巻物を抱えるムーサ。名は「讃えて名を残す者」を意味する。
クレイオとは何の神様か
クレイオはひとことで言えば名を残す女神です。
ゼウスと記憶の女神ムネモシュネの娘で、九柱のムーサの一柱。名は「讃える」を意味する動詞から作られ、その根には名声を指す語があります。
後世の整理で歴史を受け持つとされ、巻物を広げるか、書物を納めた円い箱を抱えた姿で描かれます。ただし九柱の分担そのものがローマ時代以降にできたもので、ヘシオドスの段階では九柱はまとめて歌う一団でした。
この女神には、めずらしく個別の逸話があります。アポロドーロスによれば、クレイオはアフロディテがアドニスに恋したことを責めました。仕返しにアフロディテはこの女神へ人間への恋を吹き込みます。
神を笑った者が、同じ場所で笑われる立場に置かれた。
クレイオのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Κλειώ。日本語では「クレイオ」「クレイオー」「クリオ」の三通りが使われます。
名の根にあるのはクレオスという語です。これは「評判」「語り継がれる名誉」を意味し、ホメロスの詩では英雄がもっとも求めるものとして繰り返し出てきます。
長く生きて忘れられるか、早く死んで名が残るか。
アキレウスが選んだのは後者でした。クレイオが司るのは、この「残る名」のほうです。 起きた出来事そのものではありません。
ここに、ギリシャ人にとっての歴史の姿がよく表れています。歴史は記録ではなく、讃えて語り継ぐ行いでした。 史書の父と呼ばれるヘロドトスも、その冒頭で「人の成したことが忘れられないように」と書き出しています。
ティタン神族?のクレイオスと綴りが似ていますが、別の存在です。
Κλειώ(クレイオ)
古代ギリシャ語の表記。「讃える」「名を高める」を意味する動詞から作られた名。
クレイオー(クレイオー)
長音を残した学術的な表記。事典類ではこの形が多い。
クリオ(クリオ)
ラテン語を経た読みにもとづく表記。美術や歴史学の文脈ではこちらも見られる。
クレオ(クレオ)
短く写した表記。ティタン神族のクレイオスとは無関係である。
クレイオの物語
恋を吹き込まれる ─ 九柱で最も人間くさい逸話
ムーサ?たちは、ふつう恋をしません。九柱そろって歌い、挑む者を罰し、それ以上は物語に踏み込みません。
クレイオだけが、はっきりした恋の話を持っています。アポロドーロスの『ギリシャ神話』第1巻に、短く記されています。
クレイオはアフロディテを責めた。 アドニスへの恋のことである。 女神は仕返しに、クレイオへ人間への恋を吹き込んだ。
相手はマケドニアの王ピエロス。生まれた子がヒュアキントスです。
神を笑った者が、同じ場所で笑われる立場に置かれる。 ギリシャ神話が繰り返し使う型が、ここでも働いています。
ただし、この系譜は少数派です。ヒュアキントスの父をスパルタ王アミュクラス、母をディオメデとする伝えのほうがよく知られています。アポロドーロス自身、両方を書き並べています。
どちらが正しいのかは決められません。 ただ、記録を司る女神が、記録の割れた子を持っているという取り合わせは、この女神をよく表しているように思えます。
巻物と書物箱 ─ 持ち物が担当を決めた
クレイオの図像は、九柱のなかでもっとも分かりやすいものの一つです。半分ひらいた巻物を手にするか、足もとに書物を納めた円い箱を置きます。
この持ち物は、ローマ時代の図像で固まりました。同じころ、九柱それぞれに担当の札が貼られていきます。
仮面を持つ者は劇の女神、 笛を持つ者は音楽の女神、 巻物を持つ者は歴史の女神。
持ち物が先に定まり、担当があとから固まったという順序が、研究では指摘されています。
注意したいのは、巻物が歴史書とは限らないことです。当時の書物はすべて巻物でした。だから「書かれたもの一般」を表す持ち物が、たまたま歴史に割り当てられたとも読めます。
それでも、この組み合わせは強く残りました。近世以降、図書館や記念碑に置かれた「巻物を持つ女性像」は、ほぼ例外なくこの女神です。歴史という学問の看板を、ひとりで背負い続けていることになります。
なぜ歴史が学芸に入ったのか ─ 語ることと調べること
現代の感覚では、歴史は文学や音楽と別の棚に置かれます。ギリシャでは同じ棚でした。
理由は単純で、歴史は声に出して語られるものだったからです。ヘロドトスは自分の書いたものを人前で読み上げたと伝えられます。史書は読む本である前に、聞かせる作品でした。
もう一つは、母がムネモシュネであることです。
文字が広まる前、記録は人の頭のなかにあった。
覚えていることが、そのまま歴史でした。 記憶の娘たちが詩も歴史も天文も分け持つのは、この事情からすれば自然な配置です。
さらに、ギリシャ語で「歴史」に当たる語は、もともと調べること・尋ねて確かめることを意味しました。ヘロドトスの書名にあたる語がそれです。歌うことと調べることが、同じ女神たちの領分にありました。
讃える働きと、確かめる働き。 クレイオはその両方を名のなかに抱えています。名は讃えることを意味し、仕事は残すことでした。
クレイオの家系図と家族
クレイオの子・子孫: ヒュアキントス人間ピエロスとの間に生んだとする伝え
クレイオの性格と人物像
クレイオの性格を、原典から読み取れる材料はごくわずかです。
手がかりは一つだけあります。アフロディテを責めたことです。九柱のなかで、他の神の恋を批判した女神はこの一柱しかいません。
