記憶そのものである女神。ゼウスと九夜をともにし、ムーサ九柱を生んだ。
ムネモシュネとは何の神様か
ムネモシュネはひとことで言えば記憶そのものです。名がそのまま「記憶」を意味します。
ウラノスとガイアの娘で、ティタン神族?の一柱。ゼウスと九夜続けて交わり、翌年に九柱のムーサを生みました。
詩と学芸の女神たちは、記憶から生まれた。
この系譜には理由があります。文字が広まる前のギリシャで、叙事詩は書かれずに暗誦で伝えられていました。 詩人が語れるのは、覚えていることだけです。
ホメロスもヘシオドスも、詩の冒頭でムーサ?に呼びかけます。「歌ってください」「思い出させてください」。創作を求めているのではなく、思い出させてほしいと頼んでいるのです。
もう一つ、冥界にはムネモシュネの泉があるとされました。忘却の川レテと対になり、どちらの水を飲むかで死後の記憶が決まると信じられました。
ムネモシュネのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Μνημοσύνη。日本語では「ムネモシュネ」または「ムネーモシュネー」と書きます。
この名からは、現代の言葉がいくつも出ています。記憶術を意味する語、記憶を助ける工夫を指す語は、どちらもこの語根です。
ローマではこの女神をモネタと重ねました。そしてモネタの神殿に造幣所が置かれたため、この名が「貨幣」を意味する語になりました。 英語やフランス語で金銭を指す語は、たどればこの女神に行き着きます。
記憶の女神の名が、お金の名前になった。 神話の名前が現代語に残った例のなかでも、とりわけ遠くまで来た一つです。
Μνημοσύνη(ムネモシュネ)
古代ギリシャ語の表記。「思い出す」を意味する動詞から作られた語で、そのまま記憶を指す普通名詞でもある。
ムネーモシュネー(ムネーモシュネー)
長音を残した学術的な表記。事典類ではこちらの形が多い。
モネタ(モネタ)
ローマで対応させられた女神の名。「思い出させる者」の意で、この名の神殿に造幣所が置かれたことから、貨幣を指す語の語源になった。
ムネモシュネの物語
九夜と九柱 ─ 数がそろっている理由
ヘシオドス『神統記』は、ムーサの誕生をこう語ります。
ゼウスは九夜、ムネモシュネのもとへ通った。 年が巡り、季節が移ったとき、九人の娘が生まれた。
九夜に九柱。数がそろっているのは偶然ではありません。一夜ごとに一柱、という書き方です。
生まれた場所はピエリア、オリュンポス山の北の麓とされます。九柱はそこから南下し、ヘリコン山に住みつきました。
名前も伝わっています。クレイオ、エウテルペ、タレイア、メルポメネ、テルプシコラ、エラト、ポリュムニア、ウラニア、そして長女カリオペです。
それぞれの受け持ちが歴史・叙事詩・悲劇・天文と分かれるのは、ずっと後、ローマ時代になってからです。 ヘシオドスの段階では、九柱はまとめて歌う一団でした。
書かれない詩 ─ なぜ記憶が女神なのか
ギリシャに文字が戻ってくるのは、紀元前8世紀ごろです。それ以前、そしてその後もしばらく、叙事詩は書かれずに口で伝えられていました。
『イリアス』は一万五千行以上あります。これを暗記して語る職業の人がいました。詩人の技術とは、記憶の技術だったのです。
だから詩は、こう始まります。
女神よ、歌ってください。ペレウスの子アキレウスの怒りを。
ムーサたちよ、教えてください。誰が最初に立ち向かったのかを。
頼んでいるのは思い出させてくれということです。詩人は作者ではなく、思い出す人でした。
この考え方は、そのまま母子の系譜になっています。記憶が母で、詩と学問が娘。ギリシャ人にとって、覚えていることが全ての学びの土台でした。
哲学者プラトンも、学ぶこととは思い出すことだと論じています。この発想の背景に、この女神がいます。
冥界の二つの水 ─ レテとムネモシュネ
冥界には二つの水があると信じられました。忘却の川レテと、記憶の泉ムネモシュネです。
南イタリアやクレタ島の墓から、金の薄板に刻まれた文が出土しています。オルフェウス教の信者が、死者に持たせたものです。
館の左手に泉がある。近づくな。 その先に、記憶の湖から流れる冷たい水がある。 番人に「私は星ふる天と大地の子だ」と告げ、その水を飲め。
普通の死者はレテの水を飲み、生前を忘れて生まれ変わる。 しかし正しい道を知る者はムネモシュネの水を飲み、記憶を保ったまま次へ進める、という教えです。
死後に何を残せるかという問いに、ギリシャの一部の人々は「記憶」と答えました。
ギリシャ本土のレバデイアにはトロポニオスの神託所があり、うかがう者はまずレテの水を飲んで過去を忘れ、次にムネモシュネの水を飲んで、これから見るものを覚えて帰るようにしたと、パウサニアスが記しています。
ムネモシュネの家系図と家族
ムネモシュネの親: ウラノスウラノスとガイアの娘として生まれた
ムネモシュネのきょうだい: テミスともにウラノスとガイアの娘にあたる
ムネモシュネの妻・夫: ゼウス九夜をともにし、翌年にムーサ九柱を生んだ
ムネモシュネの性格と人物像
ムネモシュネには、性格を語れる場面がほとんどありません。
台詞がなく、怒らず、動きません。原典に書かれているのは、ゼウスと九夜を過ごしたことと、九柱を生んだことだけです。
それでもこの女神は、ギリシャ神話のなかで特別な位置にいます。理由は単純で、この神話そのものが、ムネモシュネの働きによって伝わったことになっているからです。
詩人が語り、その語りが神話になり、その神話に記憶の女神が出てくる。入れ子になっています。
