血の罪と偽りの誓いを追う復讐の女神。名を呼ぶことさえ避けられた。
エリニュスとは何の神様か
エリニュスはひとことで言えば取り下げられない告発です。追われた者は、逃げても隠れても終わりません。
落ちた血を大地が受け、そこからこの女神たちが生じた。
最初の親殺しの血から、親殺しを罰する者が出ています。罪そのものが、罰する者を生みました。
追う相手は決まっています。親を殺した者、血族を手にかけた者、偽りの誓いを立てた者、客人や物乞いを害した者。 いずれも、人間の側が裁ききれない罪です。
姿は黒衣に蛇の髪、松明と鞭を持ちます。眠らず、休まず、諦めません。
ローマ名はフリアエ。英語で激しい怒りを指す語は、この名から来ています。
そして古代の人は、この名を口に出すことを避けました。 呼べば来ると考えられたためです。かわりに「慈しみ深き女神」と呼びました。
エリニュスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では、単数が Ἐρινύς、複数が Ἐρινύες です。日本語では複数形をそのまま「エリニュス」と呼ぶことが多く、翻訳によって「エリーニュエス」「エリニエス」とも書かれます。
ローマ名はフリアエ。「激しい怒り」を意味するラテン語で、英語で怒り狂うさまを指す語はここから派生しました。
重要なのは、この名が避けられた語だったことです。 古代アテネの人は、この女神たちを本名で呼びませんでした。呼べば来る、と考えられたからです。
かわりに使われたのが「エウメニデス(慈しみ深き女神たち)」と「セムナイ(畏れ多き女神たち)」です。もっとも恐ろしい相手を、もっとも優しい言葉で呼ぶ。呼び替えそのものが信仰の形になっていました。
Ἐρινύες(エリニュエス)
古代ギリシャ語の複数形の表記。単数はエリニュス(Ἐρινύς)。語源は「怒りを追う」を意味する動詞と結び付ける説があるが、定まっていない。
Furiae(フリアエ)
ローマ名。「激しい怒り」を意味する語で、英語の fury(激怒)はここから来ている。単数形はフリア。
Εὐμενίδες(エウメニデス)
「慈しみ深き女神たち」という呼び替え。本来の名を口にすると来ると考えられたため、この呼び名が使われた。
Σεμναὶ Θεαί(セムナイ・テアイ)
「畏れ多き女神たち」。アテネでこの女神たちを指した公の呼び名で、アレオパゴスの丘の下に聖域があった。
エリーニュエス(エリーニュエス)
日本語での別表記。翻訳によって「エリニュス」「エリーニュス」「エリニエス」などが使い分けられる。
エリニュスの物語
- 最初の血から生まれる ─ 罪が罰する者を生む
- 何を罰したか ─ 法廷が届かない罪
- オレステスを追う ─ どちらを選んでも罪になる
- 慈しみ深き女神へ ─ 怒りが都市の守りに変わる
- 三人なのか、何人なのか ─ 名が後から付いた
最初の血から生まれる ─ 罪が罰する者を生む
ヘシオドス『神統記』は、この女神たちの誕生を、神話でもっとも激しい場面のなかに置きました。
天の神ウラノスは、生まれた子を次々に大地の底へ押し込めていました。苦しんだ大地ガイアは鎌を作り、末子クロノスに渡します。クロノスは待ち伏せ、父の体を切りました。
飛び散った血のしずくを、大地がことごとく受け取った。 年がめぐって、大地はエリニュスたちと巨人たちと木の妖精たちを生んだ。
神話で最初の親殺しの血から、親殺しを罰する者が生まれています。
この順序は偶然ではありません。ギリシャの神話は、罪が犯された瞬間に、それを追う者が同時に世界へ現れたという形で秩序を語りました。
父も母も、ふつうの意味では持ちません。血と大地から生じた存在です。だから、どの神の命令にも従いません。
ゼウスの部下ではないという点が、この女神たちの厄介さの根にあります。最高神が赦しても、彼女たちは追うのをやめません。
何を罰したか ─ 法廷が届かない罪
追う相手ははっきりしています。
親を殺した者。血のつながった者を手にかけた者。 偽りの誓いを立てた者。客人や物乞いを害した者。