人間に恋するとは、みっともないことだ。
そう言ったとされ、そして同じことを自分がしました。批判する側にいた者が、批判される側に落ちる。 ギリシャ神話がもっとも好む転落の型です。
この短い逸話から見えるのは、筋の通ったことを言う性格です。同時に、筋を通す者ほど例外を許されないという、この神話の冷たさもよく表れています。
もう一つ、この女神には嘆いた記録がありません。 生んだ子ヒュアキントスが死んだとき、母として泣く場面は書かれていません。嘆いたのはアポロンです。
記録の女神でありながら、自分についての記録はほとんど残っていない。名を残す働きを司る神が、自分の名以外にはほとんど何も残していないという形になっています。
そのことが、かえってこの女神の輪郭をはっきりさせているとも言えます。歴史とは、書く者の姿が消える仕事だからです。
クレイオを祀った神殿と遺跡
クレイオひとりを祀った神殿は確かめられませんでした。 ムーサは九柱そろって祀られるのが古代の形で、個別の祭壇はほとんど記録がありません。
代表的な聖所が、ボイオティア地方ヘリコン山麓のムーサの谷です。祭壇・劇場・柱廊の跡が残ります。
この女神の名は、祭祀よりも書物と図像のなかで生きてきました。歴史を書く人が、書きはじめる前に呼びかける相手。 それがクレイオの位置です。
近世以降の図書館や記念碑に置かれた「巻物を持つ女性像」は、この女神を写したものが大半ですが、それらは信仰の場ではありません。
ムーサの聖域(ムーサのせいいき)
ヘシオドスが歌ったムーサ九柱の聖域
ヘリコン山の北側の谷にある聖域です。ヘシオドスがここでムーサに出会ったと『神統記』は語ります。
祀られるのは九柱そろってで、クレイオひとりの祭壇は伝わっていません。 パウサニアスは、聖域に立ち並んでいた像や、詩と音楽の競技について書き残しました。
いま見られるのは祭壇と劇場と柱廊の基礎だけで、静かな谷になっています。
古代の町テスピアイの跡が近くにある。
クレイオが現代に残した痕跡
クレイオの名は、歴史学の看板として現代に残りました。
歴史学の象徴としての名: 歴史学の学術誌や賞、歴史学会の紋章に、この女神の名や巻物を持つ姿が用いられてきた。
小惑星クレイオ: 1865年に発見された小惑星84番の名。
巻物を持つ女性像: 図書館・裁判所・記念碑の装飾に置かれる、巻物を広げた女性像。ほぼ例外なくこの女神を表す。
ヘロドトスの巻の名: 『歴史』全九巻に、後代の編者がムーサ九柱の名を一巻ずつ付けた。第二巻がクレイオの名を負う。
クレイオが司るもの
記録
起きたことを書き留め、後の世に渡す働き。巻物はその印である。
名を残すこと
名の根にある語は、語り継がれる名誉を意味する。歴史の中心にあった価値。
記録の保管
書物を納めた円い箱を足もとに置く姿で描かれる。
学問
「歴史」に当たるギリシャ語は、もともと調べて確かめることを意味した。
クレイオが登場するゲーム・アニメ
創作でのクレイオは、人格を持った登場人物にはほとんどなりません。 「歴史」という言葉の言い換えとして名が使われる形が大半です。
一方、美術での登場は多い女神です。巻物という一目で分かる持ち物があるため、寓意画の人物としては使いやすかったのだと考えられます。
クレイオが登場する絵画・彫刻
ローマ時代のムーサ像群
巻物を持つ立像として、九柱そろいの彫刻群のなかに置かれます。持ち物で誰かを見分ける仕組みです。
ヨハネス・フェルメール「絵画芸術」
月桂冠をかぶり、ラッパと本を持つモデルが描かれています。クレイオを装った姿だと読む説が有力です。
クレイオが登場する文学・学問
ヘロドトス『歴史』の巻名
九つの巻にムーサの名を配した編集が古代から行われ、その名で呼ばれてきました。
歴史書の献辞
近世の歴史書では、書き出しでこの女神に呼びかける形式が広く使われました。
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クレイオについてよくある質問
クレイオはどんな神ですか。
ムーサ九柱の一柱で、ゼウスと記憶の女神ムネモシュネの娘です。後世の整理では歴史を受け持つとされ、巻物や書物箱を持つ姿で描かれます。名は「讃えて名を残す者」を意味します。
クレイオはなぜ人間に恋したのですか。
アフロディテの仕返しだとアポロドーロスは書きます。クレイオがアフロディテのアドニスへの恋を責めたため、同じ苦しみを味わわせようと人間への恋を吹き込んだのです。
ヒュアキントスの母はクレイオですか。
そう伝える説があります。ただしスパルタ王アミュクラスとディオメデの子とする伝えのほうがよく知られており、アポロドーロスは両方を書き並べています。
ティタン神族のクレイオスと同じ神ですか。
別です。綴りは似ていますが、クレイオスはウラノスとガイアの子のティタンで、血のつながりもありません。
クレイオを祀った神殿はありますか。
この女神ひとりを祀った神殿は確かめられませんでした。ムーサは九柱そろって祀られ、ボイオティア地方ヘリコン山麓のムーサの谷にその聖域の跡が残ります。
クレイオと併せて覚えたい言葉・用語
ティタン神族(ティタンしんぞく)
ウラノスとガイアの子である十二柱の神々。クロノスを王とし、ゼウスとの十年戦争に敗れてタルタロスへ落とされた。「タイタン」とも表記する。
ムーサ(Μοῦσαι)
学問と芸術を司る九人の女神。英語ではミューズ。museum(ムーサの神域)と music(ムーサの技)の語源。