戦場で死者を奪い合う女たち。黒衣に、血まみれの爪。
ケールとは何の神様か
ケールはひとことで言えばその人の死に方です。
戦場に現れ、死ぬ定めを運ぶ女たち。夜の女神ニュクスが父を持たずに生んだ子で、運命の三女神モイライ?と並べて語られます。複数形はケーレスです。
『ヘラクレスの盾』の描写は、ギリシャの詩でも屈指の凄まじさです。
黒く、白い牙をむき、恐ろしい目をして、 倒れた者に爪を立て、血をすすり、 誰の魂を取るかで互いに争っていた。
もう一つ重いのが秤の場面です。『イリアス』でゼウスは、黄金の秤にアキレウスとヘクトルの二つのケールを載せて吊るします。
沈んだ方が、その日に死ぬ。
「ケール」は死そのものではなく、その人に割り当てられた死に方を指します。 誰にも一つずつ付いています。
死の神タナトスとは別の存在です。タナトスは連れて行く神、ケールは割り当てられた最期です。
ケールのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では、単数形が Κήρ、複数形が Κῆρες。日本語では「ケール」「ケーレス」と書きます。
この語は、神の名であると同時に普通名詞です。「死の定め」「破滅」を意味し、ホメロスの詩では女神を指さずに使われる箇所が数多くあります。
彼のケールが近づいた。
と言えば、その人の死期が来たという意味になります。
注意したいのは、ローマの穀物の女神ケレースとの混同です。 名前は似ていますが、まったく別の存在です。ケレースは実りの女神で、ギリシャのデメテルに当たります。
もう一つ、心を意味する語ともつづりが近く、古代の写本では取り違えが起きることがありました。
ローマではこの女神たちをレトゥムなどの語に当てましたが、対応する神格ははっきりしません。死の細かい分類を持たなかったためです。
Κῆρες(ケーレス)
古代ギリシャ語の複数形。集団として語られることが多く、この形で現れる。
Κήρ(ケール)
単数形。一人ひとりに割り当てられた死の定めを指す普通名詞でもある。
ケール(ケール)
日本語での表示名。「ケレス」「ケーレス」と書く資料もあるが、穀物の女神ケレースとは別の存在である。
ケーロスタシア(ケーロスタシア)
「ケールを秤に載せること」の意。ゼウスが二人の死の定めを量る場面を指す語。
ケールの物語
夜が生んだ姉妹たち ─ 並んだ顔ぶれ
ヘシオドス『神統記』は、夜の女神ニュクスが父なしに生んだ子らを列挙します。ケールもそこに入っています。
夜は忌まわしい定めと、黒いケールと、死そのものを生んだ。 眠りを生み、夢の族を生んだ。
続けて、
運命の女神モイライと、容赦なく罰するケールを生んだ。 神々と人間の過ちを追い、 恐ろしい怒りを収めることがない。
同じ書物のなかで、ケールが二度出てきます。 一度目は死そのものの隣に、二度目は運命の三女神と並んで。
この重複は、この存在の性格をよく表しています。死の場面に現れるものであり、同時に、割り当てられた定めでもある。 二つの顔が、そのまま二つの記述になっています。
並んでいる顔ぶれも見ておきましょう。死、眠り、夢、非難、悲嘆、老い、争い。人が恐れるものの一覧です。
夜は、父を持たずにこれらを生みました。ギリシャの神話では、恐ろしいものの多くが夜から出ています。
ケールが「モイライと並ぶ」という点も重要です。モイライは糸で一生の長さを扱い、ケールはその終わり方を扱います。役割が分かれています。
戦場の描写 ─ 『ヘラクレスの盾』の一段
ケールの姿をもっとも詳しく書いたのは、『ヘラクレスの盾』という詩です。ヘシオドスの作とされてきましたが、別人の作という見方が有力です。
英雄の盾に彫られた絵を、ひとつずつ描写していく形式を取ります。そのなかに、この女たちが現れます。
黒いケールたちが、白い牙をむき、 恐ろしい目をして、血に汚れた爪をむき出しにし、 倒れた者をめぐって争っていた。 みな、黒い血を飲みたがっていた。
続きはさらに具体的です。
誰かが倒れるか、新しく傷を受けるかすると、 大きな爪を掛けて、その魂を冥界へ、 冷たいタルタロスへ下ろした。 心を満たすと、遺体を後ろへ投げ捨て、 また戦いの騒ぎのなかへ駆け戻った。
戦場を掃除して回る存在として描かれています。
