夢そのもの。真実の門と偽りの門から、それぞれ出てくる。
オネイロスとは何の神様か
オネイロスはひとことで言えば夢そのものです。
ヘシオドス『神統記』では、夜の女神ニュクスが父を持たずに生んだ子として、夢の族がまとめて数えられます。一柱ずつの名前はありません。複数形はオネイロイです。
『イリアス』では、ゼウスがこの神を送ってアガメムノンをだまします。
行け、破滅の夢よ。老将ネストルの姿を借りて、 王の枕元に立て。
夢は外から届けられるものであり、送り主の意図しだいで真にも偽にもなりました。
『オデュッセイア』には有名な一段があります。夢の出口は二つあるというのです。
角の門から出た夢は成就し、 象牙の門から出た夢は人を欺く。
どちらの門から来たのかは、目覚めた者には分かりません。
夢を「見る」のではなく「訪ねてこられる」ものとして扱う点が、古代の考え方の特徴です。
オネイロスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ὄνειρος、複数形は Ὄνειροι。日本語では「オネイロス」「オネイロイ」と書きます。
夢を意味する普通名詞そのものです。神の名と日常語が完全に重なっており、詩を読むときも、神を指すのか現象を指すのか判じにくい箇所があります。
この語からは、現代の学術用語がいくつも作られました。夢を研究する分野の名前、夢の内容を分析する手法の名前がそれです。
ローマではソムニアと呼ばれました。眠りを意味する語からできた複数形です。
注意したいのは、夢の神モルペウスとの関係です。モルペウスはオネイロイの一柱にあたりますが、その名を与えたのはローマの詩人オウィディウスです。 ギリシャの古い書物には、夢の神に個々の名前がありません。
まとまった集団としての夢が先にあり、個別の名前は後から付きました。
Ὄνειρος(オネイロス)
古代ギリシャ語の表記。夢を意味する普通名詞でもある。
Ὄνειροι(オネイロイ)
複数形。夢を司る神々をまとめて指す。ヘシオドスはこの形で夜の子に数えている。
Somnia(ソムニア)
ローマで対応させられた名。眠りを意味する語から作られた複数形で、夢たちを指す。
オネイロス・ウーロス(オネイロス・ウーロス)
「破滅の夢」の意。『イリアス』でゼウスがアガメムノンに送った夢の呼び名。
オネイロスの物語
夜が生んだ夢の族 ─ 並んでいる顔ぶれ
ヘシオドス『神統記』は、夜の女神ニュクスが父なしに生んだ子らを列挙します。夢の族もそこに入っています。
夜は忌まわしい死の運命と、黒い死神と、死そのものを生んだ。 眠りを生み、夢の族を生んだ。 交わることなく、ひとりで生んだのである。
並んでいるのは、死・眠り・夢です。
この三つが同じ母から続けて生まれている点が重要です。 眠りと死が似ていることは、双子の兄弟ヒュプノスとタナトスが表しています。夢はその隣に置かれました。
さらに続きます。非難、悲嘆、老い、争い、そして運命の三女神とケール。人が恐れるものばかりです。
夢が「恐れるもの」の側に置かれているのは、現代の感覚とずれるかもしれません。ギリシャの夢は、心地よいものとは限りませんでした。
夢は訪ねてくる。招いたのではない。
個々の名前は付いていません。夢は集団として扱われます。 『オデュッセイア』にも、夢たちが群れて住む場所への言及があります。
名前が付くのは、ずっと後、ローマの詩人が三柱に役を振ってからのことです。
ゼウスが送った破滅の夢 ─ 『イリアス』第2歌
『イリアス』の第2歌は、夢の場面から始まります。
アキレウスが戦線を離れたあと、ゼウスはトロイア側に勝たせようと考えます。そのために取った手が、ギリシャ軍の総大将をだますことでした。
ゼウスは破滅の夢を呼び、命じた。 行け、ギリシャ軍の陣へ。アガメムノンの天幕へ入り、 私が言うとおりに告げよ。
夢はネストルという老将の姿を取り、王の枕元に立ちます。ネストルは、王がもっとも信頼している助言者でした。
ただちに軍を出せ。 いまならトロイアを取れる。 神々の心は決まった。
嘘です。目を覚ましたアガメムノンは、これを神の託宣と信じて出撃の準備を始めます。結果は惨敗でした。
最高神が、夢を武器として使っています。