もう一つ見落とせないのが、忘れることとの関係です。この女神は忘却の対極に置かれていますが、レテを敵として扱ってはいません。冥界では二つの水が並んで流れています。
忘れる者と覚える者が、どちらもいる。 ギリシャ人はそう考えました。すべてを覚えていることが良いとは、どこにも書かれていません。
事績が少ない神ですが、なぜ少ないのかがはっきりしている神でもあります。記憶は動くものではなく、支えるものだからです。
ムネモシュネを祀った神殿と遺跡
ムネモシュネだけを祀った神殿は確かめられませんでした。 この女神は、娘であるムーサの聖域のなかに像として置かれる形で祀られています。
ボイオティア地方ヘリコン山麓のムーサの谷が、その代表です。ヘシオドスが詩人になった場所として名が残り、いまも祭壇と劇場の跡が見られます。
もう一か所、ギリシャ中部のレバデイアにあったトロポニオスの神託所では、レテとムネモシュネの二つの水を飲む儀式が行われたとパウサニアスが伝えます。ただし、その泉の位置を確定できる資料は見つかりませんでした。
ムーサの聖域(ムーサのせいいき)
ヘシオドスが歌ったムーサの聖域
ヘリコン山の北の谷にあります。ヘシオドスが羊を飼っていたとき、この山でムーサに出会って詩人になったと『神統記』の冒頭に書いています。
ムーサの聖域には、その母ムネモシュネの像も置かれていました。 パウサニアスは、ここで四年ごとに詩と音楽の競技が行われたと記しています。
いま残るのは祭壇と劇場と柱廊の基礎で、山あいの静かな谷になっています。
座標は東経23.060・北緯38.316。近くのテスピアイの町とあわせて訪ねられる。
ムネモシュネが現代に残した痕跡
ムネモシュネの名は、記憶に関わる言葉として現代に残りました。
記憶術を指す語: 語呂合わせや連想で覚える技術を指す語は、この女神の名から作られている。医学・心理学でも記憶に関する用語に使われる。
貨幣を意味する語: ローマでこの女神に対応するモネタの神殿に造幣所が置かれ、その名が金銭を指す語になった。英語やフランス語の金銭の語はここに由来する。
ムネモシュネ・アトラス: 美術史家アビ・ヴァールブルクが1920年代に作った図版集の名。図像を並べて記憶の連なりを見せる試みで、現代の美術研究に影響を残した。
小惑星ムネモシュネ: 1859年に発見された小惑星57番の名。
ムネモシュネが司るもの
記憶
覚えていること、思い出すことを司る。名がそのまま記憶を意味する。
詩
暗誦で伝えられた叙事詩を支える女神。ムーサ九柱の母にあたる。
学問
学ぶこととは思い出すことだ、という古代の考えの中心にいる。
記録
文字が広まる前、記録は人の頭のなかにあった。その働きを担う。
忘却
冥界で忘却の川レテと対をなす。どちらの水を飲むかで死後が分かれるとされた。
ムネモシュネが登場するゲーム・アニメ
創作でこの名が使われるとき、神としてではなく「記憶」という言葉の言い換えとして出てくることがほとんどです。
人格が原典にほとんど書かれていないため、姿を借りるより、名前だけを借りる使われ方になります。母としてムーサの背後に立つ図像は古代から少なく、絵画でも単独で描かれる例は多くありません。
ムネモシュネが登場する絵画
ロセッティ「ムネモシュネ」
1881年の作。ランプを持つ女性として描かれ、記憶の灯という読み方をしています。
各地のムーサ図
九柱を描いた古代の壺絵や石棺には、母として同席する姿が加えられることがあります。
ムネモシュネが登場するゲーム・創作
記憶を扱う作品の名
記憶をめぐる物語の題名や、記憶装置の名としてこの語が使われることがあります。
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ムネモシュネについてよくある質問
ムネモシュネはどんな神ですか。
記憶を司るティタン神族の女神です。ウラノスとガイアの娘で、ゼウスと九夜をともにして、詩と学芸の女神ムーサ九柱を生みました。名がそのまま記憶を意味します。
なぜ記憶の女神からムーサが生まれたのですか。
文字が広まる前のギリシャでは、叙事詩は暗誦で伝えられていたためです。詩人が語れるのは覚えていることだけで、ホメロスもヘシオドスも詩の冒頭でムーサに「思い出させてください」と呼びかけています。
ムネモシュネとレテはどんな関係ですか。
冥界で対になる二つの水です。レテの水を飲めば生前を忘れ、ムネモシュネの水を飲めば記憶を保つとされました。オルフェウス教の金板には、どちらの水を飲むべきかを死者に教える文が刻まれています。
お金を意味する言葉と関係がありますか。
あります。ローマでこの女神に対応した女神モネタの神殿に造幣所が置かれ、その名が金銭を指す語になりました。英語やフランス語で金銭を指す語は、たどるとこの女神に行き着きます。
ムネモシュネの神殿はありますか。
この女神だけを祀った神殿は確かめられませんでした。ボイオティア地方ヘリコン山麓のムーサの聖域に像が置かれていたとパウサニアスが伝えており、その遺構は現在も見ることができます。
ムネモシュネと併せて覚えたい言葉・用語
ティタン神族(ティタンしんぞく)
ウラノスとガイアの子である十二柱の神々。クロノスを王とし、ゼウスとの十年戦争に敗れてタルタロスへ落とされた。「タイタン」とも表記する。
ムーサ(Μοῦσαι)
学問と芸術を司る九人の女神。英語ではミューズ。museum(ムーサの神域)と music(ムーサの技)の語源。