巨大な狼。オーディンを呑み込むと予言された。

「ロキとフェンリル、ヨルムンガンド」 / パブリックドメイン 出典
フェンリルとは何の神様か
フェンリルはひとことで言えば育ててしまった災いです。
ロキと巨人の女の子で、巨大な狼。神々を滅ぼすと予言されていました。
注目すべきは、神々の判断です。殺しませんでした。
神々はこの狼を自分たちのもとで育てた。 ただしテュールだけが、餌をやる勇気を持っていた。
手元に置いて育てた結果、フェンリルは恐ろしい速さで成長します。手に負えなくなってから、ようやく縛ろうとしました。
二度、鎖は引きちぎられます。三度目に用意された細い紐グレイプニル?を怪しんだフェンリルは、条件を出しました。
誰かが口の中に手を入れるなら、縛られてやろう。
テュールが右手を差し出し、噛み切られます。
そして終末の日、フェンリルは縛めを解き、オーディンを呑み込みました。
フェンリルの名前の表記と読み方
古ノルド語では Fenrir または Fenrisúlfr。日本語では「フェンリル」が定着しています。
「フェンリス」と表記されることがありますが、これは Fenrisúlfr(フェンリルの狼)の前半を切り出したもので、属格(〜の)の形です。厳密には「フェンリルの」という意味になります。
名は「沼に住むもの」を意味するとされ、この獣が水辺の魔物として想像されていたことを示します。
Fenrir(フェンリル)
古ノルド語の表記。「沼に住むもの」の意とされる。
Fenrisúlfr(フェンリスウールヴ)
「フェンリルの狼」の意。原典ではこちらの形が多く使われる。
Hróðvitnir(フローズヴィトニル)
「名高き狼」の意とされる別名。
Vánagandr(ヴァナルガンド)
「ヴァーン川の魔物」の意とされる別名。
フェンリルの物語
- 神々に育てられる ─ 餌をやれたのは一人
- 二度、鎖を引きちぎる ─ 力試しという嘘
- グレイプニル ─ この世にないもので作られた紐
- テュールの手 ─ 誰も応じない条件
- 剣を噛まされる ─ 千年の拘束
- ラグナロク ─ 主神を呑む
神々に育てられる ─ 餌をやれたのは一人
ロキと巨人の女アングルボザの間には、三体の子が生まれました。狼フェンリル、大蛇ヨルムンガンド、そして死者の国の女王ヘル。
予言を聞いた神々は、この三体を連れてこさせます。
オーディンは蛇を海に投げ込み、ヘルを死者の国へ送りました。
しかしフェンリルだけは、手元に置きました。
神々はこの狼を自分たちのもとで育てた。 ただしテュールだけが、餌をやりに近づく勇気を持っていた。
なぜ殺さなかったのか。新エッダ?は理由を書いています。
神々は、その聖域を血で汚すことを望まなかった。
掟のせいで殺せなかった。 そしてそのまま育て、
神々は、この狼が日に日に大きくなるのを見た。そして予言のすべてを思い出した。
手遅れになってから、慌てます。
二度、鎖を引きちぎる ─ 力試しという嘘
神々は最初の鎖レージングを作り、フェンリルのもとへ持って行きました。
これほどの鎖を破れるか、力を試してみないか。
フェンリルは自分の力を測り、承知します。一度身をよじっただけで、鎖は砕けました。
次に、二倍強い鎖ドローミが作られます。神々は言いました。
これを破れば、おまえの名は永遠に語り継がれるだろう。
フェンリルは考えます。危険はあるが、名声は得られる。承知しました。
狼は身を震わせ、鎖を地に叩きつけた。足を踏ん張り、力を込めると、鎖ははじけ飛んだ。
二度とも、フェンリルは自力で勝っています。
ここで重要なのは、神々が毎回「力試しだ」と嘘をついていることです。狼はそれを信じて応じ、そして勝ちました。
三度目に、嘘は通じなくなります。
グレイプニル ─ この世にないもので作られた紐
神々は小人の国へ使者を送りました。作られたのは、鎖ではありません。
絹の紐のように細く、柔らかいもの。 名をグレイプニルといいます。
材料は六つ。
猫の足音。女の髭。山の根。熊の腱。魚の息。鳥の唾。
どれもこの世に存在しないものです。新エッダは、そのことを逆手に取って説明します。
だからこそ、女に髭はなく、猫の足音は聞こえず、山に根はない。 これらを作るために使い果たされたのだ。
存在しないものを集めて作られたから、決して切れない。
