世界の始まりに生じた愛の神。後の時代に矢を持つ子どもの姿になった。
エロスとは何の神様か
エロスはひとことで言えば二つの経歴を持つ神です。原初の神として始まり、途中から幼児になりました。
ヘシオドス『神統記』では、世界の始まりに生じた四番目の存在です。カオス、ガイア、タルタロス、そしてエロス。
不死の神々のうちもっとも美しく、あらゆる神と人の胸のうちで、 思慮と分別を打ち負かす神。
親はいません。 誰かの子ではなく、引き合う力そのものとして置かれています。ばらばらに生じたものが結び合って世界になるには、この力が要りました。
ところが後の時代になると、アフロディーテの子として語られはじめます。母のそばを飛び回り、矢で人を射る少年です。
原初の神が、女神の子どもになった。 ギリシャの神々のなかで、これほど格の変わった例はほかにありません。
ローマ名はクピド。英語のキューピッドはこの形です。詩ではアモル(愛)とも呼ばれました。
信仰の中心はテスピアイで、そこでの最古の神像は、彫っていないただの石でした。
エロスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἔρως。日本語では「エロス」「エロース」が両方使われます。
ローマ名はクピド、またはアモルです。英語のキューピッドは、このクピドがなまった形です。 日本語で「キューピッド」と言えば、指しているのはこの神です。
語そのものは、恋しさや欲求を意味する普通の単語でした。愛を表すギリシャ語はほかにもあり、家族の情愛はストルゲー、友愛はフィリア、無償の愛はアガペーと呼び分けられます。
エロスが受け持ったのは、そのうち「強く求める愛」です。神の名が、そのまま愛の種類の名でもありました。
Ἔρως(エロース)
古代ギリシャ語の表記。「激しい欲求」「恋情」を意味する普通名詞が、そのまま神の名になっている。
Cupido(クピド)
ローマ名。「欲望」を意味するラテン語。英語のキューピッド(Cupid)はこの形から来ている。
Amor(アモル)
ローマでのもう一つの名。「愛」を意味するラテン語で、詩ではこちらがよく使われた。
エロース(エロース)
日本語での別表記。長音を入れる形で、原典の翻訳ではこちらが使われることが多い。
Ἔρωτες(エロテス)
複数形。ヘレニズム時代以降、翼を持つ愛の童子は一人ではなく複数いるものとして描かれた。
エロスの物語
四番目に生じた神 ─ 親を持たない愛
『神統記』の世界の始まりは、四つの名前で語られます。
まずカオスが生じた。次に胸幅広いガイア、 そしてタルタロス?、そしてエロス。
親はいません。 四つとも、誰かから生まれたのではなく、そこに生じました。
なぜ愛が最初期に置かれたのか。理由ははっきりしています。このあと、世界は「結ばれて生む」ことだけで広がっていくからです。
ガイアはウラノスを生み、ウラノスと結ばれてティタン神族?を生みます。ニュクスはエレボスと結ばれ、昼と大気を生みます。結び合う力がなければ、世界は増えません。
つまりこの神は、恋の神である前に、宇宙が広がるための仕組みでした。
古い哲学者たちも同じように扱っています。パルメニデスは「神々のうち最初にエロスを考え出した」と書き、後の哲学者たちも、物を引き寄せる力の名としてこの語を使いました。
矢も、翼も、いたずらも、まだ何もありません。姿の描写すら、ほとんど書かれていません。
誰の子か ─ 書物ごとに親が変わる
原初の神だったはずのエロスは、時代が下るとアフロディーテの子になります。しかも父が定まりません。
アレスの子とする伝え。ヘルメスの子とする伝え。 ゼウスの子とする伝え。ウラノスの子とする伝え。
父の候補がこれだけ並ぶのは、系譜が後から作られた証拠です。もともと親のない神に、無理に親を与えたためにこうなりました。
プラトンの対話篇には、さらに別の説明があります。エロスは神ではなく、神と人のあいだにいる存在であり、豊かさの神ポロスと貧しさの女神ペニアの子だというのです。
常に欠けているから、常に求める。 満たされれば、その神ではなくなる。
足りない状態そのものが、この神の正体だという説明です。
もうひとつ、記憶しておくべき区別があります。エロスは複数形でも語られました。 ヘレニズム時代の美術では、翼の生えた童子が何人も描かれます。日本語で「天使のような子ども」として思い浮かべる図像の元は、この複数のエロス(エロテス)です。