同じような描写は『イリアス』のアキレウスの盾にもあり、そこでは一人のケールが「新しく傷を受けた者を掴み、足を持って引きずっていた」と書かれます。
衣は、人の血で赤く染まっている。
ギリシャの詩は、戦いを美しく歌う一方で、こういう場面も同じ筆で書きます。戦場で実際に起きることの、身も蓋もない側面を担当したのが、この女たちでした。
黄金の秤 ─ 二つのケールを量る
『イリアス』の最終盤、アキレウスとヘクトルの一騎打ちの直前に、神話全体でも屈指の場面があります。
ゼウスは黄金の秤を取り出し、 二つの死の定めを載せた。 アキレウスのものと、馬を馴らすヘクトルのものを。 秤の真ん中を持って吊るすと、 ヘクトルの側が沈み、冥界へ下がった。 アポロンが彼を見捨てた。
この場面をケーロスタシア(ケールを秤に載せること)と呼びます。
重いほうが死ぬ、という決まりです。 軽いほうが助かります。
同じ形の場面が、『イリアス』にはもう一度あります。ギリシャ軍とトロイア軍の運命全体を量る場面です。
注目すべきは、ゼウスが結果を作っていないことです。秤を持ち上げるだけで、沈む側を選んではいません。ゼウスは確かめているだけです。
量る者はいるが、決める者はいない。
最高神が運命の実行者ではなく、確認者として描かれている。ギリシャ神話の運命観を考えるうえで、ここは外せません。
この図像は、古代の壺絵にも残りました。翼を持つ小さな人物が二人、秤の皿に載っている絵です。ケールが、量られる側として描かれています。
一人に一つの死 ─ ケールとは何か
ケールという語の中身を、整理しておきます。
この語は「その人に割り当てられた死」を指します。死一般ではありません。
アキレウスには二つのケールがあった。 トロイアで戦って死ぬ定めと、 帰って長く生きる定めである。
『イリアス』のこの一節が、いちばん分かりやすい例です。選べる場合すらあります。
つまりケールは、「どういう死に方をするか」という中身を持った定めです。 これが死の神タナトスとの違いです。タナトスは、誰に対しても同じように連れて行くだけです。
もう一つ、ケールには個体としての姿が与えられます。戦場に群れて現れ、爪を立て、血をすする。抽象の定めが、そのまま怪物の姿を取っています。
この二重性は、ギリシャの抽象の神に共通する特徴です。惑いの女神アーテも、驕りのヒュブリスも、同じように概念と人格のあいだを行き来します。
パンドラの壺との関係を語る後世の資料もあります。壺から飛び出した災いのなかに、ケールが含まれていたとするものです。ただしヘシオドス自身は、壺から出たものの名を一つも書いていません。
死は避けられないが、どんな死かは決まっている。 ケールという語は、その考えを一語で表しています。
ケールの家系図と家族
ケールの性格と人物像
ケールには、個々の名前も人格もありません。
複数形で呼ばれ、群れで現れ、一人ひとりが区別されることはありません。台詞もなく、誰かと会話する場面もありません。
性格として書かれているのは、貪欲さです。
誰の魂を取るかで、互いに争っていた。
倒れた者をめぐって奪い合うという描写は、この女たちにしか与えられていません。ギリシャの死の神々のなかで、取り合うのはケールだけです。 タナトスは奪い合いません。順番に来るだけです。
もう一つの特徴は、選ばないことです。誰につくかは、その人が生まれたときに決まっています。恨みもひいきもありません。
恐ろしいが、不公平ではない。 この点は、運命の三女神と同じ構えです。
姿の描写は、ギリシャ神話でも最も生々しい部類に入ります。黒い衣、白い牙、血に汚れた爪。美しく書かれた例が一つもありません。
これは意図的だと思われます。戦争を英雄の物語として歌う詩のなかに、戦場で実際に起きることを持ち込む役割が、この女たちに与えられていました。
英雄詩の裏面を担当する存在。 ケールの位置は、そう言えます。
ケールゆかりの地と遺跡
ケールを祀った神殿は確かめられませんでした。 避けたい定めそのものであり、招く相手ではないためです。
祭りとの関わりを伝える説はあります。アテネで春に行われた酒の祭りの終わりに、「去れ」と唱えて災いを追い出す習わしがあり、その言葉がケールを指すとする解釈です。ただし、この語がケールなのか、別の語なのかについては議論が分かれています。 断定できる資料は見つかりませんでした。