この場面が示すのは、ギリシャ人にとって夢が外から送られてくるものだったということです。心の働きではありません。誰かが差し向けるものです。
だからこそ、夢を信じるかどうかは難しい判断になります。送り主が善意とは限らない。 『イリアス』は、その危うさを物語の出だしに置きました。
角の門と象牙の門 ─ 見分けられない二種類
『オデュッセイア』第19歌に、夢について語られる有名な一段があります。
語るのはペネロペです。夫の帰りを二十年待ち続けている妻が、変装したオデュッセウス本人を相手に、見た夢の話をします。そして、こう付け加えます。
夢には二つの門がある。 一つは角で作られ、一つは象牙で作られている。 象牙の門を通ってくる夢は、人を欺き、実らない言葉を運ぶ。 角の門を通ってくる夢は、見た者に本当のことをもたらす。
問題は、どちらの門から来たのかを見分ける方法が無いことです。
この言い分けには、ギリシャ語の語呂合わせが仕込まれています。「象牙」と「欺く」、「角」と「成就する」。それぞれ音の似た語が対にされています。日本語に訳すと、この仕掛けは消えてしまいます。
ペネロペがこの話をする場面の重さも見逃せません。彼女は夫が帰ってくる夢を見ています。目の前にいるのが本人だとは知りません。
私の夢は、象牙の門から来たのでしょう。
そう言って、望みを自分で打ち消します。読者だけが、その夢が本当だと知っています。
この一段は、後の文学に繰り返し引かれました。象牙の門という語句そのものが、当てにならない望みを指す言い回しになっています。
夢は外から来る ─ 古代の夢の扱い方
現代では、夢は自分の心が作るものと考えられています。古代ギリシャでは違いました。
夢は訪ねてくるものです。神が送るか、死者が現れるか、夢の神々が立つ。いずれにせよ、外からやって来ます。
夢を見る、ではなく、夢が立つ。
ホメロスの言い回しは、この形を取ります。夢は枕元に「立つ」のです。
この考え方は、実際の暮らしにも影響しました。夢は、判断の材料として真面目に扱われました。 出征するかどうか、病をどう治すか。夢の内容が根拠になります。
医神アスクレピオスの聖域では、参詣者が神殿で一晩眠り、見た夢を神官に告げる治療が行われました。寝所での治療と呼ばれます。エピダウロスの聖域からは、治った者が奉納した石板が数多く出土しています。
夢を解く技術も発達しました。ローマ時代には、夢の内容を分類して意味を割り当てる本が書かれています。
ただし、警戒も同じだけありました。『イリアス』の破滅の夢、『オデュッセイア』の象牙の門。当てにしすぎるなという話も、必ず並んで伝えられています。
信じるが、鵜呑みにはしない。 ギリシャ人の夢との付き合い方は、その辺りにありました。
オネイロスの家系図と家族
オネイロスの性格と人物像
オネイロスには、個としての人格がありません。
そもそも一柱ではないからです。ヘシオドスは複数形で「夢の族」と書き、名前を与えていません。集団としてしか存在しない神です。
性格として読み取れるのは、自分では動かないということです。
『イリアス』の夢は、ゼウスに命じられて飛びます。オウィディウスの夢たちも、ヘラの使いが来てから動き出します。必ず送り主がいます。
つまり、夢そのものに善悪はありません。嘘をつくのは夢ではなく、夢を送る側です。 この点は、ギリシャの夢の考え方の核心にあたります。
もう一つの特徴は、姿を持たないことです。夢は他人の姿を借りて現れます。自分の顔で出てくることがありません。
夢は、いつも誰かの形をしている。
この性質は、後にモルペウスという神が名を得る土台になりました。姿を作るという働きに、名前を付けたくなったのだと思われます。
恐れられてはいますが、憎まれてはいません。 夜が生んだ子らのなかで、死や争いと並びながら、夢だけは役に立つものとしても扱われました。神託を運ぶ道でもあったからです。
オネイロスゆかりの地と遺跡
夢の神を祀った神殿は確かめられませんでした。 名前を持たない集団としての存在であり、単独の祭祀の記録が残っていないためです。
ただし、夢を受け取るための場所は各地にありました。 医神アスクレピオスの聖域では、参詣者が建物で一晩眠り、見た夢を神官に告げる治療が行われています。寝所での治療と呼ばれる習わしです。
