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ギリシャ神話

エルピスとは何の神様か|家系図・物語

Ἐλπίς  / エルピス

大地 原初の神

希望。パンドラの壺の縁に、ただ一つ残ったもの。

エルピスとは何の神様か

エルピスはひとことで言えば残ったものです。

希望、あるいは先の見込みを指す語であり、その神格化です。ローマではスペースが対応します。

知られているのは、ヘシオドス『仕事と日』のたった一段です。パンドラが壺の蓋を開けると、災いがいっせいに飛び出しました。

ただエルピスだけが、壺の縁の内側にとどまった。 蓋がその手前で閉じられたからである。

この一行の読み方は、二千年ものあいだ割れています。 人のもとに希望が残ったのか、それとも壺に閉じ込められて人には無いのか。

ギリシャ語のエルピスは、良い予想と悪い予想の両方を指します。 「希望」と訳すと、この幅が消えてしまいます。

悲劇では、しばしば人を破滅させるものとして語られました。当てにならないものを当てにする、という文脈です。

ギリシャの希望は、日本語の希望より暗い言葉です。

エルピスのギリシャ名・ローマ名と読み方

古代ギリシャ語では Ἐλπίς。日本語では「エルピス」「エルピース」と書きます。

この語の訳し方は、訳者を悩ませ続けてきました。

日本語の「希望」は、良いことを待つ気持ちを指します。ギリシャ語のエルピスには、その限定がありません。 悪いことが起きるだろうという予想にも、同じ語が使われます。

これから何が来るかを、先回りして思うこと。 それがエルピスである。

だから「予期」と訳す研究者もいます。中立の語です。

この違いは、パンドラの壺の解釈に直結します。壺に残ったのが「希望」なら救いですが、「これから来ることを先に思う力」なら、話が変わります。

ローマではスペースが対応します。こちらは、良い見込みの側に寄った語です。

現代語で希望を意味する語の多くは、スペースの系統から出ています。ギリシャ語の幅は、ローマを経由する段階で狭められました。

Ἐλπίς(エルピス)

古代ギリシャ語の表記。「先を思うこと」「予期」を意味する普通名詞でもあり、良い予想にも悪い予想にも使われる。

エルピース(エルピース)

長音を残した学術的な表記。

Spes(スペース)

ローマで対応させられた女神。ローマでは実際に神殿を持ち、公に祀られた。

希望(きぼう)

日本語での訳し方。ただしギリシャ語のエルピスは良い見込みに限らないため、「予期」と訳す研究者もいる。

エルピスの物語

  1. 壺の縁に残る ─ 原典はどう書いているか
  2. 残ったのか、閉じ込められたのか ─ 二千年の論争
  3. 悲劇のなかの希望 ─ なぜ暗く語られるのか
  4. ローマでは祀られた ─ スペースとの違い

壺の縁に残る ─ 原典はどう書いているか

まず、原典を確かめます。ヘシオドス『仕事と日』の該当箇所です。

それまで人間は、災いを知らずに暮らしていた。 苦しい労苦も、死をもたらす病も無かった。 ところが女は、手で大きな壺の蓋を取り、 中のものを撒き散らした。 人間には苦しい悩みが生まれた。

続きが問題の箇所です。

ただエルピスだけが、壺の縁の内側の、 壊れることのない住まいにとどまった。 蓋がその手前で閉じられ、外へ飛び出さなかったからである。 大神ゼウスの意向によることであった。

「とどまった」と書かれています。 出たとも、人に与えられたとも書かれていません。

そして、続く行はこうです。

数え切れない災いが、人のあいだをさまよっている。 大地は悪いもので満ち、海も満ちた。

災いは外に出て、エルピスは中にある。 原典が言っているのは、そこまでです。

この短さが、二千年の議論を生みました。書かれていないことが多すぎるのです。

壺は誰のものだったのか。なぜエルピスが入っていたのか。蓋を閉じたのは誰か。ゼウスの意向とは、何を意図したものか。

ヘシオドスは、一つも説明していません。

残ったのか、閉じ込められたのか ─ 二千年の論争

この一段の読み方は、大きく二つに分かれます。

一つ目は、慰めとして読む説です。

災いはすべて出て行ってしまったが、希望だけは人の手元に残った。だから人は、どんな目に遭っても生きていける。壺は人のそばにあり、蓋を開ければ希望を取り出せるという読み方です。

二つ目は、逆に読む説です。

壺の中にあるものは、人が持っていないものです。災いは出て来て人を襲い、希望だけは閉じ込められたまま。人には希望が無い。 これがゼウスの罰の仕上げだった、という読み方になります。

