アポロンの円盤に当たって死に、花になったスパルタの少年。
ヒュアキントスとは何の神様か
ヒュアキントスはひとことで言えば祭を持つ死者です。
スパルタの美しい少年。アポロンに愛され、竪琴と弓と円盤の投げ方を教わっていました。
ある日、二人で円盤を投げ合っていたときのことです。神の投げた円盤が地面で跳ね返り、少年の額を打ちました。
医術の神が、自分の薬で救えなかった。
死んだ少年の血から、アポロンは花を咲かせます。花びらの模様に、嘆きの叫びを表す二文字を書き入れたとオウィディウスは語ります。
西風ゼピュロスが嫉妬し、円盤の向きを曲げたとする伝えもあります。
この少年が他の変身譚と違うのは、実際に祀られていたことです。スパルタ近郊のアミュクライでは、三日にわたるヒュアキンティアの祭が行われました。初日は嘆き、残る二日は喜びの日です。
ヒュアキントスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ὑάκινθος。日本語では「ヒュアキントス」または「ヒアキントス」と書きます。
この名で注目されるのは、音の並びです。名の中ほどにある子音の組み合わせは、ギリシャ語には本来なかった形とされます。
同じ形を持つ語 ─ コリントス、アカンサス、テリンス。
いずれも、ギリシャ語を話す人々が来る前からこの土地にあった言葉の名残だと考えられています。 地名と植物名に集中しているのが特徴です。
ここから、有力な説が出ています。ヒュアキントスは、ギリシャ以前からこの地で祀られていた神ではないかという見方です。アポロンが来たあと、その神に敗れた者、あるいは愛された者として物語に組み込まれた、という筋です。
祭の形も、この説を支えます。アミュクライのアポロン像の台座が、ヒュアキントスの墓とされていました。 新しい神の足もとに、古い神が眠っている形です。
現代の球根植物ヒヤシンスにこの名が付いていますが、神話の花とは別のものと考えられています。
Ὑάκινθος(ヒュアキントス)
古代ギリシャ語の表記。名に含まれる音の並びは、ギリシャ語が入る前の言葉の名残とされる。
ヒュアキントス(ヒュアキントス)
日本語での標準的な表記。ヒアキントスとも書かれる。
ヒュアキンティア(ヒュアキンティア)
アミュクライで三日にわたって行われた祭の名。初日は嘆き、残り二日は喜びの日とされた。
ヒヤシンス(ヒヤシンス)
現代の球根植物の名。ただし神話の花とは別の草花だったと考えられている。
ヒュアキントスの物語
円盤と西風 ─ 事故か、嫉妬か
少年の死に方は、伝えによって少し違います。
共通しているのは、アポロンが投げた円盤が当たったことです。オウィディウスの『変身物語』第十巻では、円盤は地面に落ちて跳ね返り、少年の顔を打ちます。
神は青ざめ、倒れた体を抱き起こした。 薬を試したが、傷は塞がらなかった。
医術を司る神が、自分の力で救えなかった。 この一点が、場面の重さを決めています。
もう一つの伝えでは、西風ゼピュロスが出てきます。この風の神も少年を愛しており、選ばれなかったことを恨んで、円盤の向きを曲げたというのです。
風が吹いて、円盤が逸れた。
この説は後代の書き手に見られるもので、オウィディウスは風のせいだとは書いていません。原典によって、事故と嫉妬に分かれています。
どちらを取るかで、話の性質が変わります。事故なら、これは避けようのない不運の話です。嫉妬なら、三角関係の悲劇になります。
絵画では、うずくまる神と倒れた少年、そして転がる円盤という構図が繰り返し描かれました。風を描き込むかどうかが、画家の選んだ説を示しています。
花びらの二文字 ─ 何の花だったのか
少年の血から咲いた花について、オウィディウスは細かく書いています。
血が地に染みると、そこから花が生えた。 色は赤紫。百合に似た形をしていた。
そして、神は自分の嘆きの声を、花びらに書き入れました。 ギリシャ語で「ああ」を表す二文字が、模様として読み取れるというのです。
この花は、現代のヒヤシンスではないと考えられています。 理由は二つあります。
一つは、記述と合わないことです。現代のヒヤシンスの花びらに、文字に見える模様はありません。もう一つは、古代ギリシャの記述に登場する花の名は、現代の分類とほとんど対応しないことです。
候補としては、デルフィニウムの仲間、アヤメの仲間、ユリの仲間などが挙げられてきました。どれも決め手を欠きます。
同じ模様は、アイアスの血からも咲いたとされる。
槍を得られずに自害した英雄アイアスの血からも、同じ二文字を持つ花が咲いたと伝えられます。この二文字は、アイアスの名の最初の二文字でもあります。
一つの花に、二つの由来が語られていることになります。古代の書き手も、この重なりに気づいていました。
嘆いてから喜ぶ祭 ─ ヒュアキンティア
