神々の伝令。旅と商売の神であり、盗人の守護者でもある。

「万民の神話事典」 1874年 / パブリックドメイン 出典
ヘルメスとは何の神様か
ヘルメスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἑρμῆς。日本語では「ヘルメス」で定着しています。
語源はヘルマ、道端に積まれた石塚とされます。境界や道の分かれ目に置かれ、旅の目印でした。この神はもともと道そのものの神だったと考えられます。
ローマ名メルクリウスの語源は「商品(merx)」です。ローマでは商業神としての性格が前面に出ました。 英語の merchant(商人)、market(市場)、merchandise(商品)は同じ語源です。
水銀(mercury)の名もこの神によります。常温で流れる金属の速さが、伝令の神と結び付けられました。
Ἑρμῆς(ヘルメス)
古代ギリシャ語の表記。道端に積まれた石塚「ヘルマ」に由来するとされる。
Mercurius(メルクリウス)
ローマ名。英語では Mercury(マーキュリー)。水星と水銀の名でもある。語源は「商品(merx)」。
Ψυχοπομπός(プシュコポンポス)
「魂を導く者」の意。死者を冥界へ送る役目を指す。
Ἀργειφόντης(アルゲイポンテス)
「アルゴスを殺した者」の意。百眼の巨人を眠らせて討った功による枕詞。
ヘルメスの物語
生後一日で牛を盗む ─ 神話最初の犯罪
ヘルメスは、ゼウスとニンフ?マイアの子です。洞窟で生まれました。
『ホメロス風讃歌』が語る一日目は、密度が異常です。
朝に生まれ、昼には揺りかごを抜け出しました。
洞窟の外で亀を見つけ、甲羅に弦を張って竪琴(リュラ)を作ります。世界最初の竪琴です。
夕方、アポロンの牛の群れを見つけました。五十頭を選び、盗み出します。
牛を後ろ向きに歩かせた。 足跡は、群れが牧場へ帰ったように見えた。
自分は枝を編んだ大きな履物を履き、足跡を消しました。
二頭を犠牲に捧げ(十二神への最初の犠牲とされます)、残りを隠し、
夜明け前に洞窟へ戻り、産着にくるまって赤子のふりをした。
生まれた日のうちに、楽器を発明し、窃盗を働き、証拠を隠滅しています。
アポロンと和解する ─ 竪琴と交換に
アポロンは予言の力で犯人を突き止め、洞窟へ来ました。
赤子のヘルメスはしらを切ります。
牛が何ですか。 私は昨日生まれたばかりで、足も柔らかい。牛泥棒には見えないでしょう。
アポロンは怒り、ゼウスの前へ引き立てました。
ゼウスは笑いました。 そして牛を返すよう命じます。
返しに行く道中、ヘルメスは作った竪琴を弾きました。アポロンは音に魅せられ、
その楽器をくれるなら、牛はすべてやろう。
交換が成立します。さらにアポロンは、牛飼いの杖を贈りました。これが後にケリュケイオン(二匹の蛇が絡む杖)になります。
盗んだ側が、盗まれた側から贈り物をもらって終わった。
二神は以後、親しい間柄になります。竪琴はアポロンの象徴として定着しました。
アルゴスを眠らせる ─ 百の目を閉じさせる
ゼウスが人間の娘イオを白い雌牛に変えたとき、ヘラはそれを取り上げ、百眼の巨人アルゴスに見張らせました。
五十の目ずつ交互に眠るため、見張りが途切れることはない。
ゼウスはヘルメスを送ります。
ヘルメスは羊飼いに変装して近づき、笛を吹きました。そして長い長い話を始めます。
葦がなぜ笛になったのか、という話だった。
退屈な話が続くうち、目がひとつ、またひとつと閉じていきます。
すべての目が閉じた瞬間、ヘルメスは杖で首を打ちました。
ヘラはアルゴスの死を悼み、その百の目を孔雀の羽に移します。 孔雀の羽の模様は、この目です。
この功により、ヘルメスは「アルゴスを殺した者」という呼び名を得ました。
力ではなく、退屈させて勝った。 この神らしい方法です。
死者を導く ─ 境界を越えられる唯一の神
ヘルメスのもうひとつの役目が、死者を冥界へ導くことです。「プシュコポンポス(魂を導く者)」と呼ばれます。
