
テュールの名前の表記と読み方
古ノルド語では Týr。日本語では「テュール」「ティール」「チュール」と揺れますが、原語に近いのは「テュール」です。
重要なのは、この名が普通名詞の「神」と同じ語だという点です。古ノルド語で神々を指す複数形 tívar は、この語の複数形にあたります。
つまり「神」という言葉がそのまま名前になっているわけで、もとは最高神だったのではないかと考えられています。
Týr(テュール)
古ノルド語の表記。語そのものが「神」を意味し、ゼウス(Zeus)やユピテル(Jupiter)と同じ語源にさかのぼる。
Tīw(ティーウ)
古英語の表記。Tīwesdæg(ティーウの日)が英語 Tuesday の語源になった。
Tiwaz(ティワズ)
ゲルマン祖語で想定される形。ルーン文字 ᛏ の名でもある。
テュールの物語
- かつての主神 ─ ゼウスと同じ名を持つ
- フェンリルを縛る ─ 誰も応じないなか
- なぜ手を差し出したのか ─ 法の神という側面
- 父は誰か ─ 書物で食い違う出自
- ルーン文字になる ─ 勝利のために刻む
- ラグナロク ─ 犬と相討つ
かつての主神 ─ ゼウスと同じ名を持つ
テュールの名は、たどっていくと驚く場所に行き着きます。
ギリシャのゼウス(Zeus)、ローマのユピテル(Jupiter)、インドのディヤウス(Dyaus)。 これらとテュール(Týr)は、同じ語にさかのぼります。 もとの意味は「輝く天」です。
いずれの神話でも、この語源を持つ神は最高神です。
ところが北欧では、その座にオーディンが座っています。テュールは片手を失った軍神という位置に退いています。
ローマ人が北方の民を記録したとき、この神をローマの軍神マルスに当てました。曜日名がそれを裏づけます。ラテン語の「マルスの日」dies Martis が、北方では「ティーウの日」と訳されました。それが英語の Tuesday です。
主神の座を明け渡した神。 それがテュールの出発点です。
フェンリルを縛る ─ 誰も応じないなか
ロキの子である狼フェンリルは、恐ろしい速さで育ちました。神々を滅ぼすと予言されていたため、縛る必要がありました。
神々は太い鎖を持ってきて「力試しだ」と持ちかけます。フェンリルは平然と引きちぎりました。二度目、さらに太い鎖も同じでした。
三度目に用意されたのは、絹のように細く柔らかい紐グレイプニル?です。小人が、猫の足音・女の髭・山の根・熊の腱・魚の息・鳥の唾というこの世に存在しないものから作りました。
フェンリルは怪しみます。
これほど細いもので縛られて名誉になるものか。だが罠であるなら、誰かが口の中に手を入れて誓え。
神々は顔を見合わせました。誰も動きません。
そこでテュールが進み出て、狼の口に右手を入れました。
紐は締まり、暴れるほど食い込みます。解けないと知ったフェンリルは、手首から先を噛み切りました。
神々は皆、笑った。テュールを除いては。
なぜ手を差し出したのか ─ 法の神という側面
この場面で見落とされがちなのは、テュールが戦の神であると同時に、法と誓約の神だったという点です。
ゲルマンの民会(シング)では、争いを裁くときにこの神の名が呼ばれました。約束を守らせる神だったのです。
そう考えると、あの行動の意味が変わります。
神々は騙すつもりでした。 縛ったら二度と解かないと決めていた。それでも「口に手を入れよ」という条件は、フェンリルにとって担保です。
誰かが応じなければ、この取引は成立しない。
テュールは、成立しないと分かっている誓いに、自分の手を賭けました。神々の側は約束を破り、テュールだけが代償を払いました。
新エッダ?はこの神をこう評します。
彼はもっとも勇敢である。だが、和平をもたらす者とは呼ばれない。
父は誰か ─ 書物で食い違う出自
ルーン文字になる ─ 勝利のために刻む
テュールの名は、文字そのものになりました。
ルーン文字の ᛏ(ティワズ)です。上向きの矢のような形をしています。
古エッダは、この文字の使い方を具体的に記しています。
勝利のルーンを学べ。 勝利を得たいならば、剣の柄に刻め。刃に刻め。そして二度、テュールの名を呼べ。
実際に、ルーン文字を刻んだ武器がいくつも出土しています。
戦の前に、この神の名を刻んだ。 神殿も神像も残らなかったこの神が、武器の上に確かに存在した証拠です。
ラグナロク ─ 犬と相討つ
終末の日、テュールが向き合うのはフェンリルではありません。
死者の国の入り口を守る犬ガルムです。
テュールとガルムは互いに戦い、互いを殺した。
フェンリルはオーディンが引き受け、呑まれます。テュールの相手は別の獣でした。
この配置には皮肉があります。手を奪った狼と決着をつけることは、最後まで許されなかった。
しかも隻腕での戦いです。それでも相討ちに持ち込んでいます。
代償を払った神は、最後まで報われないまま終わりました。
テュールの家系図と家族
テュールの親: オーディン
テュールの性格と人物像
テュールは、神々のなかで唯一まともな神だと言われることがあります。
理由ははっきりしています。誰も引き受けないものを引き受けたからです。