遺物としては、古代の壺絵が残ります。黄金の秤の皿に、翼を持つ小さな人物が二人載っている絵です。『イリアス』の場面を描いたもので、量られているのがケールにあたります。
また、戦いの場面を描いた壺には、倒れた者の上を飛ぶ黒い姿が加えられることがあります。
祀られた記録はありませんが、描かれた記録は残っています。
ケールが現代に残した痕跡
ケールの名は、秤の図像と死の定めという考え方に残りました。
運命を量る秤の図像: ゼウスが二つの死の定めを黄金の秤に載せる場面は、古代の壺絵に描かれ、後の美術で魂を量る図の下敷きになった。
「その人の死に方」という考え方: 死一般ではなく、一人ひとりに割り当てられた最期を指す語。ホメロスの詩では普通名詞として繰り返し使われる。
ケーロスタシアという語: 「ケールを秤に載せること」を意味する。運命を量る場面を指す用語として、美術史や文学研究でいまも使われる。
戦場を描く伝統: 戦いを英雄譚として歌う一方で、倒れた者に群がる姿を同じ筆で書く。ギリシャの叙事詩が持つ両面性を、この存在が担っている。
ケールが司るもの
寿命
その人に割り当てられた死の定めを指す。誰にも一つずつ付いている。
運命
運命の三女神モイライと並んで、夜の女神ニュクスの子に数えられる。
戦の行方
ゼウスは黄金の秤に二つのケールを載せ、沈んだ側が死ぬと確かめた。
死者の受け入れ
戦場で倒れた者の魂を冥界へ下ろす役目を担う。
厄除け
避けたい定めそのものであり、遠ざけることを願う対象とされた。
ケールが登場するゲーム・アニメ
創作でのケールは、集団としての恐ろしさで使われることがほとんどです。 個々に名前が無いため、一人を主役にする形にはなりません。
もう一つ、ゼウスの秤の場面は繰り返し引かれます。二人の運命を量って重いほうが死ぬという仕掛けは、そのまま物語の緊張に使えるためです。魂を量る図像は、後の時代の宗教美術にも受け継がれました。
ケールが登場する絵画・彫刻
秤を描いた壺絵
黄金の秤の皿に、翼を持つ小さな人物が二人載っている絵が残ります。『イリアス』のケーロスタシアの場面です。
戦場の場面を描いた壺
倒れた者の上を飛ぶ黒い姿として加えられることがあります。
ケールが登場する文学・創作
『ヘラクレスの盾』
この存在をもっとも詳しく描いた詩です。盾に彫られた絵を描写する形式のなかで、戦場を掃除して回る姿が語られます。
死を扱う作品
戦場に現れて魂を運ぶ存在として、この名が使われることがあります。
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ケールについてよくある質問
ケールはどんな存在ですか。
戦場に現れ、死ぬ定めを運ぶ女たちです。夜の女神ニュクスが父を持たずに生んだ子で、運命の三女神モイライと並べて語られます。「ケール」は死そのものではなく、その人に割り当てられた死に方を指します。
タナトスとどう違いますか。
タナトスは死そのものである神で、誰に対しても同じように連れて行きます。ケールは、一人ひとりに割り当てられた最期の中身です。アキレウスには二つのケールがあり、戦って死ぬ定めと、帰って長く生きる定めから選べたと『イリアス』は書いています。
黄金の秤の場面とは何ですか。
『イリアス』で、アキレウスとヘクトルの一騎打ちの直前にゼウスが二つの死の定めを秤に載せる場面です。沈んだヘクトルの側がその日に死にます。ケーロスタシア(ケールを秤に載せること)と呼ばれ、古代の壺絵にも描かれました。
ローマのケレースと関係がありますか。
ありません。名前は似ていますが、まったく別の存在です。ケレースは穀物と実りの女神で、ギリシャのデメテルに当たります。
ケールを祀った神殿はありますか。
確かめられませんでした。避けたい定めそのものであり、招く相手ではないためです。アテネの祭りで「去れ」と唱えて追い出す習わしがケールを指すという解釈もありますが、議論が分かれています。
ケールと併せて覚えたい言葉・用語
モイライ(Μοῖραι)
運命の三女神。クロトが命の糸を紡ぎ、ラケシスが長さを測り、アトロポスが断つ。ゼウスですら逆らえない。