神々はフェンリルを島へ連れ出し、この紐を見せました。
細い紐ではないか。 これを破れるか。
フェンリルは答えます。
この紐で縛られても、名声など得られまい。 だがこれが魔術で作られたものなら、私は足を通さない。
テュールの手 ─ 誰も応じない条件
フェンリルは条件を出しました。
おまえたちがこれを解けないと言うなら、誰か一人、私の口の中に手を入れよ。 それが担保だ。
神々は顔を見合わせました。
新エッダの記述は容赦がありません。
神々は互いを見合い、事態はいっそう悪くなったと思った。 そして誰も手を差し出そうとしなかった。
沈黙が続きます。このままでは取引が成立しません。
そこでテュールが進み出て、右手を狼の口に入れました。
フェンリルは足を通します。紐は締まりました。もがけばもがくほど食い込みます。
神々は皆、笑った。テュールを除いては。彼は手を失った。
この一文が、北欧神話でもっとも冷たい一行だと言われます。騙し討ちに成功して、全員が笑っている。 代償を払った一人だけが笑えない。
剣を噛まされる ─ 千年の拘束
縛られたフェンリルは、暴れ続けました。
神々は紐の端を岩に通し、地中深くへ打ち込みます。それでも狼は口を開けて噛みつこうとします。
神々は剣を一本、その口に突き立てた。 柄が下顎に、切先が上顎に届くように。
口を開けたまま固定されました。
狼は恐ろしく吠え、口から涎が流れ落ちて川となった。 その川をヴァーンと呼ぶ。
こうしてフェンリルは、世界が終わる日まで縛られたままになります。
注目すべきは、この獣が何も悪いことをしていない点です。
生まれたときに予言されただけで、神々に育てられ、二度は正々堂々と力比べに勝ち、三度目は騙されて縛られた。
罰されたのは、生まれたことに対してです。
ラグナロク ─ 主神を呑む
終末の日、縛めは解けます。
フェンリルは口を大きく開けた。 下顎は地に、上顎は天に届いた。もっと開けられるなら、さらに大きく開けただろう。
その口が世界を埋め尽くします。
炎が目と鼻から噴き出し、狼は前へ進みました。
向き合ったのはオーディン。片目を捧げ、自らを木に吊るし、ルーンを得て、この日のために戦士を集め続けた神です。
狼はオーディンを呑み込んだ。 それが彼の死である。
北欧神話の主神は、剣で斬られたのでも、槍で貫かれたのでもありません。呑まれました。
すぐに息子ヴィーザルが進み出ます。厚い靴を履いた足でフェンリルの下顎を踏みつけ、上顎を掴んで顎を引き裂きました。
父の仇は討たれます。しかしオーディンは戻りません。
育てた災いが、育てた者を呑んで終わりました。
フェンリルの家系図と家族
フェンリルの性格と人物像
フェンリルは、悪ではありません。
この獣が神々に対して先に何かをした場面は、ひとつもありません。
生まれた。予言された。連れてこられた。育てられた。二度、正面から力比べを挑まれて勝った。三度目に騙されて縛られた。剣を口に突き立てられた。そして終末の日に、解放されて予言どおりに動いた。
すべて、他人が始めたことです。
フェンリルの言葉として残っているのは、たったひとつ。
これが魔術で作られたものなら、私は足を通さない。
警戒していました。 そのうえで、担保を要求した。取引としては正しい判断です。
神々はその担保を裏切り、笑いました。
予言を恐れて手元で育て、騙して縛り、そして予言どおりに呑まれる。 フェンリルの物語は、避けようとした行動が、そのまま予言を成就させたという話です。
書物によってフェンリルの記述が異なるところ
北欧神話は一冊にまとまっていません。フェンリルについても、 書物によって記述が分かれる箇所が1件あります。 どちらか一方に決めず、両方を出典つきで載せています。
記述が分かれるところ
新エッダ1220年頃
ギュルヴィたぶらかし 第51章
- ヴィーザル ─ 強い靴で顎を引き裂く ─ フェンリル
新エッダと『ヴァフスルーズニルの言葉』第53節は、強い靴で下顎を踏みつけ、上顎をつかんで引き裂いたと記す。靴は人が靴を作るときに切り落とした三角形の革を集めて作られたものだとされる。
古エッダ13世紀の写本
巫女の予言
- ヴィーザル ─ 剣を心臓に突き刺す ─ フェンリル
古エッダ『巫女の予言』では、ヴィーザルは剣を狼の心臓に突き刺したとされる。踏み裂くのか刺すのか、書物によって倒し方が違う。