並べてみると、共通点が見えます。いずれも、被害者が訴え出られない罪です。
殺された親は告発できません。誓いを破られた相手は、証拠を持ちません。旅人は土地に縁者がいません。訴える者がいない罪を、この女神たちが引き受けました。
『イリアス』では、誓いを立てる場面でこの名が呼ばれます。地の下にいて、偽りの誓いを立てた者を罰する者として並べられます。
息子に呪いをかけた父の願いを聞き届けたのも、この女神たちでした。
興味深い一節もあります。物を言った馬を黙らせたのがこの女神だ、と『イリアス』は書きます。定めを越えたものを元の位置へ戻すという働き方です。
哲学者ヘラクレイトスは、これをさらに広げました。太陽が決められた道をはみ出せば、この女神たちが見つけ出すだろう、と。自然の秩序まで含めて見張る存在として語られています。
オレステスを追う ─ どちらを選んでも罪になる
最大の物語は、オレステスを追った一件です。
トロイア戦争?から帰った王アガメムノンは、妻クリュタイムネストラに殺されました。息子オレステスは、アポロンの神託に従って母を討ちます。父の仇を討たない息子もまた罪だからです。
父の仇を討てば母殺しになり、討たなければ父への義務を捨てることになる。 逃げ道がありません。
母を討った瞬間、エリニュスが現れました。神託に従った行為であっても、血の罪は血の罪です。
オレステスは各地を逃げ回り、最後にアテネへたどり着きます。ここで前例のないことが起きました。
女神アテナが、人間の陪審による裁判を開いた。
追う女神たちが原告席に立ち、アポロンが弁護に立ちます。票は割れ、アテナの一票で無罪となりました。
追う側が、裁かれる手続きに従った。 ここがこの物語の要です。私的な復讐が、公の裁判に置き換わった瞬間として語られています。
慈しみ深き女神へ ─ 怒りが都市の守りに変わる
無罪を告げられたエリニュスは、当然ながら激怒しました。自分たちの役目が否定されたと受け取ったからです。
アテナは罰しませんでした。かわりに条件を出します。
この都市にとどまり、聖域を受け取り、供物を受けよ。 そのかわり、この土地の実りと家の秩序を守ってほしい。
女神たちは受け入れました。以後、アテネの守り神になります。呼び名も変わりました。エウメニデス(慈しみ深き女神たち)です。
アテネでは、この女神たちの聖域はアレオパゴスの丘の下にありました。同じ丘の上に、殺人を裁く法廷が置かれています。罰する神のすぐ隣に、裁く制度が置かれました。
もうひとつの聖地が、アテネ北郊のコロノスです。ソポクレスの悲劇では、盲いた老オイディプスがこの杜にたどり着き、そこで生涯を終えます。
杜には規則がありました。中を見てはならない。声を立ててはならない。 供えるのは葡萄酒ではなく、水と蜂蜜でした。酒を用いないのは、この女神たちが酔いを受け付けないためと説明されます。
三人なのか、何人なのか ─ 名が後から付いた
ヘシオドスは人数を書いていません。 名前も出しません。
三姉妹とし、名を挙げたのは後代です。
アレクト(休まぬ者)、ティシポネ(殺しの報いを与える者)、メガイラ(妬む者)。
三つとも、性格をそのまま名にしたものです。人格が先にあって名が付いたのではなく、働きに名を当てはめています。
姿の記述も時代で動きます。古い詩は姿をほとんど書きません。悲劇の舞台に登場して以降、黒衣・蛇の髪・血の滴る目という形が定まりました。
翼を持つ姿はローマの詩で強まったもので、ギリシャの舞台では翼のない姿だったとする証言があります。
姿も人数も名も、後の時代が埋めていったことになります。 もともとは「追ってくる何か」であって、輪郭がありませんでした。
これは弱さではなく、この存在の性質です。罪の意識そのものを神にしたら、顔は決まりません。 近代以降、この女神たちが良心の呵責の比喩として繰り返し使われてきたのも、そのためです。
エリニュスの家系図と家族
エリニュスの性格と人物像
エリニュスは、憎んでいません。
