自分の体で草を試し、農耕と医薬を人に教えた神。炎帝と同一視される。
神農とは何の神様か
神農はひとことで言えば自分を実験台にした神です。
三皇の一柱で、農耕と医薬の祖とされます。漢代に五行の考え方が広まると、南を司る炎帝と同じ神とされるようになりました。
伝えられる功績は二つです。木で農具を作り、五穀をまくことを教えたこと。そして、あらゆる草を口にして、薬か毒かを見極めたことです。
一日に七十回、中毒した。
『淮南子』はそう記します。赤い鞭で草を払い、嘗めて確かめたとされます。体は頭と手足を除いて透き通っていて、毒を飲むと内臓が黒くなるのが外から見えたという伝えも残ります。
最後は毒に当たって命を落としたとされます。四川省には「断腸草」を嘗めたのが最後だった、という伝えがあります。
人のために自分の体を差し出した神は、中国神話でこの一柱です。
神農の漢字表記と読み方
日本語ではしんのうと読みます。
大阪の道修町では「神農さん」と親しみをこめて呼ばれ、毎年十一月の祭りは神農祭と呼ばれています。
「炎帝」という呼び名は、後から重ねられたものです。 漢代に五行説が広まり、南の方角と火を司る帝として炎帝が置かれたとき、農耕の神である神農がそこに当てられました。もとは別の神格だったと考えられています。
道教の廟では神農大帝、薬の神としては薬王大帝とも呼ばれます。
神農(しんのう)
もっとも一般的な表記。
炎帝神農(えんていしんのう)
南を司る炎帝と同じ神とされたあとの呼び名。日本の神農信仰でもこの形が使われる。
神農大帝(しんのうたいてい)
道教の廟での尊称。「薬王大帝」「五穀仙帝」とも呼ばれる。
神農の物語
百草を嘗める ─ 透き通った体
神農の名を残したのは、自分の口で草を試したという一点です。
『淮南子』はこう記します。
昔の人は、手当たり次第に野草や木の実、貝を口にしたので、病になり毒に当たって苦しんだ。 そこで神農は、五穀の育て方と土地の見分け方を教え、草を吟味して食べてよいものと毒とを分けた。 このとき多くの草を食べたので、一日に七十回も中毒した。
見極めの道具として、赭鞭という赤い鞭が伝えられます。これで草を払うと性質がわかったとされます。
さらに独特なのが体の話です。玲瓏玉体と呼ばれ、頭と手足を除いて透き通っていた。毒を飲むと内臓が黒く染まるので、どこに毒が回るかまで見えたというのです。
実験の結果が、外から見える体。 神話が「薬を見分ける」という営みを説明しようとした形として、これ以上ないものです。
農具と市場 ─ 暮らしの形を作る
薬の話に隠れがちですが、神農はまず農耕の神です。
『周易』繋辞伝下は、こう伝えます。
伏羲が没すると神農が治めた。 木を加工して農具を作り、その使い方を民に教え広めた。
続けて、もうひとつの功績が記されます。
昼に市場を開き、民を呼び寄せた。 あらゆる品が集まり、人々は交換して帰り、それぞれ望むものを手にした。
物々交換の場を作ったのも神農だというのです。『十八史略』にも「人をして日中に市をなさしめ交易して退く」とあります。
農具・種まき・市場。この三つがそろって、はじめて「暮らし」が成り立ちます。 医薬の話が有名になりすぎて、こちらは知られていませんが、神農が三皇に数えられる理由はむしろこちらにあります。
炎帝と重なる ─ 黄帝との関係
漢代に五行説が広まると、神農は南を司る炎帝と同じ神とされました。
『帝王世紀』は、その誕生をこう伝えます。母が華陽で遊んでいたときに神竜が現れ、感応して身ごもった。生まれた子は体は人だが頭は牛であった、と。
炎帝と黄帝の関係も語られます。『国語』によれば、二柱は少典が娶った有蟜氏の子で、
姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗った。
とされます。異母兄弟という位置づけです。
のちに炎帝の一族と黄帝の一族は衝突し、合わさりました。その子孫が漢族だとされ、現代でも中国の人々を炎黄子孫と呼ぶ言い方が残っています。
神農を討った黄帝の側も、神農の子孫と混ざったことになっている。 敵対と融合が同じ話に収まっているのが、この系譜の特徴です。
日本に渡る ─ 道修町の神農さん
神農の信仰は、日本にも渡っています。
大阪市中央区の道修町にある少彦名神社は、日本の医薬の神である少彦名命とともに、中国医薬の祖神・炎帝神農を祀っています。公式の案内にそう明記されています。
道修町は、江戸時代から薬の商いが集まった町です。薬種商たちが、日本と中国の医薬の祖を二柱そろえて祀りました。
日本医薬総鎮守。
社はそう名乗っています。毎年十一月の例大祭は神農祭と呼ばれ、大阪では「一年の最後の祭り」として知られます。
薬の町が、薬の神を自分たちで祀った。 神話が輸入されたのではなく、仕事の必要から呼ばれた例にあたります。
江戸時代の薬屋の看板や引き札にも、神農の姿はしばしば描かれました。
神農の家系図と家族
神農の性格と人物像
神農の性格は、「自分でやってみる」の一語に尽きます。
