沈黙の神。強い靴でフェンリルの顎を裂き、父の仇を討つ。
ヴィーザルとは何の神様か
ヴィーザルはひとことで言えば沈黙の神です。オーディンと女巨人グリーズの子で、名は「森」あるいは「広い場所」を意味します。
この神は、力があるのに使いません。雷神トールに並ぶとされながら、その力を振るう場面はめったにありません。単に無口なのではなく、沈黙の誓いを立てることで力を蓄えているのだ、という説もあります。
住まいも変わっています。多くの神が立派な館を構えるなか、この神が選んだのは柴と丈の高い草が生い茂るヴィージという森でした。
そして終末の日、父オーディンが狼フェンリルに呑まれた直後に、この神が進み出ます。強い靴で下顎を踏み、上顎をつかんで引き裂く。 神話でもっとも力が集中した一撃です。
さらに重要なのは、その後です。この神はラグナロク?を生き延び、新しい世界を見守る側に立ちます。
ヴィーザルの名前の表記と読み方
古ノルド語では Víðarr(ヴィーザル)。日本語ではヴィザール、ヴィーダル、ビーザルとも書かれます。
名は「森」あるいは「広い場所」を意味するとされます。住まいの森ヴィージも同じ語根です。名前と住所が同じ語でできている、めずらしい神です。
『詩語法』は、この神を指す言い換え(ケニング)として「無口のアース」「鉄靴の所有者」「フェンリル狼の敵で殺し手」などを挙げます。三つとも、性格・持ち物・果たした一撃をそのまま呼び名にしたものです。名で語らせる神話らしい扱われ方といえます。
Víðarr(ヴィーザル)
古ノルド語の表記。「森」または「広い場所」を意味するとされる。
Vidar(ヴィーダル)
特殊な字を使わない綴り。日本語ではヴィザール、ビーザルとも書かれる。
Víði(ヴィージ)
この神が住む森の名。名前と同じ語根を持ち、「広がり」に通じる。
ヴィーザルの物語
沈黙 ─ 語らないことが力になる
この神は、ほとんど口をきかないことで知られます。
古エッダ?『ロキの口論』に、それがよく出ています。海の巨人エーギルの広間で神々が宴を開いていたところへ、ロキが乱入しました。オーディンに命じられ、席を立ってロキに酒をついだのがこの神です。
ロキはその後、居並ぶ神々の秘密をひとつずつ暴いていきます。ところが、酒をついだこの神だけは、ロキの罵詈雑言を浴びずに済んでいます。
何も言わなかったから、何も言われなかった。この一点だけでも、この神の立ち位置がよくわかります。
単におとなしいのではなく、沈黙の誓いを立てて力を蓄えているのだという説もあります。使わずに溜めた力を、終末の日に一度だけ使うことになります。
強い靴 ─ 捨てられた革から
この神の持ち物は、武器ではありません。靴です。
しかもその由来が独特です。人が靴を作るとき、爪先やかかとの部分を裁つと、三角形の革の切れ端が出ます。その捨てられた端切れを集めて作られたのが、この神の靴だと伝えられます。
鉄のように固く、狼の顎を踏み抜いても壊れません。
世界でいちばん重い一歩を支えているのは、人間が捨てた革です。 北欧の人々は、靴を作るときに端切れをていねいに捨てることで、この神の力に加わっているのだと語り伝えました。
神の武器を小人が鍛えるのが北欧神話の定型ですが、この靴だけは違います。人間が作った唯一の装備といえます。
フェンリルを裂く ─ 父の仇を討つ
ラグナロクの日、オーディンは狼フェンリルに呑まれます。
その直後に進み出るのが、この神です。『ヴァフスルーズニルの言葉』第53節と『ギュルヴィたぶらかし』第51章は、こう記します。
強い靴で下顎を踏みつけ、上顎をつかんで引き裂いた。
手順が具体的です。まず踏む。それから掴む。そして裂く。神話でもっとも大きな一撃が、道具ではなく体の動きとして書かれています。
ただし別の伝えもあります。古エッダ『巫女の予言』では、この神は剣を狼の心臓に突き刺したとされます。踏み裂くのか、刺すのか。書物によって違います。
どちらにしても、主神を呑んだ怪物を倒したのはこの神です。
生き残る ─ 新しい世界の側へ
ヴィシュヌとの比較 ─ 踏む神
フランスの比較神話学者ジョルジュ・デュメジルは、この神をインド神話のヴィシュヌと結びつけました。