ここを取り違えると、この女神たちは単なる怖い存在になります。追う理由は個人的な恨みではなく、血の掟が破られたからです。相手が誰であれ、事情がどうであれ、条件がそろえば追います。
オレステスの一件が分かりやすい例です。神託に従った行為であり、殺された母のほうが先に夫を殺しています。それでも追いました。動機を考慮しないことが、この女神たちの原理です。
情状を汲まないから、赦すこともできません。だからこそ、赦す仕組みとして人間の法廷が必要になりました。裁判という制度は、この女神たちを説得するために生まれたという筋書きになっています。
もうひとつの顔が、受け入れられたあとの姿です。アテネにとどまると決めたあと、この女神たちは土地の実りと家の秩序を守る神になりました。追う力が、守る力にそのまま転じています。
恐ろしいものを追い出さず、居場所を与えて味方にする。 ギリシャ神話が示したもっとも成熟した解決が、ここにあります。
エリニュスを祀った神殿と遺跡
エリニュスは、神殿を建てて拝む形の神ではありませんでした。 屋根と柱を持つ神殿の遺構は確認されていません。
かわりに祀られたのは、丘・杜・洞といった、囲われていない場所です。アテネのアレオパゴスの下と、北郊のコロノスが代表で、どちらも建物ではなく土地そのものが聖域でした。
祀り方も他の神と違います。供えるのは水と蜂蜜で、葡萄酒を用いません。 黒い獣を犠牲にし、供物は焼き尽くして人が食べませんでした。
これは冥界の神に対する作法です。オリュンポスの神への供物は分けて人も食べますが、地下の神には全部を渡します。祀り方の違いが、この女神たちの居場所を示しています。
アレオパゴス(セムナイ女神の聖域)(Areopagus)
アテネで殺人を裁いた丘。その下にこの女神たちの聖域があった
アレオパゴス(セムナイ女神の聖域)の住所: ギリシャ アテネ アクロポリス北西の丘
アレオパゴス(セムナイ女神の聖域)の祀られた神: セムナイ女神(エリニュス/エウメニデス)
アレオパゴス(セムナイ女神の聖域)に残るもの: 露出した岩盤と、頂上へ登る階段
アレオパゴス(セムナイ女神の聖域)のご利益: 正義
アクロポリスの北西に隣り合う低い岩の丘です。古代アテネで、殺人を裁く法廷が置かれた場所です。
この丘の下に、セムナイ女神(畏れ多き女神たち)の聖域がありました。悲劇『エウメニデス』は、オレステスの裁判がこの丘で開かれ、その直後に女神たちがこの地に迎えられたと語ります。
裁く場所と、罰する神の聖域が、同じ丘に置かれている。 これがアテネの選んだ形でした。
現在は建物の遺構がほとんど残らず、岩がむき出しのまま公開されています。アクロポリスの入口から歩いてすぐです。
所在は古代地名事典プレイアデス(Areopagus)で確認した。
コロノス(エウメニデスの杜)(Colonus)
オイディプスが最期を迎えたとされる女神たちの杜
コロノス(エウメニデスの杜)の住所: ギリシャ アテネ北部(アカデメイアの北)
コロノス(エウメニデスの杜)の祀られた神: エウメニデス(慈しみ深き女神たち)
コロノス(エウメニデスの杜)に残るもの: 丘そのもの。市街地に囲まれた小さな公園
コロノス(エウメニデスの杜)のご利益: 厄除け
アテネ北郊の低い丘で、ソポクレスの生地と伝えられます。悲劇『コロノスのオイディプス』の舞台であり、エウメニデスの杜があった場所とされます。
杜には厳しい決まりがありました。
中をのぞいてはならない。声を立ててはならない。
供えるのは水と蜂蜜で、葡萄酒は用いません。この女神たちが酔いを受け付けないためと説明されます。
杜そのものの遺構は確認されていません。 現在は市街地のなかの小さな丘で、公園として整備されています。
所在は古代地名事典プレイアデス(Kolonos Hippios)で確認した。
エリニュスが現代に残した痕跡
エリニュスの名は、言葉・制度・悲劇として現代に残りました。
英語の「激怒」を意味する語: ローマ名フリアエ(Furiae)から生まれた語で、抑えのきかない怒りを指す。形容詞形も日常語として使われている。