ローマではこれがクピドの群れになり、ルネサンス以降の絵画でプットと呼ばれる裸の幼児像に受け継がれました。
金の矢と鉛の矢 ─ 神をも射る
エロスの矢が二種類あるという話は、ローマの詩人オウィディウス『変身物語』に出てきます。
アポロンが、大蛇を射たばかりの得意な気分で、この小さな神をからかいました。その弓は子どもの持ち物だ、と。
怒ったエロスは矢筒から二本を抜きます。
一本は黄金で、先が鋭く、恋を起こす。 一本は鉛で、先が鈍く、恋を追い払う。
金の矢はアポロンに、鉛の矢は水の妖精ダプネに放たれました。
結果は残酷です。アポロンは狂おしく追い、ダプネは全力で逃げます。追いつかれる寸前、娘は父である河の神に願い、月桂樹に姿を変えました。
アポロンはその木を抱き、以後、月桂樹を自分の木とした。
予言も弓も医術も持つ神が、小さな子どもの矢一本で敗れています。
この場面の意味は明確です。愛は当事者の意志では動かない。 射た側にも、射られた側にも選択の余地がありません。ギリシャ・ローマの神話が恋をどう見ていたかが、ここに出ています。
プシュケとの物語 ─ 見てはならない夫
エロス自身が恋をする話は、ローマ時代の作家アプレイウスの物語のなかにあります。ギリシャの古い書物には出てきません。
人間の王女プシュケがあまりに美しく、人々がアフロディーテより彼女を讃えたため、女神は息子に「もっとも卑しい者に恋させよ」と命じました。
ところがエロス自身が娘に恋してしまいます。
プシュケは人けのない館に運ばれ、夜ごと訪れる夫と暮らしました。ただし条件がありました。
決して私の姿を見てはならない。
姉たちにそそのかされた娘は、ある夜、灯を近づけます。そこにいたのは怪物ではなく、翼を持つ美しい神でした。
灯の油が一滴、神の肩に落ちた。目を覚ました神は、そのまま去った。
プシュケは夫を探して各地をさまよい、アフロディーテから無理な仕事を次々に課されます。最後には冥界へ下る使いまで命じられました。
終わりは和解です。ゼウスがプシュケに神々の食べ物を与えて不死とし、二人は正式に結ばれました。
プシュケという名は「魂」を意味します。 心を扱う学問の名(サイコロジー)は、この語から来ています。愛と魂が試練を経て結ばれるという筋は、後の時代に繰り返し読み直されました。
彫っていない石 ─ テスピアイの信仰
エロスの信仰がもっとも篤かったのは、ボイオティア地方のテスピアイという町です。ヘリコン山の麓にあります。
パウサニアスは、この町の人々が古くからどの神よりもエロスを敬ってきたと記し、その神像についてこう書きました。
もっとも古い像は、加工していないただの石である。
矢も翼もありません。人の形ですらありません。神像とはもともとこういうものだった、という証拠がここに残っています。
テスピアイでは四年ごとにエロティディアという祭が開かれ、競技が行われました。
後の時代、この町は彫刻家プラクシテレスが作ったエロス像を持つことで有名になります。見物人が集まり、町の収入になりました。ローマ帝国期には皇帝が持ち去ったとも伝えられます。
アテネにも聖域がありました。アクロポリスの北斜面に、エロスとアフロディーテを合わせて祀る場所があり、岩に彫られた奉納の窪みが残っています。
また、アテネの学園アカデメイアの入口にはエロスの祭壇が置かれていました。学びの場の入口に、愛の神の祭壇がある。 求める心を学問の始まりと考えたためとされます。
エロスの家系図と家族
エロスのきょうだい: カオスともに世界の始まりに生じる・ガイアともに世界の始まりに生じる・ヘルマプロディトスともにアフロディーテの子に数えられる・アンテロス兄弟。弟がそばにいるとき、エロスは育つとされた
エロスの妻・夫: プシュケ闇のなかで結ばれ、試練ののち神の列に加わった
エロスの性格と人物像
エロスは、性格が二段階で変わった神です。
『神統記』のエロスに人格はありません。姿の描写すらなく、ただ「もっとも美しく、思慮を打ち負かす」とだけ書かれます。人物ではなく、世界を動かす力として置かれていました。
後の時代のエロスは、まったく違います。母のそばを飛び、気まぐれに矢を放ち、神をからかい、叱られると泣きます。宇宙の始まりの力が、いたずら好きの子どもになりました。
この変化は、単なる格下げではありません。詩人たちが恋の理不尽さを説明する言葉を必要としたためです。
なぜ、選んでいないのに好きになるのか。 なぜ、望まない相手を好きになるのか。