ヴィシュヌは、世界を三歩で踏み越える神です。神々の敵である王が天と地と地底を支配したとき、小さな姿で現れて「三歩で歩ける広さの土地がほしい」と求め、承知されるや巨大化して天と地を踏み、三歩目を王の額に下ろしました。
ヴィーザルもまた、危機に際して初めて世界に介入し、一歩を狼の顎に下ろします。そして悪の力がいったん勝ったあとに現れ、世界の建て直しにあたります。
踏むことで秩序を取り戻す神という型が、二つの神話に共通しているというのがデュメジルの見立てです。語源の上でも関連づける説があります。
ヴィーザルの家系図と家族
ヴィーザルの性格と人物像
ヴィーザルは、待つ神です。
神話に出てくる回数はごくわずかで、そのほとんどが「そこにいた」という記述にとどまります。酒をつぎ、黙って座り、森に帰る。
力があるのに使わないというのは、力が無いのとはまったく別のことです。 ロキに何を言われても言い返さなかったのは、言い返す価値を認めなかったからだとも読めます。
住まいの選び方にも、この神の性格が出ています。館ではなく、手の入っていない森。柴が生い茂り、丈の高い草に覆われた場所です。人が整えたものを必要としていません。
そして一度だけ立ち上がり、一度だけ足を下ろします。それで終わりです。
沈黙は無関心ではなく、蓄えでした。この神の姿は、そう読むようにできています。
書物によってヴィーザルの記述が異なるところ
北欧神話は一冊にまとまっていません。ヴィーザルについても、 書物によって記述が分かれる箇所が1件あります。 どちらか一方に決めず、両方を出典つきで載せています。
記述が分かれるところ
新エッダ1220年頃
ギュルヴィたぶらかし 第51章
- ヴィーザル ─ 強い靴で顎を引き裂く ─ フェンリル
新エッダと『ヴァフスルーズニルの言葉』第53節は、強い靴で下顎を踏みつけ、上顎をつかんで引き裂いたと記す。靴は人が靴を作るときに切り落とした三角形の革を集めて作られたものだとされる。
古エッダ13世紀の写本
巫女の予言
- ヴィーザル ─ 剣を心臓に突き刺す ─ フェンリル
古エッダ『巫女の予言』では、ヴィーザルは剣を狼の心臓に突き刺したとされる。踏み裂くのか刺すのか、書物によって倒し方が違う。
ヴィーザルゆかりの地と遺跡
ヴィーザルが現代に残した痕跡
この神の名は、詩の言い換えと、比較神話学の議論のなかに残っています。
ケニング「無口のアース」: 『詩語法』が挙げるこの神の言い換え。ほかに「鉄靴の所有者」「フェンリル狼の敵で殺し手」がある。性格と持ち物と功績が、そのまま呼び名になっている。
靴の端切れの言い伝え: 人が靴を作るときに切り落とした三角形の革を集めて、この神の靴が作られるという話。端切れをていねいに捨てる習わしの由来として語られた。
デュメジルの比較: インド神話のヴィシュヌと同じ「踏む神」の型に属するとした説。危機に一度だけ介入し、その後の世界の建て直しにあたる点が共通するとされる。
ヴィーザルが司るもの
復讐
父オーディンを呑んだ狼を討った神として語られる。
忍耐
沈黙の誓いを立てて力を蓄えたとする説がある。
再生
終末を生き延び、新しい世界を見守る側に立つ。
ヴィーザルについてよくある質問
ヴィーザルは何の神ですか。
特定の領域を司る神ではありません。沈黙の神と呼ばれ、オーディンと女巨人グリーズの子で、ラグナロクで狼フェンリルを倒す役目を負っています。
なぜ沈黙の神と呼ばれるのですか。
ほとんど口をきかず、ロキが神々を罵る場面でも黙って酒をついでいたためです。単に無口なのではなく、沈黙の誓いによって力を蓄えているのだとする説があります。
ヴィーザルの靴とは何ですか。
人が靴を作るときに切り落として捨てた三角形の革を集めて作られた靴です。鉄のように固く、これで狼フェンリルの下顎を踏みつけて引き裂いたとされます。
ヴィーザルはラグナロクを生き延びますか。
生き延びます。世界を焼いたスルトの炎さえこの神を傷つけられなかったとされ、よみがえったバルドルたちとともに新しい世界を見守る神の一柱になります。
ヴィーザルと併せて覚えたい言葉・用語
ラグナロク(Ragnarök)
北欧神話の終末。神々と巨人が戦い、双方がほぼ全滅して世界が焼け落ち、海に沈む。そののち新しい大地が浮かび上がる。
古エッダ(こエッダ)
詩の形で伝わる北欧神話の歌謡集。13世紀の写本に収められたが、成立はさらに古い。作者は不明。