オーディンは知識のために自ら片目を捧げました。あれは自分のための代償です。テュールが手を失ったのは神々全体のためであり、しかも騙し討ちの片棒を担いだ結果でした。
新エッダの評はこうです。「彼はもっとも勇敢である。だが、和平をもたらす者とは呼ばれない。」
勇敢だが、争いは収められない。 法の神でありながら、その法を破る側に加担した。割に合わない役回りを最後まで引き受け続けた神です。
かつて最高神だった名を持ちながら、主役の座はオーディンに譲り、決着すら別の獣と付ける。北欧神話でもっとも損をしている神といっていいでしょう。
テュールゆかりの地と遺跡
テュールの神殿は見つかっていません。 残っているのは地名と、武器に刻まれたルーン文字だけです。
しかし曜日の名としては、ヨーロッパの広い範囲に残りました。 英語 Tuesday、ドイツ語 Dienstag、スウェーデン語 tisdag。いずれもこの神の名を負っています。
ティスヴィルデ(Tisvilde)
テュールの名を持つ地名
ティスヴィルデの住所: デンマーク シェラン島北部
ティスヴィルデに残るもの: 地名
「テュールの泉」を意味する地名です。デンマークにはこのほかティスルンド(テュールの木立)など、この神の名を含む地名が複数残っています。
神殿の跡は見つかっていませんが、地名の分布から、デンマーク周辺でとくに信仰されていたと考えられています。
現在は海辺の保養地として知られる。
テュールが現代に残した痕跡
テュールの名は、曜日・文字・地名の三つの形で残りました。
英語 Tuesday(火曜日): 古英語 Tīwesdæg(ティーウの日)に由来する。ローマの「マルスの日」を訳すにあたり、軍神としてこの神が当てられた。
スウェーデン語 tisdag/デンマーク語 tirsdag: いずれも同じ由来。北欧の火曜日はこの神の名である。
ルーン文字 ᛏ(ティワズ): この神の名がそのまま文字の名になった。勝利を求めて武器に刻まれ、実際に刻印された出土品が残る。
「神」を意味する語そのもの: 古ノルド語で神々を指す tívar は、この神の名の複数形にあたる。ゼウス・ユピテルと同じ語源にさかのぼる。
テュールが司るもの
勝利
ルーン文字ᛏを剣に刻み、二度この神の名を呼べば勝利が得られるとされた。
誓約・法
ゲルマンの民会で争いを裁くときに名を呼ばれた。約束を守らせる神である。
勇気
誰も応じないなかで手を差し出した行いから、覚悟の神とされる。
テュールが登場するゲーム・アニメ
隻腕という一点だけが強く受け継がれた神です。片手のない軍神という姿は分かりやすく、多くの作品でそのまま採用されています。
一方で「法と誓約の神」という側面はほとんど描かれません。原典でもっとも重要な部分が、創作では抜け落ちている神といえます。
テュールが登場するゲーム
テュールが登場するアニメ・漫画・映像
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テュールについてよくある質問
テュールは何の神様ですか。
戦と法を司る神です。ゲルマンの民会で争いを裁くときに名を呼ばれた、誓約の神でもあります。
テュールはなぜ片手がないのですか。
狼フェンリルを魔法の紐で縛る際、フェンリルが「誰かが口に手を入れるなら」と条件を出しました。誰も応じないなか、テュールだけが右手を差し出し、紐が解けないと知ったフェンリルに噛み切られました。
テュールはもともと主神だったのですか。
そう考えられています。名はギリシャのゼウス、ローマのユピテルと同じ語源にさかのぼり、古ノルド語で「神」を意味する語そのものです。北欧ではその座をオーディンに譲ったとされます。
テュールの父は誰ですか。
書物で食い違います。新エッダではオーディンの子ですが、古エッダ「ヒュミルの歌」では巨人ヒュミルを父と呼んでいます。
Tuesday(火曜日)はテュールの名前ですか。
そのとおりです。古英語 Tīwesdæg(ティーウの日)が語源です。ローマの「マルスの日」を、同じ軍神としてこの神で訳したものです。
テュールはラグナロクでフェンリルと戦うのですか。
戦いません。フェンリルはオーディンを呑み、テュールは死者の国の番犬ガルムと相討ちになります。
テュールと併せて覚えたい言葉・用語
誓約(うけい)
神意を問うための占い。あらかじめ結果の意味を決めておき、どちらが起きるかで是非を判断する。
グレイプニル(Gleipnir)
フェンリルを縛った魔法の紐。猫の足音・女の髭・山の根・熊の腱・魚の息・鳥の唾という、この世に存在しない六つのもので作られている。
新エッダ(しんエッダ)
1220年頃にアイスランドのスノッリ・ストゥルルソンが著した散文の書。神話を体系的に整理しており、現在の北欧神話の理解はこの書に多くを負う。
古エッダ(こエッダ)
詩の形で伝わる北欧神話の歌謡集。13世紀の写本に収められたが、成立はさらに古い。作者は不明。
アース神族(あーすしんぞく)
オーディンを主神とする神々の一族。戦いと支配を担う。アースガルズに住む。