戦いそのものを司る神。神々からも嫌われ、たびたび敗れる。

「万民の神話事典」 1874年 / パブリックドメイン 出典
アレスとは何の神様か
アレスはひとことで言えば嫌われている神です。戦いを司りますが、司るのは戦略ではなく流血と暴力そのものです。ローマ名はマルス(三月 March、火星 Mars)。
ゼウスとヘラの正嫡でありながら、父から嫌われています。『イリアス』でゼウスは息子にこう言い放ちます。
オリュンポスに住む神々のなかで、私はお前をもっとも憎む。 お前が愛するのは争いと戦と殺戮ばかりだ。
そして、よく負けます。 アテナに二度倒され、巨人に壺へ閉じ込められ、人間ディオメデスに槍で傷つけられて悲鳴を上げながら天へ逃げ帰ります。
アフロディーテとの不倫が有名で、夫ヘファイストスの網にかかって神々の見世物になりました。
ただしローマでは扱いが違います。マルスとして建国の祖ロムルスの父とされ、ユピテルに次ぐ地位を与えられました。
アレスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἄρης。日本語では「アレス」で定着しています。
重要なのは、ギリシャとローマで評価が正反対だという点です。
ギリシャのアレスは嫌われ者でした。神々に憎まれ、しばしば敗れ、滑稽に描かれます。
ところがローマのマルスは、ユピテルに次ぐ重要な神でした。建国の祖ロムルスとレムスの父であり、農耕の神でもあり、三月(Martius)はこの神の月として一年の始まりでした。
同じ神が、渡った先で別の扱いを受けた。
ローマが軍事国家として自らを規定していたことの表れです。
Ἄρης(アレス)
古代ギリシャ語の表記。「破壊」「災い」を意味する語と同根とされる。
Mars(マルス)
ローマ名。三月 March と火星 Mars の語源。ギリシャとは違い、ローマでは高く扱われた。
Ἐνυάλιος(エニュアリオス)
「戦の」を意味する呼び名。本来は別の神だったが、のちにアレスの別名になった。
アレスの物語
父に憎まれる ─ 神々のなかの厄介者
アレスはゼウスとヘラの正嫡の子です。血筋の上では申し分ありません。
それでも、父はこう言います。『イリアス』第5歌、傷ついて泣きついてきた息子に対して。
移り気な奴め、私のそばで泣き言を言うな。 オリュンポスに住む神々のなかで、私はお前をもっとも憎む。お前が愛するのは争いと戦と殺戮ばかりだ。
母ヘラの手に負えない強情さを、お前は受け継いだ。
そして、こう続けます。
お前が私の子でなかったなら、とっくにタルタロスへ落としていた。
血縁だけで許されている、と父自身が言っています。
ギリシャ人はこの神を必要としながら、好んではいませんでした。 都市に神殿を建てることも少なく、祀られた例は限られます。
アテナに二度負ける ─ 石を投げつけられる
『イリアス』でアレスは、アテナに二度倒されます。
一度目。アテナは人間の英雄ディオメデスの戦車に乗り込み、自ら手綱を取りました。ディオメデスの槍を導き、
槍はアレスの腹を貫いた。神は九千人か一万人が叫ぶほどの声で吼えた。
ギリシャ軍もトロイア軍も、その声に震え上がりました。アレスは黒雲となって天へ逃げ帰り、父に泣きつきます。その結果が、先の叱責です。
二度目は直接対決でした。アレスが槍を突き出すと、アテナは後ろへ下がり、
地面から境界石を拾い上げ、アレスの首に叩きつけた。
アレスは倒れ、その体は約200メートルにわたって地を覆ったと記されます。
アテナは笑ってこう言います。
愚か者。 私がどれほど強いか、まだ分からないのか。
神々の戦いの決着が、石ひとつ。 この対比が、二人の性格をすべて説明しています。
壺に閉じ込められる ─ 十三か月
アフロディーテとの不倫 ─ 神々の見世物
アレスは、鍛冶の神ヘファイストスの妻アフロディーテと通じていました。
見ていたのは太陽神ヘリオスです。すべてを見下ろす神は、夫に告げました。
ヘファイストスは工房にこもり、目に見えないほど細く、決して切れない金属の網を作ります。寝台の上に仕掛け、旅に出るふりをしました。
二人が寝台に入った瞬間、網が落ちます。
ヘファイストスは神々を呼び集めました。
神々は集まり、その様子を見て笑いが止まらなかった。
ヘルメスがアポロンに問われます。「あの立場になりたいか」と。
たとえ三倍の網に縛られ、神々全員に見られようとも、私はなりたい。
『オデュッセイア』はこの場面を、明るい笑い話として語ります。
解放されたアレスはトラキアへ逃げ帰りました。軍神の恋も、うまくいきません。
ローマでの逆転 ─ 建国の父になる
ギリシャで嫌われたこの神は、ローマでまったく違う扱いを受けます。
ローマのマルスは、ユピテルに次ぐ地位の神でした。
最大の理由は建国神話です。ウェスタの巫女レア・シルウィアがマルスの子を身ごもり、双子ロムルスとレムスを産みました。捨てられた双子は狼に育てられ、成長したロムルスがローマを建国します。
ローマ人は、自分たちを軍神の子孫だと考えていた。
さらにマルスは農耕の神でもありました。三月(Martius)はこの神の月であり、古いローマ暦では一年の始まりでした。軍事行動の季節が始まる月だからです。
現在の暦で9月(September=七番目)から12月(December=十番目)が二つずつずれているのは、三月が最初の月だった名残です。
火星(Mars)の名も、赤い色を血に見立ててこの神に当てられました。
アレスの家系図と家族
アレスの性格と人物像
アレスは、制御されない力そのものです。
