欺きそのもの。夜の女神が、父なしに生んだ子。
アパテとは何の神様か
アパテはひとことで言えばだますことそのものです。ローマ名はフラウス。
ヘシオドス『神統記』は、夜の女神ニュクスが父を持たずに生んだ子として名を挙げます。
欺きと、愛しさと、破滅の老いと、 強情な争いを生んだ。
「だますこと」と「愛しさ」が、隣り合って置かれています。 心を動かすことと欺くことは、ギリシャ人にとって近いところにありました。
この女神は、パンドラの壺から飛び出した災いの一つに数えられることがあります。ただしヘシオドス自身は、壺から出たものの名を一つも書いていません。後の時代に足された整理です。
物語はありません。名前だけが系譜に残っている神です。
姉妹に、争いの女神エリスがいます。エリスは林檎ひとつでトロイア戦争?を起こしましたが、アパテには、そういう出番がひとつも見つかりませんでした。
アパテのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἀπάτη。日本語では「アパテ」「アパテー」と書きます。
意味は「欺き」です。ただし、この語には幅があります。 悪意ある詐欺だけでなく、思い違いをさせること全般を指しました。
哲学の文章では、「感覚に欺かれる」という言い方で使われます。目や耳が本当のことを伝えないという意味で、そこに悪者はいません。
悲劇論では、もっと積極的な使い方もありました。観客をうまく欺いた劇こそ優れているという考え方があったと伝えられます。作り話に引き込むことが、この語で表されました。
ローマ名はフラウス。こちらは法律の言葉でもあり、詐欺を指します。ギリシャ語より狭い意味です。
現代語では、この語根から「欺かれない」「思い違いをしない」を意味する語が作られています。
名前は同じでも、指す範囲は言語によってずれます。 アパテはその分かりやすい例です。
Ἀπάτη(アパテ)
古代ギリシャ語の表記。欺き・だますことを意味する普通名詞でもある。
アパテー(アパテー)
長音を残した学術的な表記。
Fraus(フラウス)
ローマで対応させられた女神。詐欺・不正を意味するラテン語で、法律用語としても使われた。
ドロス(ドロス)
「たくらみ」「わな」を意味するギリシャ語。同じ働きを指す語として、詩のなかで並べて使われる。
アパテの物語
夜が生んだ子ら ─ 並びから読めること
アパテについて確実に言えるのは、系譜だけです。それも一行しかありません。
ヘシオドス『神統記』は、夜の女神ニュクスの子らを列挙します。
忌まわしい定め、黒いケール、死、眠り、夢の族。 そして、誰とも交わらずに、非難と苦しい悲嘆を生んだ。 さらにヘスペリデス、モイライ?、ケール、ネメシス、 欺き、愛しさ、破滅の老い、強情な争いを生んだ。
この並びの読み方が、しばしば議論になります。
「欺き」の隣に「愛しさ」が置かれているからです。
愛しさを意味する語は、恋の甘さや親しみを指します。恐ろしいものの列挙のなかに、なぜこれが混ざっているのか。
考えられる説明は二つあります。
一つは、恋が人を惑わせるという見方です。ギリシャの詩では、恋は病であり狂気であるとしばしば語られます。
もう一つは、欺きと魅力が同じ道具を使うという見方です。相手の心を自分の望む方向へ動かす、という点で、二つは同じ働きをします。
だますことと、好かれること。 どちらも、相手の判断を変えている。
ヘシオドスがどちらを考えていたのかは分かりません。並べただけで、説明はしていません。
パンドラの壺 ─ 中身の名は書かれていない
アパテは、パンドラの壺から出た災いの一つとして紹介されることがよくあります。この記述には注意が要ります。
ヘシオドス『仕事と日』の該当箇所を見てみます。
女は手で大きな壺の蓋を取り、 中のものを撒き散らした。 人間には苦しい悩みが生まれた。 ただエルピスだけが、壺の縁の内側にとどまった。
中から出たものの名は、一つも書かれていません。
続けて、こうあります。
数え切れない災いが人のあいだをさまよう。 大地は悪いもので満ち、海も満ちた。 病は昼も夜も、人のもとを勝手に訪れる。 声を出さないようにゼウスが定めたからである。
「数え切れない災い」とあるだけです。