『オデュッセイア』最終巻に、その様子が描かれます。
ヘルメスは杖を手に、魂たちを呼び集めた。 魂は蝙蝠のように甲高い声をあげてついていった。
重要なのは、この神だけが自由に境界を越えられることです。
オリュンポスと地上と冥界。 三つの世界を行き来できるのはヘルメスだけである。
ペルセポネを冥界から連れ戻したのも、ハデスのもとへゼウスの命令を伝えたのも、この神でした。
道の神であり、境界の神であり、旅の神であり、そして生と死の境も越える。
この性格は一貫しています。ヘルメスは、あらゆる「あいだ」にいる神です。
英雄を助ける ─ 道具と助言を渡す
ヘルメスは英雄を助ける神でもあります。ただし、戦うのではなく必要なものを渡します。
ペルセウスには、翼のあるサンダルと、メドゥーサの首を入れる袋、そして鎌のような剣を与えました。
オデュッセウスには、魔女キルケの薬を無効にする草モーリュを渡します。この草がなければ、彼も豚に変えられていました。
プリアモス王が息子ヘクトルの遺体を取り戻しにアキレウスの陣へ向かうときには、姿を変えて護衛しました。敵陣を無事に通り抜けられたのは、この神のおかげです。
ヘラクレスが冥界へ下るときも、道案内をしています。
戦わない。運ぶ、渡す、案内する。
この神が助ける相手は、力より知恵で切り抜ける英雄が多いという特徴があります。
ヘルメスの家系図と家族
ヘルメスの性格と人物像
ヘルメスは、善悪の枠に入らない神です。
盗みを働き、嘘をつき、証拠を隠滅する。それでいて罰せられません。 ゼウスは笑い、アポロンは贈り物をしました。
理由は、この神が動きそのものだからです。物が移動し、言葉が伝わり、境界が越えられる。そこに善悪はありません。
商業と盗みを同じ神が司るのは、この観点からです。どちらも物が人の手から手へ移ることであり、違いは合意があるかどうかだけです。
注目すべきは、この神が最も忙しいことです。伝令として走り、死者を導き、英雄に道具を渡し、命令を伝える。オリュンポスの神々のなかで、
最も多くの場面に登場するのは、実はヘルメスです。
主役にはなりません。しかし物語を動かすのは、たいていこの神です。
境界に立ち、あいだをつなぐ。 道端の石塚から始まった神は、最後まで「あいだ」にいました。
ヘルメスを祀った神殿と遺跡
ヘルメスの聖域は、大神殿ではなく道端にありました。
ヘルマは町の門、道の分岐、家の入口に置かれ、ギリシャ人は日常的にこの神と接していました。 オリンピアやデルフォイのような大聖域を持たない代わりに、
どこにでもいた神です。
これは「境界の神」という性格そのものです。境界は特定の場所ではなく、あらゆる場所にあります。
キュレネ山(Mount Kyllini)
ヘルメスの生誕地とされる山
『ホメロス風讃歌』がヘルメスの生誕地とする山です。母マイアが住んだ洞窟がここにあったとされます。
生まれた日に亀の甲羅で竪琴を作り、牛を盗みに出たのもこの山からです。
山頂近くに小さな聖域の跡があったと記録されていますが、遺構はほとんど残っていません。
ペロポネソス半島北部の山地で、標高は約2,376メートルです。
登山道があり、山頂まで登れる。
オリンピア考古学博物館(Archaeological Museum of Olympia)
「幼いディオニュソスを抱くヘルメス」像を所蔵
オリンピア考古学博物館の住所: ギリシャ ペロポネソス半島 オリンピア
オリンピア考古学博物館に残るもの: 大理石像(プラクシテレス作とされる)
ギリシャ彫刻でもっとも有名な像のひとつを所蔵します。ヘルメスが幼いディオニュソスを腕に抱く姿です。
1877年にオリンピアのヘラ神殿で発見されました。紀元前4世紀の彫刻家プラクシテレスの作とされてきましたが、
ローマ時代の模刻ではないかという議論が、現在も続いています。
いずれにせよ、大理石の表面処理の完成度は他に類を見ないとされます。
右手は失われており、何を持っていたのかは分かりません。葡萄の房を差し出していたという推定が有力です。