黄帝は臣下に発明をさせ、伏羲は観察し、女媧は作って直します。神農だけが、自分の体を差し出しています。
しかも、その結果として死んでいます。断腸草を嘗めて腸がちぎれた、という伝えは痛ましいものですが、神話がこの神に死を与えたことには意味があります。
薬の知識は、誰かが毒に当たることでしか集まりません。神農は、その最初の一人を引き受けた存在として語られています。
民のために毒を飲む神。
医薬の祖にふさわしい人物像が、ここにあります。
もうひとつの顔が、市場を開いた神です。物を交換する場を作るのも、薬を選り分けるのも、根は同じでしょう。何が何と釣り合うかを見定める働きです。
牛の頭を持つとされるのも、農耕の神らしい姿と言えます。
神農を祀る廟と道観
日本で神農を祀る社として確かめられたのは、大阪の少彦名神社です。 公式の案内に炎帝神農を祀ると明記されており、住所もそこに記されたものを使いました。
中国と台湾には神農大帝を祀る廟が数多くあります。台湾では神農大帝または五穀先帝として農村部で広く祀られています。ただし、それぞれの公式の記載を確かめられなかったため、この欄には入れていません。
確かめられた一社だけを載せ、残りは本文で触れるにとどめます。
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)
薬の町・道修町の氏神
少彦名神社の住所: 〒541-0045 大阪府大阪市中央区道修町2-1-8
少彦名神社の祀られた神: 少彦名命・炎帝神農
少彦名神社に残るもの: 社殿・神農祭の張子の虎
少彦名神社のご利益: 病気平癒・医薬
公式の案内に「日本医薬の祖神・少彦名命と中国医薬の祖神・炎帝神農をお祀りし」と明記されています。日本と中国の医薬の祖を、二柱そろえて祀る社です。
道修町は江戸時代から薬種商が集まった町で、日本医薬総鎮守として信仰されてきました。
毎年十一月の例大祭は神農祭と呼ばれ、大阪で一年の最後を飾る祭りとされています。
神農祭では、笹に張子の虎を付けた授与品が知られる。
神農が現代に残した痕跡
神農の名は、薬と農の言葉として残りました。
神農本草経: 現存する最古の本草書の名。神農の名を冠している。漢方の薬の分類はここに始まる。
神農祭: 大阪・道修町の少彦名神社で毎年十一月に行われる祭り。大阪で一年の最後の祭りとされる。
炎黄子孫: 炎帝と黄帝の子孫、の意。中国の人々が自らを指して用いる言い方として現代まで残る。
茶の起源譚: 『神農本草経』には、神農が茶を見つけて解毒に用いた話が収められる。『茶経』は神農を茶の始祖とする。
神農のご利益
病気平癒
医薬の祖とされ、病を癒す願いを受ける。日本の薬の町でも同じ働きで祀られる。
医薬
薬草と毒草を見分けた神として、薬にかかわる人々の守り神とされる。
五穀豊穣
農具を作り、五穀をまくことを教えた神として、実りを願う対象になる。
商売繁盛
市場を開いて交易を始めたとされ、商いの神としても仰がれる。
神農が登場するゲーム・アニメ
神農は、創作での登場が少ない神です。 戦う場面がなく、物語の起伏を作りにくいためと考えられます。
かわりに、薬局や製薬会社の由来書き、漢方の解説など、実務の場で名が引かれ続けています。作り物の中よりも、暮らしの中に残った神です。
神農が登場するゲーム
中国史を題材にした戦略ゲーム
古代の帝として、また技術の名として登場することがあります。
神農が登場するアニメ・漫画
封神演義(漫画・アニメ)
直接の登場は限られますが、殷の前史として炎帝神農の系譜が触れられます。
医薬を題材にした作品
漢方や薬草を扱う作品で、祖として名が引かれることがあります。
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神農についてよくある質問
神農は何の神様ですか。
農耕と医薬の祖とされる神です。木で農具を作り五穀をまくことを教え、あらゆる草を口にして薬草と毒草を見分けたとされます。市場を開いて交易を始めた神ともされます。
神農と炎帝は同じ神ですか。
漢代に五行説が広まってから同じ神とされるようになりました。南の方角と火を司る炎帝に、農耕の神である神農が重ねられたものです。もとは別の神格だったと考えられています。
一日に七十回中毒したというのは本当ですか。
『淮南子』にそう記されています。事実の記録ではなく、薬草と毒草を見分ける営みがどれほど危険だったかを伝える語り方と読むのが妥当です。
神農は日本でも祀られていますか。
祀られています。大阪市中央区道修町の少彦名神社が、日本の医薬の神である少彦名命とともに、中国医薬の祖神・炎帝神農を祀っています。毎年十一月の例大祭は神農祭と呼ばれます。
神農はどうやって亡くなったのですか。
あまりに多くの毒草を口にしたため、体に毒がたまって亡くなったと伝えられます。四川省には「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだとする伝えが残ります。