アレオパゴスという語: アテネで殺人を裁いた法廷の名。この女神たちの聖域と同じ丘にあったことから、いまも「最高の合議体」を指す比喩として各国語で使われる。
アイスキュロス『オレステイア』三部作: 紀元前458年に上演された悲劇。第三部の題が『エウメニデス』で、この女神たちが合唱隊を務める。復讐が裁判に置き換わる筋は、いまも法思想の議論で引かれる。
ソポクレス『コロノスのオイディプス』: エウメニデスの杜にたどり着いた老オイディプスの最期を描く。作者の最晩年の作で、死後に上演された。
「良心の呵責」の比喩: 逃れられない自責の念を、この女神たちに追われる姿でたとえる言い方が、ヨーロッパの文学に定着した。
エリニュスが司るもの
復讐
殺された者に代わって罪を追う。訴える者のいない罪を引き受ける女神とされた。
誓約
偽りの誓いを立てた者を罰する。誓いの場でこの女神たちの名が呼ばれた。
正義
人間の法廷が届かない罪に対する裁きを司る。のちに裁判の制度そのものと結び付けられた。
秩序の維持
定めを越えたものを元の位置へ戻す働きとして語られた。自然の秩序にも及ぶとされた。
エリニュスが登場するゲーム・アニメ
創作では「執念深い追跡者」の型として使われることがほとんどです。 蛇の髪と黒衣という見た目も、そのまま採られます。
一方で、原典のいちばん重要な部分──最後に説得を受け入れ、都市の守り神になるという結末は、ほとんど描かれません。
追い詰める場面は絵になりますが、和解の場面は台詞が長くなるためです。原典では、この和解こそが物語の到達点でした。
エリニュスが登場するゲーム
エリニュスが登場するアニメ・漫画・映像
各種のギリシャ悲劇の舞台・映像化
『オレステイア』は現在も世界中で上演され続けており、この女神たちの合唱隊が見せ場になります。
推理・法廷ものの比喩表現
逃げ切れない追及者を「復讐の女神」と呼ぶ言い方が、日本語の作品でも定着しています。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
エリニュスについてよくある質問
エリニュスは何の神様ですか。
血の罪と偽りの誓いを罰する復讐の女神です。親殺し・血族殺し・偽誓・客人への加害など、人間の法廷が届かない罪を追いました。ふつう三姉妹として語られます。
エリニュスのローマ名は何ですか。
フリアエ(Furiae)です。「激しい怒り」を意味するラテン語で、英語で激怒を指す語はここから来ています。単数形はフリアです。
エリニュスとエウメニデスは違う存在ですか。
同じ存在です。エウメニデスは「慈しみ深き女神たち」という呼び替えで、本来の名を口にすると来ると考えられたため使われました。アテネではセムナイ(畏れ多き女神たち)とも呼ばれています。
エリニュスは何人いるのですか。
ヘシオドスは人数も名も書いていません。三姉妹とし、アレクト・ティシポネ・メガイラという名を挙げたのは後の時代です。名はいずれも働きをそのまま表しています。
エリニュスはどうやって生まれたのですか。
クロノスが父ウラノスを鎌で討ったとき、飛び散った血を大地が受け、そこから生まれました。最初の親殺しの血から、親殺しを罰する者が生じたことになります。
オレステスはなぜ追われたのですか。
父の仇を討つために母を殺したためです。神託に従った行為でしたが、血の罪であることに変わりはありません。最後はアテネで人間の陪審による裁判が開かれ、女神アテナの一票で無罪となりました。
エリニュスを祀った場所はありますか。
アテネのアレオパゴスの丘の下と、北郊のコロノスに聖域がありました。ただし神殿の遺構は確認されていません。供えるのは水と蜂蜜で、葡萄酒は用いない決まりでした。
エリニュスと併せて覚えたい言葉・用語
トロイア戦争(トロイアせんそう)
ギリシャ軍とトロイアの十年に及ぶ戦争。パリスがスパルタ王妃ヘレネを連れ去ったことから始まった。ホメロス『イリアス』はその十年目を描く。