作戦を立てません。勝敗も気にしません。『イリアス』では、その日の気分でギリシャ側とトロイア側を行き来します。 忠誠も立場もありません。
そして繰り返し負けます。 アテナに二度、人間に一度、巨人には十三か月閉じ込められました。
ただし、これを「弱い神」と読むのは正確ではありません。ギリシャ人はこの神を、戦争の嫌な側面そのものとして描いたのです。
従者の名がそれを示します。デイモス(恐怖)とフォボス(敗走)。息子たちです。戦の神が連れてくるのは、栄光ではなく恐怖と潰走でした。
アテナが「守るための戦い」だとすれば、アレスは「避けたい戦い」です。
必要だが、好きではない。神殿はほとんど建てられませんでした。ギリシャ人の戦争観が、この神の扱いに出ています。
アレスを祀った神殿と遺跡
アレスの神殿は、ギリシャにほとんどありません。 好かれていなかったためです。
興味深いのは、アテネにあるアレスの神殿が、もとは別の場所から移築されたものだという点です。ローマ時代に、アッティカ地方の田舎から市街地の広場(アゴラ)へ石材ごと移されました。
ローマ人がマルスを重んじたため、わざわざ運んできたわけです。ギリシャとローマの温度差が、建物の移動として残っています。
アレイオス・パゴス(アレオパゴス)(Areopagus)
この神が裁かれた丘、のちの最高法院
アレイオス・パゴス(アレオパゴス)の住所: ギリシャ アテネ アクロポリスの北西
アレイオス・パゴス(アレオパゴス)の祀られた神: アレス
アレイオス・パゴス(アレオパゴス)に残るもの: 露出した岩の丘
名は「アレスの丘」を意味します。
由来は、アレス自身が裁かれた場所だからです。ポセイドンの子が娘を襲ったためアレスがこれを殺し、殺人の罪でここで裁判にかけられました。判決は無罪でした。
以後、この丘はアテネの最高法院として殺人事件を裁く場になります。
新約聖書にも登場します。使徒パウロがここで説教しました。
滑りやすい岩肌がむき出しになっており、現在も自由に登れます。アクロポリスを見上げる位置にあります。
入場無料。夕暮れ時に人が集まる。岩が滑るため足元に注意が要る。
マルスの野(カンプス・マルティウス)(Campus Martius)
ローマ軍の訓練と集会が行われた聖域
マルスの野(カンプス・マルティウス)の住所: イタリア ローマ(テヴェレ川東岸の一帯)
マルスの野(カンプス・マルティウス)の祀られた神: マルス
マルスの野(カンプス・マルティウス)に残るもの: 現在は市街地(パンテオンなどが立つ)
「マルスの野」を意味する、ローマ市街の一帯です。もとは軍神に捧げられた原野で、軍の訓練と兵員の召集が行われました。
市壁の外にあったため、武装した軍がここに集結できました。凱旋式の出発点でもあります。
現在はローマの中心市街となり、パンテオン、ナヴォーナ広場などがこの一帯にあります。地名として今も使われています。
遺跡ではなく市街地。地名としてローマの住所表記に残る。
アレスが現代に残した痕跡
アレスの名は、惑星・月名・記号に残りました。
火星 Mars: ローマ名マルスによる。赤い色を血に見立てて軍神の名が当てられた。
三月 March: ラテン語 Martius(マルスの月)に由来する。軍事行動の季節が始まる月であり、古いローマ暦では一年の最初の月だった。
男性記号 ♂: 火星の記号がそのまま男性を表す記号として使われる。盾と槍を図案化したものとされる。
デイモスとフォボス: 火星の二つの衛星の名。アレスの息子である「恐怖」と「敗走」による。
アレオパゴス: 「アレスの丘」を意味し、アテネの最高法院を指す語になった。
アレスが司るもの
戦い・勇猛
戦そのものを司る。ただし戦略ではなく、突撃と流血の側面。
守護(ローマでは)
ローマのマルスは国家の守護神であり、農耕の神でもあった。
男性
火星の記号(♂)は男性を表す記号として現在も使われる。
アレスが登場するゲーム・アニメ
創作では強大な悪役として描かれることがほとんどです。原典のアレスは繰り返し負ける神なので、この点は大きく異なります。
ギリシャ版の「嫌われて滑稽な神」ではなく、ローマ版の「強大な軍神」の像が受け継がれていると言えます。
アレスが登場するゲーム
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アレスについてよくある質問
アレスは何の神様ですか。
戦いを司る神です。ただし司るのは戦略ではなく、流血と暴力そのものです。戦略を司るのはアテナで、二神は対極に置かれます。
アレスのローマ名は何ですか。
マルス(Mars)です。火星と三月 March の語源。ギリシャでは嫌われましたが、ローマでは建国の祖の父としてユピテルに次ぐ地位を与えられました。
アレスはなぜ嫌われているのですか。
父ゼウス自身が『イリアス』で「神々のなかでお前をもっとも憎む」と言い放っています。作戦も立てず、その日の気分で味方を変え、争いと殺戮だけを好むためです。
アレスは強いのですか。
繰り返し負けています。アテナに二度倒され(二度目は石を投げつけられて倒れた)、人間ディオメデスに槍で傷つけられ、巨人に青銅の壺で十三か月閉じ込められました。
アレスとアフロディーテの関係は何ですか。
不倫の関係です。アフロディーテの夫ヘファイストスが見えない網を寝台に仕掛け、二人を捕らえて神々の前に晒しました。
三月がマルスの月なのはなぜですか。
軍事行動の季節が始まる月だからです。古いローマ暦では三月が一年の最初の月でした。9月 September(七番目)から12月 December(十番目)が現在の数字とずれているのは、その名残です。