答えは「射られたから」でした。当人の意志ではないと言えることが、この神の役目になったのです。
もうひとつ見落とされがちなのは、この神が恐れられてもいたことです。悲劇の合唱隊は、エロスを「戦いにも打ち勝ち、人を狂わせる者」として歌います。かわいらしい童子の姿は後の時代のもので、古い時代のエロスは手のつけられない力でした。
なお、後の時代にアフロディーテの子とされたのは、この神だけではありません。ヘルマプロディトスはヘルメスとのあいだの子とされ、プリアポスはディオニュソスとのあいだの子とされます。愛の女神の子は、いずれも境目にいる神になりました。 男女の境、畑と外の境、そして人の意志と意志でないものの境です。
書物によってエロスの記述が異なるところ
ギリシャ神話は一冊にまとまっていません。エロスについても、 書物によって記述が分かれる箇所が1件あります。 どちらか一方に決めず、両方を出典つきで載せています。
記述が分かれるところ
神統記紀元前700年頃
第116〜122行
- カオス ─ ともに世界の始まりに生じる ─ エロス
ヘシオドス『神統記』では、エロスはカオス・ガイア・タルタロスと並んで世界の始まりに生じた原初の神であり、親を持たない。
ギリシャ神話(アポロドーロス)1〜2世紀頃
諸伝
- アフロディーテ ─ 後代ではアフロディーテの子とされる ─ エロス
後代の詩と美術では、エロスはアフロディーテの子として描かれる。父はアレス、ヘルメス、ゼウスなど諸説あって定まらない。原初の神が女神の子に置き換わった例。
エロスを祀った神殿と遺跡
エロスの神殿は、オリュンポスの主要な神々に比べると多くありません。 単独で大きな神殿を持つより、アフロディーテの聖域に添えて祀られることのほうが普通でした。
例外がテスピアイです。ここだけは、この神が町の第一の神でした。
もうひとつ記録に残るのが、アテネの学園アカデメイアの入口に置かれた祭壇です。学びの場の入口に、愛の神の祭壇がある。 求める心を学問の始まりと考えたためとされます。ただし、この祭壇そのものは現存しません。
上に挙げた二か所も、建物としての神殿は残っていません。 残っているのは、町の跡と、岩に彫られた奉納の痕跡です。
テスピアイ(エロース信仰の中心地)(Thespiae)
古代においてエロスをもっとも篤く祀った町
テスピアイ(エロース信仰の中心地)の住所: ギリシャ ボイオティア地方(ヘリコン山麓)
テスピアイ(エロース信仰の中心地)の祀られた神: エロス
テスピアイ(エロース信仰の中心地)に残るもの: 古代都市の跡。出土品は近隣の博物館に分蔵
パウサニアスは、テスピアイの人々が古くからどの神よりもエロスを敬ってきたと記しています。
もっとも古い神像は、彫っていないただの石でした。人の形をしていません。神像とはもともとこういうものだったことを示す、数少ない記録です。
四年ごとにエロティディアという祭が開かれ、競技が行われました。後には彫刻家プラクシテレスのエロス像を持つ町として知られ、見物人を集めています。
現在は古代都市の跡が残るのみで、神殿の建物は残っていません。
所在は古代地名事典プレイアデス(Thespiae)で確認した。
アクロポリス北斜面のエロースとアフロディーテの聖域(Sanctuary of Eros and Aphrodite)
アテネでエロスを祀った聖域
アクロポリス北斜面のエロースとアフロディーテの聖域の住所: ギリシャ アテネ アクロポリス北斜面
アクロポリス北斜面のエロースとアフロディーテの聖域の祀られた神: エロス、アフロディーテ
アクロポリス北斜面のエロースとアフロディーテの聖域に残るもの: 岩に彫られた奉納用の窪みと段
アクロポリスの北側の崖下にある聖域です。エロスとアフロディーテを合わせて祀りました。
建物はほとんど残っていませんが、岩肌に彫られた奉納品を置くための窪みが並んでおり、そこに供え物が置かれたことがわかります。
アテネの若い女性たちがここで祭に加わったと伝えられます。
アクロポリスの遊歩道から見上げる位置にありますが、建物としての神殿は残っていません。 岩そのものが聖域でした。
所在は古代地名事典プレイアデス(Sanctuary of Eros and Aphrodite)で確認した。
エロスが現代に残した痕跡
エロスの名は、図像・言葉・心理学の用語として現代に残りました。
キューピッドの図像: ローマ名クピドがなまった形。翼を持ち弓を構える幼児の姿は、ヘレニズム時代の複数のエロス像から、ローマのクピド、ルネサンスのプットを経て現在の図案になった。