では、なぜアパテの名が挙がるのか。後の時代の著述家が、ニュクスの子らのリストと壺の中身を結びつけたからです。夜が生んだ災いの一覧が、そのまま壺の中身として扱われました。
ローマの著述家ヒュギヌスの書物には、夜と闇から生まれたものとして、欺き・老い・争い・悲嘆などが並びます。この一覧が、壺の中身の説明に使われてきました。
筋は通っていますが、ヘシオドスがそう書いたわけではありません。 この図鑑では、両方を書き分けています。
欺きと説得 ─ ペイトーとの距離
ギリシャには、説き伏せる力を神格化した女神もいます。ペイトーです。
アフロディテに付き従い、恋の場面で相手の心を動かします。同時に、弁論の女神でもありました。裁判や民会で人を納得させる力が、この女神の受け持ちです。
アパテとペイトーは、同じことをしています。 どちらも、相手の判断を自分の望む方向へ動かします。
違いはどこにあるのか。
ペイトーは、相手に納得させる。 アパテは、相手に思い違いをさせる。
言い換えれば、真偽の差ではなく、手続きの差です。
ペイトーはアテネで祀られました。祭壇が置かれ、公の祭りで名を呼ばれています。アパテは祀られていません。
この差は、ギリシャ人の価値観をよく示しています。言葉で人を動かすこと自体は、悪いことではありません。 弁論は市民の技術であり、教育の中心でした。
しかし、思い違いをさせることは別です。同じ結果を得ても、途中が違えば扱いが変わります。
アパテに祭壇が無いのは、この線引きの結果だと考えられます。神として名前は与えられたが、祈る相手にはならなかった神です。
なぜ物語が無いのか ─ 一行だけの神
アパテには、まとまった物語がありません。 単独で動く場面が、原典に一つも見つかりませんでした。
意外に思われるかもしれません。ギリシャ神話には、だます話が数え切れないほどあるからです。
プロメテウスはゼウスを騙して供物の分け前を取り、 オデュッセウスは木馬でトロイアを落とし、 ヘラは帯を借りてゼウスを眠らせた。
しかし、そのどれにもアパテは出てきません。
理由は、ギリシャ神話における欺きの扱い方にあります。だますことは、神や英雄自身の技として描かれます。外から来る力ではありません。
惑いの女神アーテは人の頭の上を歩き、外から判断を狂わせます。しかし欺きは、やる側の腕前です。 誰かに憑かれてだますのではなく、自分でだまします。
そうなると、独立した神格の出番がありません。
姉妹のエリスと比べると差がはっきりします。争いは、当事者の意思と関係なく起きるものです。だから林檎を投げ入れる出番が作れます。
欺きには、投げ入れるものがない。 アパテが系譜の一行で終わったのは、そのためだと思われます。
それでも名前が残ったのは、この語が日常語だったからです。神としては消えても、言葉としては使われ続けました。
アパテの家系図と家族
アパテの性格と人物像
アパテには、性格を語れる材料がありません。
台詞も、姿の描写も、単独の場面も、原典には見当たりませんでした。あるのは、ヘシオドスの系譜の一行だけです。
それでも、置かれた場所から読めることはあります。
この女神は、夜の子です。 死・眠り・夢・老い・争いと同じ列に並んでいます。欺きは、人が恐れるものの側に置かれました。
そして、隣にいるのが愛しさです。この配置が示すのは、心を動かす働きが、良い方にも悪い方にも転ぶという理解でしょう。
もう一つ、この女神は祀られていません。 同じく人の心を動かす女神ペイトーがアテネで祭壇を持っていたのと対照的です。
説き伏せることは技術で、 だますことは災いである。
ギリシャ人はこの線を引きました。線の向こう側に置かれた神が、アパテです。
創作でも、この女神が主役になることはほとんどありません。だます役は、いつも神や人間の側が務めるからです。
欺きは、外から来ない。 アパテの居場所が無い理由は、そこにあります。
アパテゆかりの地と遺跡
アパテを祀った神殿はありません。 神として名前は与えられましたが、祈る相手にはならなかった存在です。
対比になるのが、説き伏せる力の女神ペイトーです。アテネで祭壇が置かれ、公の祭りで名を呼ばれました。同じく人の心を動かす神でありながら、片方は祀られ、片方は祀られていません。
この差は、ギリシャ人の線引きを示しています。言葉で人を納得させることは市民の技術であり、教育の中心でした。思い違いをさせることは、その外に置かれました。