どちらにも、原典上の根拠があります。

壺の中にあるものが手元にあるのか、 それとも手が届かないのか。 ヘシオドスは書いていない。

三つ目の読み方もあります。エルピスを「予期」と取る立場です。

この場合、話が変わります。これから何が来るかを先に知ってしまう力が閉じ込められた、と読むのです。もし人が自分の死ぬ日を正確に予期できたら、生きていられません。知らないことが、人への恵みだったことになります。

この読み方は近代に有力になりました。ギリシャ悲劇でエルピスが人を破滅させるものとして語られることとも、よく合います。

どれが正しいとも決まっていません。 ここは、決着していないことを知っておくのが正確です。

悲劇のなかの希望 ─ なぜ暗く語られるのか

ギリシャ悲劇で、エルピスは良いものとして扱われません。

ソポクレスの作品には、こういう一節があります。

多くの人にとって、エルピスは益になる。 しかし多くの人にとっては、軽い思いによる欺きである。 何も知らぬまま踏み込み、火に足を焼くまで気づかない。

当てにならないものを当てにする力、として書かれています。

歴史家トゥキュディデスは、もっと辛辣です。強国に囲まれた小さな島の人々が、望みをつないで抵抗しようとする場面で、

エルピスは、危険のときの慰めである。 余裕のある者が使えば損は小さいが、 すべてを賭ける者を破滅させる。

と書きました。実際、その島の人々は皆殺しにされます。

なぜギリシャ人は希望をこう扱ったのか。

理由の一つは、運命観でしょう。定めが動かないと考える文化では、先を当てにすること自体が危うい行いになります。

もう一つは、言葉の幅です。エルピスは良い予想にも悪い予想にも使われます。日本語の「希望」よりずっと中立で、そのぶん外れることも織り込まれています。

それでも、この語が完全に否定されているわけではありません。「多くの人にとっては益になる」という一句も、同じ文のなかにあります。

ローマでは祀られた ─ スペースとの違い

ギリシャのエルピスには、祭祀の記録がほとんど見つかりません。ローマでは違いました。

ローマで対応する女神はスペースです。この女神には神殿がありました。 紀元前三世紀、戦争の最中に誓願されて建てられたと伝えられます。

苦しいときに願い、勝ったら建てる。 ローマの神殿は、しばしばこの形で作られた。

貨幣にも打たれました。花を持ち、衣の裾を軽くつまんで歩く若い女性の姿です。前へ進む姿勢が、この女神の図像になっています。

皇帝が代わるたびに「新しい希望」を掲げる貨幣が出されました。次の世代への見込みを示す看板として使われたのです。

ギリシャとローマで、なぜこれほど扱いが違うのか。

語の意味の幅が違うからだと考えられます。ギリシャ語のエルピスは良い予想にも悪い予想にも使われますが、ローマのスペースは良い見込みの側に寄っています。

祈る対象にするなら、意味が良い側に定まっているほうが都合がよいわけです。

現代語で希望を指す語の多くは、スペースの系統から出ています。私たちが使っている「希望」という言葉は、ギリシャよりローマに近いところにあります。

エルピスの家系図と家族

エルピスの性格と人物像

エルピスには、姿も台詞も物語もありません。

原典に書かれているのは、壺の縁の内側にとどまったという一行だけです。ギリシャ神話でもっとも有名な一場面に登場しながら、この存在について分かることはほとんどありません。

それでも、位置から読み取れることはあります。

この神は、災いと一緒に入っていました。 壺の中身は、人間に配られるはずの災いです。そのなかにエルピスが混ざっていたことになります。

希望は、災いの仲間として壺に入っていた。

この事実だけで、ギリシャ人の受け止め方はある程度わかります。良いものだけを別枠に入れていたわけではありません。

もう一つ、この神は動きません。 飛び出さず、留まりました。他のものはすべて外へ出たのに、これだけが中に残ります。

受け身であることが、この存在の唯一の性格です。

そして、そのせいで解釈が割れました。中にあるものが手元にあるのか、手が届かないのか。解釈を決めるための材料が、原典に無いのです。

書かれていないことが、これほど長く議論された例は多くありません。 一行の空白が二千年もつのは、それだけこの問いが人にとって切実だからでしょう。

エルピスゆかりの地と遺跡

ギリシャでエルピスを祀った神殿は確かめられませんでした。

理由は、この語が良い見込みに限られなかったからだと考えられます。悪い予想にも同じ語を使うため、祈る対象として定まりにくかったのです。

ローマでは違いました。 対応する女神スペースには神殿があり、戦争の最中に誓願されて建てられたと伝えられます。貨幣にも繰り返し打たれ、皇帝が代わるたびに「新しい希望」を掲げる図案が出されました。

