すべての始まりにあった空隙。混沌ではなく「口を開けた隙間」。

「マグヌム・カオス(ロレンツォ・ロット下絵)」 / パブリックドメイン 出典
カオスとは何の神様か
カオスはひとことで言えば何もない場所です。
ヘシオドス『神統記』は、こう書き出します。
まず最初に、カオスが生じた。
ここで訳語に注意が必要です。日本語では「混沌」と訳されますが、
原語 χάος は「口を開ける」を意味する語に由来し、何もない裂け目・空隙を指す。
物が入り混じった状態ではありません。 むしろ逆で、何もないのです。「混沌」という訳は、後世のローマの詩人オウィディウスが「元素が入り混じった塊」と描いたことの影響です。
重要なのは、カオスがガイア(大地)を生んだのではないことです。ガイアは独立に生じました。原典を読むと、この点がはっきり分かります。
カオスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Χάος。日本語では「カオス」で定着しています。
「混沌」という訳語は、原義から離れています。
原語は動詞「口を開ける」に由来し、指すのは空隙・裂け目です。何もない空間のことです。
意味が変わったのは、ローマの詩人オウィディウスが『変身物語』の冒頭で、
形を持たない、混じり合った塊
と描いたためです。この描写がルネサンス以降のヨーロッパに広まり、現在の「カオス=混沌・無秩序」という語感ができました。
科学用語のカオス理論も、この後世の意味を引き継いでいます。
Χάος(カオス)
古代ギリシャ語の表記。動詞「口を開ける(χαίνω)」に由来し、空隙・裂け目を意味する。
Chaos(カオス)
ラテン語表記。オウィディウスがこれを「混じり合った原初の塊」と描いたため、意味が変化した。
混沌(こんとん)
日本語の一般的な訳語。ただし原義とは異なる。
カオスの物語
まず最初に生じる ─ 世界の一行目
闇と夜を生む ─ 見えないものの系譜
意味が変わる ─ 混沌になった空隙
カオスの意味は、時代とともに大きく変わりました。
ヘシオドス(紀元前700年頃)にとっては空隙でした。何もない裂け目です。
ローマのオウィディウス(紀元8年頃)は、『変身物語』の冒頭でこう描きます。
海も大地も天もなかったころ、自然の姿は全体にわたって同じであった。 人はそれをカオスと呼んだ。形を持たぬ混じり合った塊であり、生気のない重みであった。
まったく別のものになっています。 空隙ではなく、すべてが混じった塊です。
この描写が中世からルネサンスへ受け継がれ、「カオス=混沌」という理解が定着しました。
現在、日本語でも英語でも「カオス」は無秩序を意味します。
二千年かけて、「何もない」が「ごちゃごちゃ」に変わった。
訳語の歴史としては、興味深い例です。
カオスの家系図と家族
カオスの性格と人物像
カオスには、性格がありません。
言葉を発せず、行動せず、意思を持ちません。神々の会議にも出ず、争いにも加わりません。
存在しただけの神です。
それでも、この存在なしには何も始まりません。世界の一行目に置かれています。
注目すべきは、ギリシャ神話が創造主を持たないことです。
誰も世界を作っていない。 世界のほうが、勝手に生じた。
カオスも、ガイアも、タルタロス?も、エロスも、「生じた」としか書かれません。 生んだ者がいないのです。
これは北欧神話とも違います。北欧では原初の巨人ユミルを殺して世界を作りました。少なくとも作った者がいます。
ギリシャの世界は、誰の意図でもなく始まりました。 その最初の空隙が、カオスです。
書物によってカオスの記述が異なるところ
ギリシャ神話は一冊にまとまっていません。カオスについても、 書物によって記述が分かれる箇所が1件あります。 どちらか一方に決めず、両方を出典つきで載せています。
記述が分かれるところ
神統記紀元前700年頃
第116〜122行
- カオス ─ ともに世界の始まりに生じる ─ エロス
ヘシオドス『神統記』では、エロスはカオス・ガイア・タルタロスと並んで世界の始まりに生じた原初の神であり、親を持たない。
ギリシャ神話(アポロドーロス)1〜2世紀頃
諸伝
- アフロディーテ ─ 後代ではアフロディーテの子とされる ─ エロス