もっとも名高いのが、ペロポネソス半島のエピダウロスです。治った者が奉納した石板が数多く出土し、そこには見た夢の内容と、その後どうなったかが刻まれています。
ギリシャ本土のレバデイアにはトロポニオスの神託所があり、地下へ降りて託宣を受ける儀式が行われたとパウサニアスが伝えます。ただしその泉や入口の位置を確定できる資料は見つかりませんでした。
夢の神ではなく、夢を送る神が祀られたという整理になります。
オネイロスが現代に残した痕跡
オネイロスの名は、夢を扱う学問の用語として現代に残りました。
夢を研究する分野の名: 夢の内容や仕組みを扱う学問の名称に、この語根が使われている。夢の記録を分析する手法の名にも含まれる。
象牙の門という言い回し: 当てにならない望み、実らない夢を指す表現として、後の文学に繰り返し引かれた。『オデュッセイア』第19歌が出どころである。
夢占いの伝統: ローマ時代には夢の内容を分類して意味を割り当てる本が書かれ、後の夢判断の下敷きになった。
夢は外から来るという考え方: ホメロスの詩では、夢は「見る」ものではなく枕元に「立つ」ものとして書かれる。夢を送り主のある知らせとして扱う見方の出どころである。
オネイロスが司るもの
夢
名がそのまま夢を意味する。夜の女神ニュクスが父なしに生んだ夢の族にあたる。
予知
角の門を通ってきた夢は、見た者に本当のことをもたらすとされた。
託宣
神殿で眠って夢のなかで指示を受ける治療が行われ、夢は神の言葉を運ぶ道と考えられた。
予兆を知る
夢の内容は出征や治療の判断材料として真面目に扱われた。
眠り
眠りの神ヒュプノスと同じ母から生まれ、隣り合って並べられる。
オネイロスが登場するゲーム・アニメ
創作でオネイロスが人物として現れることは、多くありません。名前を持たない集団だからです。 個別の神として扱いたいときには、ローマの詩人が名を与えたモルペウスのほうが使われます。
一方で、角の門と象牙の門という仕掛けは、いまも生きています。信じてよい夢と信じてはいけない夢を見分けられない、という設定は、物語を作るうえで使い勝手がよいためです。
オネイロスが登場する絵画・彫刻
アガメムノンの夢を描いた作品
枕元に立つ老将の姿と、眠る総大将。『イリアス』第2歌の場面が主題になります。
二つの門を描いた挿絵
角の門と象牙の門を並べて描く図が、『オデュッセイア』の挿絵として作られました。
オネイロスが登場する文学・創作
象牙の門を引く作品
偽りの夢を意味する語句として、後の詩や小説で繰り返し使われます。
夢と現実の境を扱う作品
夢が外から送られてくるという古代の考え方が、筋立ての下敷きになることがあります。
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オネイロスについてよくある質問
オネイロスはどんな神ですか。
夢そのものである存在です。ヘシオドス『神統記』では、夜の女神ニュクスが父を持たずに生んだ「夢の族」としてまとめて数えられます。一柱ずつの名前はありません。
角の門と象牙の門とは何ですか。
『オデュッセイア』第19歌でペネロペが語る、夢の二つの出口です。角の門から来た夢は本当になり、象牙の門から来た夢は人を欺きます。どちらから来たのかを見分ける方法はありません。ギリシャ語では「象牙」と「欺く」、「角」と「成就する」が音の似た語で対にされています。
オネイロスとモルペウスの違いは何ですか。
モルペウスはオネイロイ(夢の族)の一柱ですが、その名を与えたのはローマの詩人オウィディウスです。ギリシャの古い書物では夢の神に個々の名前がなく、まとまった集団として扱われていました。
古代の人は夢をどう考えていたのですか。
自分の心が作るものではなく、外から訪ねてくるものと考えていました。神が送るか、死者が現れるか、夢の神々が枕元に立つ。だから判断の材料として真面目に扱われる一方、送り主が善意とは限らないという警戒も同じだけありました。
夢の神を祀った神殿はありますか。
確かめられませんでした。ただし夢を受け取るための場所は各地にあり、医神アスクレピオスの聖域では神殿で一晩眠って夢のなかで指示を受ける治療が行われました。エピダウロスの聖域からは、治った者が奉納した石板が数多く出土しています。