オリンピア遺跡の共通券に含まれる。
ヘルマ(道標の石柱)(Herma)
この神の最も古い姿
四角い石柱の上に頭部を彫り、正面に男根を付けた独特の形の像です。道の分かれ目、境界、家の門前に置かれました。
もとは道端に積まれた石塚で、旅人が石を一つ加えていく習慣がありました。これがこの神の起源とされます。
紀元前415年、アテネ中のヘルマが一夜にして破壊される事件が起きました。シチリア遠征の直前であり、大きな政治問題になっています。
アテネの古代アゴラや国立考古学博物館で実物を見られます。
像の形が現代の感覚と異なるため、展示では説明が添えられていることが多い。
ヘルメスが現代に残した痕跡
ヘルメスの名は、惑星・元素・言葉として広く残りました。
水星 Mercury: ローマ名メルクリウスによる。太陽に最も近く、最も速く動く惑星に伝令神の名が当てられた。
水銀 mercury: 常温で流れる金属。その動きの速さが伝令神と結び付けられた。
commerce・merchant・market: ローマ名の語源「商品(merx)」から派生した語群。商業に関する英語の基本語彙はこの神につながる。
ヘルメス文書と錬金術: エジプトの神トートと同一視され「三重に偉大なヘルメス」とされた。錬金術の祖とみなされ、密閉を意味する hermetic の語源にもなった。
医療の杖との混同: 二匹の蛇が絡むケリュケイオンは、しばしば医療の象徴として使われる。しかし本来の医療の象徴は一匹の蛇が巻きつくアスクレピオスの杖であり、混同である。
ヘルメスが司るもの
旅・交通
道の神。道端の石塚ヘルマがこの神の起源とされ、旅人の守護神。
商業
ローマ名メルクリウスは「商品」を語源とする。商人が祀った。
雄弁・交渉
伝令として言葉を運ぶ。説得と交渉の守護神。
盗み
盗人の守護神でもある。商業と同じく「物が移ること」を司るため。
ヘルメスが登場するゲーム・アニメ
「速さ」と「伝令」で使われることが多い神です。翼のあるサンダルという分かりやすい図像も、繰り返し引用されます。
一方で「盗人の守護神」という側面は、ほとんど描かれません。原典では生後一日で窃盗を働いた神です。
ヘルメスが登場するゲーム
ヘルメスが登場するアニメ・漫画・映像
ブランド「エルメス」
フランスの高級ブランド Hermès は創業者の姓であり、この神とは直接の関係がありません。ただし読みが同じため、しばしば混同されます。
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ヘルメスについてよくある質問
ヘルメスは何の神様ですか。
神々の伝令であり、旅・商業・雄弁・盗みを司る神です。死者を冥界へ導く役目も持ち、オリュンポス・地上・冥界を自由に行き来できる唯一の神とされます。
ヘルメスのローマ名は何ですか。
メルクリウス(Mercurius)です。英語ではマーキュリー。水星と水銀の名になっており、語源は「商品(merx)」です。
ヘルメスはなぜ盗みの神なのですか。
生まれた日にアポロンの牛五十頭を盗んだことによります。商業と盗みを同じ神が司るのは、どちらも「物が人の手から手へ移ること」だからと説明されます。
ヘルメスの杖は医療の象徴ですか。
違います。混同されがちですが、医療の象徴は一匹の蛇が巻きつくアスクレピオスの杖です。ヘルメスのケリュケイオンは二匹の蛇が絡み、翼がついています。
ヘルメスは何を発明しましたか。
竪琴(リュラ)です。生まれた日に亀の甲羅に弦を張って作りました。のちにアポロンへ譲り、その象徴になっています。
ブランドのエルメスはこの神が由来ですか。
違います。創業者ティエリ・エルメスの姓によるもので、神とは直接の関係がありません。
ヘルメスと併せて覚えたい言葉・用語
ニンフ(Νύμφη)
山・森・泉・木に宿る若い女神たち。神ではあるが不死ではなく、宿る木や泉が滅べば死ぬとされた。ギリシャ神話で最も数の多い存在。