ただし、その神殿の位置を現在の地図の上で確定できる資料は見つかりませんでした。 この図鑑では、確かめられない住所を書かない方針を取っています。

ゆかりの場所として語られるのは、パンドラの壺の伝承地です。しかし壺そのものは物語のなかの器で、遺物として残るものではありません。

祀られた記録がギリシャに無いことと、忘れられたことは別です。 この語は、悲劇にも歴史書にも哲学書にも現れ続けました。

エルピスが現代に残した痕跡

エルピスの名は、ローマ名を経由して現代語の「希望」になりました。

希望を意味する現代語: ローマで対応したスペースの名から、ヨーロッパ各国語の希望を指す語が生まれた。ギリシャ語が持っていた「悪い予想」の意味は、この段階で落ちている。

パンドラの壺という言い回し: 開けてはいけないもの、触れると災いが広がるものを指す表現。最後に残ったものをどう読むかは、いまも解釈が分かれる。

前へ進む女性像: ローマの貨幣に打たれた、花を持ち衣の裾をつまんで歩く姿。希望の擬人像として後世の美術に受け継がれた。

小惑星エルピス: 小惑星の一つにこの女神の名が付けられている。

エルピスが司るもの

心願成就

願いをかけて先を待つ働きを司る。ローマでは神殿を持ち、公に祀られた。

願望成就

ローマのスペースは花を持って前へ進む姿で表され、次の世代への見込みを示した。

先の見込み

ギリシャ語のエルピスは、良い予想にも悪い予想にも使われる中立の語である。

再起

災いがすべて出たあとに残ったものとして語られる。

やり直し

壺に残った唯一のものという位置づけから、立て直しの願いと結びつけられた。

エルピスが登場するゲーム・アニメ

創作でのエルピスは、人物としてではなく「問い」として扱われることがほとんどです。 壺に残ったものが救いなのか、それとも手の届かない場所に閉じ込められたのか。この二択が、そのまま作品の主題になります。

姿も台詞も原典に無いため、擬人化するときはローマのスペースの図像が使われます。花を持ち、前へ歩く若い女性の姿です。

エルピスが登場する絵画・彫刻

パンドラを描いた絵画

壺の蓋を開ける場面が繰り返し描かれました。飛び出す災いを煙や人影として表し、底に一つだけ残るものを描き込む作例があります。

ローマの貨幣

花を持ち、衣の裾をつまんで歩く若い女性の姿で打たれました。前へ進む姿勢が図像の要です。

エルピスが登場する文学・創作

ヘシオドス『仕事と日』

壺の縁の内側にとどまったという一段が、この存在についてのほぼ唯一の原典です。

希望を扱う作品

残ったものが救いなのか罰なのか、という問いの立て方が、いまも物語の主題として使われます。

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エルピスについてよくある質問

エルピスはどんな神ですか。

希望、あるいは先の見込みを指す語であり、その神格化です。ヘシオドス『仕事と日』で、パンドラが壺の蓋を開けたとき、ただ一つ壺の縁の内側にとどまったものとして語られます。

希望は人に残ったのですか、閉じ込められたのですか。

決着していません。壺が人のそばにあるなら手元に残ったことになり、中にあるものが人の持たないものなら閉じ込められたことになります。ヘシオドスは「とどまった」と書くだけで、どちらとも説明していません。

ギリシャ語の希望は日本語と同じ意味ですか。

違います。ギリシャ語のエルピスは、良い予想にも悪い予想にも使われる中立の語です。「これから何が来るかを先回りして思うこと」に近く、「予期」と訳す研究者もいます。日本語の「希望」に当たる限定は、ローマのスペースを経由する段階で加わりました。

なぜ悲劇では悪いものとして語られるのですか。

当てにならないものを当てにする力として書かれるためです。ソポクレスは「軽い思いによる欺き」と書き、歴史家トゥキュディデスは「すべてを賭ける者を破滅させる」と書きました。定めが動かないと考える文化では、先を当てにすること自体が危うい行いになります。

エルピスを祀った神殿はありますか。

ギリシャでは確かめられませんでした。ローマでは対応する女神スペースに神殿があり、戦争の最中に誓願されて建てられたと伝えられます。ただしその位置を現在の地図の上で確定できる資料は見つかりませんでした。