後代の詩と美術では、エロスはアフロディーテの子として描かれる。父はアレス、ヘルメス、ゼウスなど諸説あって定まらない。原初の神が女神の子に置き換わった例。
カオスを祀った神殿と遺跡
カオスを祀った神殿はありません。
神殿を建てる相手ではなく、「何もない状態」そのものだからです。
残っているのは、それを最初に書いた詩人の土地です。
ヘリコン山(Ἑλικών)
『神統記』が生まれた山
ヘシオドスが羊を飼っていたとき、ムーサたちが現れて詩を授けたとされる山です。そうして書かれたのが『神統記』でした。
「まず初めにカオスが生じた」
この一行が、ギリシャ神話の出発点になりました。世界の始まりを最初に文字にした場所が、この山のふもとです。
山中にはムーサ?の聖域(ヴァリア渓谷)の跡があり、劇場や祭壇の基礎が残っています。詩と音楽の競技会が開かれました。
泉ヒッポクレネは、ペガソスが蹄で岩を蹴って湧かせたと伝えられます。
遺跡は整備が限定的。アテネから車で約2時間。
アスクラ(Ἄσκρη)
ヘシオドスの故郷
アスクラの住所: ギリシャ ボイオティア地方 ヘリコン山麓
アスクラに残るもの: 集落跡
ヘシオドス本人が住んだ村です。彼はこの土地を、自分の詩のなかでこう書いています。
「冬は厳しく、夏は苦しく、いつになっても良いことがない」
神々の系譜を最初に整理した人物が、自分の村の悪口を書き残しているのは印象に残ります。神話は雲の上ではなく、こういう場所で書かれました。
現在は小さな集落と、塔の跡が残るだけです。
案内表示は少ない。ヘリコン山と合わせて訪ねるのが現実的。
カオスが現代に残した痕跡
カオスの名は、後世に変わった意味のまま現代語に定着しました。
「カオス」という日常語: 無秩序・混乱を意味する語として日本語にも英語にも定着した。ただし原義の「空隙」からは離れている。
カオス理論: 初期条件のわずかな違いが結果を大きく変える現象を扱う数学・物理の分野。名は後世の「無秩序」の意味に由来する。
気体 gas の語源説: 17世紀の化学者ファン・ヘルモントが、ギリシャ語のカオスをもとに gas という語を作ったとされる。
「創造主のいない創世」: ギリシャ神話の世界は誰かが作ったのではなく、勝手に生じた。この点が聖書の創世記と根本的に異なる。
カオスが司るもの
始まり
すべてに先立って生じた。世界の起点。
空隙
原義は「口を開けた隙間」。何もない場所そのもの。
カオスが登場するゲーム・アニメ
神としてではなく、概念として広まった珍しい例です。原典では世界の一行目に置かれた存在ですが、現在は「混乱」を指す日常語になっています。
しかもその意味は、ローマの詩人による書き換えのほうです。
カオスが登場するゲーム
カオスが登場するアニメ・漫画・映像
「カオス」という語の一般化
固有名詞としてではなく、混乱を表す普通名詞として広く使われています。神の名だと知られる機会は少なくなりました。
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カオスについてよくある質問
カオスとは何ですか。
ギリシャ神話で最初に生じた存在です。ヘシオドス『神統記』の一行目に登場します。
カオスは混沌という意味ですか。
原義は違います。「口を開ける」に由来し、何もない裂け目・空隙を指します。「混じり合った塊」という意味は、ローマの詩人オウィディウスの描写から後世に広まったものです。
カオスが世界を作ったのですか。
作っていません。カオス、ガイア、タルタロス、エロスは並列に「生じた」と書かれるだけで、誰かが作ったのではありません。ギリシャ神話には創造主がいません。
カオスの子は誰ですか。
闇エレボスと夜ニュクスです。その二柱から昼と上空の輝きが生まれ、さらに夜が単独で死・眠り・運命・争いなどを生みました。
カオスと併せて覚えたい言葉・用語
モイライ(Μοῖραι)
運命の三女神。クロトが命の糸を紡ぎ、ラケシスが長さを測り、アトロポスが断つ。ゼウスですら逆らえない。
タルタロス(Τάρταρος)
冥界よりさらに深い奈落。神々に逆らった者が落とされる。ティタン神族が封じられている。青銅の金床を天から落とせば大地まで九日、大地からここまでさらに九日かかるとされる。
ムーサ(Μοῦσαι)
学問と芸術を司る九人の女神。英語ではミューズ。museum(ムーサの神域)と music(ムーサの技)の語源。