「愛の矢」という言い回し: 恋に落ちることを「射抜かれる」と表す言い方は、金の矢の話に由来する。ヨーロッパ各国語に共通して残っている。
プシュケと心理学の語: 妻プシュケの名は「魂」を意味する。心を扱う学問の名(サイコロジー)はこの語から作られた。
カノーヴァ「アモルの接吻で蘇るプシュケ」: 1793年に完成した大理石像。翼を広げたエロスがプシュケを抱き起こす姿で、パリのルーヴル美術館が所蔵する。
愛の三分法という考え方: エロス(求める愛)、フィリア(友愛)、アガペー(無償の愛)と愛を呼び分ける整理は、現在も倫理や神学の議論で使われている。
エロスが司るもの
恋愛
恋そのものを司る。矢に射られた者は相手を選べないとされた。
縁結び
人と人を引き合わせる力。テスピアイでは四年ごとに祭が行われ、競技が奉納された。
良縁
アテネではアフロディーテと並べて祀られ、若い男女の結び付きを守る神とされた。
和合
離れているものを結び合わせる力として、原初の神の位置に置かれた。
エロスが登場するゲーム・アニメ
創作でのエロスは、ほぼ全部が「後の時代の姿」です。 翼を持つ幼児、弓と矢、いたずら好きという性格。いずれもヘレニズム時代以降に固まった像です。
一方で、世界の始まりに生じた原初の神という側面は、ほとんど描かれません。親を持たない引力としてのエロスは、絵にしにくいためです。
プシュケとの物語も、日本の創作ではあまり使われません。ヨーロッパでは絵画・彫刻・舞台の題材として繰り返し扱われてきました。
エロスが登場するゲーム
各種恋愛要素のあるゲームの「矢」の演出
恋に落ちる場面でハートの矢が飛ぶ表現は、この神の図像から広まりました。
エロスが登場するアニメ・漫画・映像
恋愛喜劇のキューピッド役
人と人を結び付ける役回りを「キューピッド」と呼ぶ言い方は、西洋の恋愛喜劇に定型として残っています。
西洋絵画を扱う各種の解説番組
絵の中の裸の幼児が誰なのかを説明する場面で、必ずこの神が取り上げられます。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
エロスについてよくある質問
エロスは何の神様ですか。
愛と欲求を司る神です。ヘシオドス『神統記』では世界の始まりに生じた原初の神の一柱で、親を持ちません。後の時代にはアフロディーテの子とされ、弓矢を持つ幼児の姿で描かれるようになりました。
エロスのローマ名は何ですか。
クピド(Cupido)です。英語のキューピッドはこの形がなまったものです。詩ではアモル(Amor、愛)とも呼ばれました。
エロスとキューピッドは同じ神ですか。
同じ神です。ギリシャ名がエロス、ローマ名がクピドで、キューピッドはクピドの英語読みにあたります。日本語で思い浮かべる翼のある幼児の姿は、ヘレニズム時代以降に固まった図像です。
エロスの親は誰ですか。
書物によって違います。『神統記』では親を持たず、カオスやガイアと並んで世界の始まりに生じました。後の時代にはアフロディーテの子とされ、父はアレス、ヘルメス、ゼウスなど諸説あって定まっていません。
エロスの金の矢と鉛の矢とは何ですか。
ローマの詩人オウィディウス『変身物語』に出てくる二本の矢です。金の矢は恋を起こし、鉛の矢は恋を追い払います。アポロンに金の矢を、妖精ダプネに鉛の矢を放ち、追う者と逃げる者を作りました。
エロスとプシュケの話はどこに書かれていますか。
ローマ時代の作家アプレイウスの物語のなかにあります。ギリシャの古い書物には出てきません。プシュケは「魂」を意味し、心理学(サイコロジー)という語はこの名から作られています。
エロスを祀った場所はどこですか。
ボイオティア地方のテスピアイが信仰の中心でした。最古の神像は彫っていないただの石だったとパウサニアスが記しています。アテネではアクロポリス北斜面にアフロディーテと合わせて祀る聖域がありました。
エロスと併せて覚えたい言葉・用語
タルタロス(Τάρταρος)
冥界よりさらに深い奈落。神々に逆らった者が落とされる。ティタン神族が封じられている。青銅の金床を天から落とせば大地まで九日、大地からここまでさらに九日かかるとされる。
ティタン神族(ティタンしんぞく)
ウラノスとガイアの子である十二柱の神々。クロノスを王とし、ゼウスとの十年戦争に敗れてタルタロスへ落とされた。「タイタン」とも表記する。