遺物としても、この女神を表した確かな作例は見つかりませんでした。ローマで対応したフラウスについても同様です。
名前が残ったのは、祭祀のおかげではなく、この語が日常語として使われ続けたからです。神としては消えても、言葉としては生き延びました。
アパテが現代に残した痕跡
アパテの名は、言葉として現代に残りました。
欺きを意味する語根: 「欺かれない」「思い違いをしない」を意味する語が、この語根から作られている。
ローマのフラウス: 詐欺・不正を意味するラテン語で、法律用語としても使われた。ヨーロッパ各国語の詐欺を指す語はここから出ている。
悲劇論での使われ方: 観客をうまく欺いた劇こそ優れている、という考え方が古代にあったと伝えられる。作り話に引き込むことをこの語で表した。
夜の子らの一覧: ヘシオドスが挙げた夜の子らの並びは、後にパンドラの壺の中身の説明として使われるようになった。原典に中身の名は書かれていない。
アパテが司るもの
機転
相手の思い違いを利用する働きを司る。ギリシャ語の欺きは思い違いをさせること全般を指す。
交渉
説き伏せる女神ペイトーと同じ働きを持ちながら、手続きの違いで分けられた。
露見しないこと
夜の女神ニュクスの子であり、隠れた働きを担う。
秘密を守る
知られないでいることを司る側に置かれた神である。
戒め
祀られなかったこと自体が、だますことへの線引きを示している。
アパテが登場するゲーム・アニメ
創作でアパテが登場する例は、多くありません。だます役は、いつも神や人間の側が務めるからです。 欺きは外から来る力ではなく、やる側の腕前として描かれます。
使われるとしても、名前だけであることが大半です。原典に姿も台詞も無いため、借りられるのは語の意味に限られます。
アパテが登場する文学
ヘシオドス『神統記』
夜の女神ニュクスの子として名が挙がります。この神についての、ほぼ唯一の原典です。
ヒュギヌス『神話集』の序文
夜と闇から生まれたものの一覧に名が並びます。この一覧が、後にパンドラの壺の中身の説明に使われました。
アパテが登場するゲーム・創作
欺きを司る存在としての登場
名前の意味が明快なため、概念の擬人化として使われることがあります。
パンドラの壺を扱う作品
壺から出た災いの一つとして名が挙がることがあります。ただしヘシオドス自身は中身の名を書いていません。
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アパテについてよくある質問
アパテはどんな神ですか。
欺き、だますことそのものを神格化した女神です。ヘシオドス『神統記』で、夜の女神ニュクスが父を持たずに生んだ子として名が挙がります。物語は伝わっておらず、系譜の一行だけが残っています。
パンドラの壺から出たというのは本当ですか。
後の時代の整理です。ヘシオドス『仕事と日』は「数え切れない災いが撒き散らされた」と書くだけで、中から出たものの名を一つも挙げていません。ローマの著述家が伝える夜の子らの一覧が、壺の中身の説明に使われるようになりました。
説得の女神ペイトーとはどう違いますか。
どちらも相手の判断を動かす神です。ペイトーは納得させ、アパテは思い違いをさせます。ペイトーはアテネで祀られましたが、アパテには祭壇がありません。言葉で人を納得させることは市民の技術とされ、思い違いをさせることはその外に置かれました。
なぜ物語が無いのですか。
ギリシャ神話では、だますことが神や英雄自身の技として描かれるためです。プロメテウスもオデュッセウスも自分でだまします。外から来る力ではないので、独立した神格の出番がありません。
アパテを祀った神殿はありますか。
ありません。神として名前は与えられましたが、祈る相手にはならなかった存在です。遺物としても、この女神を表した確かな作例は見つかりませんでした。
アパテと併せて覚えたい言葉・用語
トロイア戦争(トロイアせんそう)
ギリシャ軍とトロイアの十年に及ぶ戦争。パリスがスパルタ王妃ヘレネを連れ去ったことから始まった。ホメロス『イリアス』はその十年目を描く。
モイライ(Μοῖραι)
運命の三女神。クロトが命の糸を紡ぎ、ラケシスが長さを測り、アトロポスが断つ。ゼウスですら逆らえない。