フェンリルゆかりの地と遺跡
フェンリルを祀った場所はありません。 当然です。滅ぼす側の存在だからです。
しかし図像はよく残りました。 イギリス北部のヴァイキング入植地には、この狼を刻んだ石が複数あります。
祀るためではなく、語るために刻まれた。 神殿は残らず、物語だけが石に残った例です。
ゴスフォース十字架(Gosforth Cross)
顎を裂かれる狼が刻まれた十字架
ゴスフォース十字架の住所: イギリス カンブリア州ゴスフォース
ゴスフォース十字架に残るもの: 石十字架(10世紀)
高さ4メートルを超える石の十字架です。キリストの磔刑と並んで、ヴィーザルが狼の顎を引き裂く場面が刻まれています。
ヴァイキングの入植者がキリスト教へ移る過程で、新旧二つの神話を同じ石に彫った遺物です。
ラグナロク?の場面を描いた現存最古級の図像として重要視されています。
現在も教会の敷地に立ち、屋外で自由に見学できる。
フェンリルが現代に残した痕跡
フェンリルの名は、現代の創作でもっとも使われる北欧の言葉のひとつになりました。
ゲームでの定番の名: 巨大な狼や強力な敵の名として、無数の作品で使われている。北欧神話の固有名詞のなかで、トールやオーディンに次ぐ知名度がある。
グレイプニルという語: 「決して切れない拘束具」を指す言葉として、創作や比喩に用いられる。
ヴァーン川: フェンリルの口から流れた涎が川になったとされる。古ノルド語の詩に地名として現れる。
「狼の時代」という表現: 古エッダはラグナロク前夜を「斧の時代、剣の時代、狼の時代」と呼ぶ。混乱の時代を指す言い回しとして今も引用される。
フェンリルが司るもの
力
二度まで自力で鎖を破った。北欧神話で純粋な力がもっとも強い存在とされる。
拘束からの解放
千年の縛めを解いて自由になったことから、束縛を断つ象徴とされる。
フェンリルが登場するゲーム・アニメ
北欧神話でもっとも名前が使われている存在といえます。強大な狼という分かりやすさから、神々よりも創作での登場回数が多いほどです。
ただし多くの場合、ただ強い獣として扱われます。「騙されて縛られた側」という原典の構図は、ほとんど描かれません。
フェンリルが登場するゲーム
フェンリルが登場するアニメ・漫画・映像
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フェンリルについてよくある質問
フェンリルとは何ですか。
ロキの子である巨大な狼です。神々を滅ぼすと予言され、魔法の紐グレイプニルで縛られました。ラグナロクで解放され、オーディンを呑み込みます。
なぜ神々はフェンリルを殺さなかったのですか。
神々の聖域を血で汚すことを望まなかったためです。そのまま手元で育てた結果、手に負えない大きさに成長しました。
グレイプニルとは何ですか。
小人が作った魔法の紐です。猫の足音・女の髭・山の根・熊の腱・魚の息・鳥の唾という、この世に存在しない六つのもので作られており、決して切れません。
フェンリルはなぜテュールの手を噛んだのですか。
紐が魔術で作られたものではないという担保として、誰かの手を口に入れるよう要求したためです。テュールだけが応じ、紐が解けないと分かった時点で噛み切りました。
フェンリルはオーディンを殺すのですか。
そのとおりです。ラグナロクで縛めを解き、オーディンを呑み込みます。直後にオーディンの子ヴィーザルが顎を引き裂いて仇を討ちます。
フェンリルとフェンリスは同じですか。
同じです。フェンリスは Fenrisúlfr(フェンリルの狼)の前半を切り出した形で、本来は「フェンリルの」という意味の属格にあたります。
フェンリルと併せて覚えたい言葉・用語
グレイプニル(Gleipnir)
フェンリルを縛った魔法の紐。猫の足音・女の髭・山の根・熊の腱・魚の息・鳥の唾という、この世に存在しない六つのもので作られている。
新エッダ(しんエッダ)
1220年頃にアイスランドのスノッリ・ストゥルルソンが著した散文の書。神話を体系的に整理しており、現在の北欧神話の理解はこの書に多くを負う。
ラグナロク(Ragnarök)
北欧神話の終末。神々と巨人が戦い、双方がほぼ全滅して世界が焼け落ち、海に沈む。そののち新しい大地が浮かび上がる。