ヒュアキントスが他の変身譚の主人公と決定的に違うのは、実際に祀られていたことです。
スパルタ近郊のアミュクライでは、毎年ヒュアキンティアという祭が三日にわたって行われました。
初日は嘆きの日。 冠をかぶらず、パンを食べず、讃歌を歌わない。 供物はヒュアキントスの墓へ捧げられる。
二日目から、様子が一変します。 少年たちが竪琴を鳴らし、若者が馬を乗りこなし、合唱隊が歌い、行列が組まれます。町じゅうが浮き立ち、市民は客を家に招いて食事をふるまいました。
三日目は、女たちが織った衣をアポロン像に着せる日です。
この祭は、スパルタにとって重い行事でした。戦の最中でも、この祭のために軍を引き上げたという記録が残っています。
祭壇の位置も象徴的です。アミュクライのアポロン像は巨大な柱状の像で、その台座がヒュアキントスの墓とされ、供物を入れる扉が付いていました。
嘆きから喜びへ。神の足もとに眠る古い者。 この祭の形が、ヒュアキントスの正体をもっともよく語っています。
ヒュアキントスの家系図と家族
ヒュアキントスの親: クレイオ人間ピエロスとの間に生んだとする伝え
ヒュアキントスの性格と人物像
ヒュアキントスには、性格を語れる材料がありません。
台詞がなく、選んだ行為もありません。円盤を投げ、当たり、死ぬ。書かれているのはそれだけです。
変身譚の主人公のなかでも、とりわけ受け身の位置にいます。 アクタイオンは見てしまい、カリストは追われ、エコーは喋りすぎました。この少年は、何もしていません。
それでも、この人物には他と違う特徴があります。嘆く相手がいることです。
神が抱き起こし、青ざめ、自分を責めた。
アポロンは、ギリシャ神話でめったに謝らない神です。マルシュアスの皮を剥ぎ、ニオベの子を射殺し、カサンドラに呪いをかけました。その神が、この場面でだけ悔いています。
オウィディウスは、神にこう言わせています。私の手が、私の罪だ、と。加害者が神で、しかもその神が嘆いているという配置は、他の変身譚にはありません。
そして、この少年は忘れられませんでした。 花になり、その花に嘆きの声が刻まれ、毎年の祭で三日にわたって思い出されます。
何もしなかった者が、いちばん手厚く扱われている。 変身譚の並びのなかで、この位置は特異です。愛された者は死んでも祀られる、という筋がここにはあります。
ヒュアキントスを祀った神殿と遺跡
住所を確かめられた神殿はありませんでした。 ただし、この少年が実際に祀られていたことは、はっきりしています。
場所はスパルタ近郊のアミュクライです。そこには巨大な柱状のアポロン像が立ち、その台座がヒュアキントスの墓とされていました。 供物を入れるための扉が付いていたとパウサニアスは記します。
毎年三日にわたってヒュアキンティアの祭が行われ、スパルタは戦の最中でもこの祭のために軍を引き上げたと伝えられます。
神の像の足もとに、別の存在の墓がある。 この配置は、ヒュアキントスがギリシャ以前からこの地で祀られていた神ではないかという説の、有力な根拠になっています。
遺構の位置を一次の資料で確かめられなかったため、この欄は空にしています。
ヒュアキントスが現代に残した痕跡
ヒュアキントスの名は、花の名として現代に残りました。
ヒヤシンス: 春に咲く球根植物の名。ただし神話の花とは別の草花だったと考えられており、花びらに文字状の模様もない。
宝石の名: 赤みを帯びた石を指す古い呼び名として、この名が用いられてきた。指す鉱物は時代によって異なる。
ギリシャ以前の言葉の痕跡: 名に含まれる子音の組み合わせは、ギリシャ語が入る前の言葉の名残とされ、コリントスやアカンサスと同じ型を持つ。
小惑星ヒュアキントス: 1959年に発見された小惑星の名として、この少年の名が付けられている。
ヒュアキントスが司るもの
花と実り
流れた血から花が咲き、花びらに嘆きの声が刻まれたと伝えられる。
嘆き
ヒュアキンティアの初日は、冠もパンも讃歌もない嘆きの日とされた。
春の訪れ
嘆きから喜びへ移る三日間の祭は、季節の切り替わりとも結び付けて論じられる。
大人になること
祭の二日目は少年と若者が中心となり、成人への通過儀礼と結び付ける見方がある。
名を残すこと
事績を持たない少年が、花と祭という二つの形で毎年思い出された。
ヒュアキントスが登場するゲーム・アニメ
ヒュアキントスは、絵画で「神が嘆く場面」として描かれてきました。 ギリシャ神話で、神の側が悔いている構図はまれです。
一方、名前のほうは花に持っていかれました。ヒヤシンスという花を知る人は多くても、由来の少年を思い浮かべる人は多くありません。名は残り、人は薄れた例です。
ヒュアキントスが登場する絵画・彫刻
ティエポロ「アポロとヒュアキントス」
十八世紀の作。倒れた少年を抱く神と、足もとに転がる用具が描かれています。
ブロック「ヒュアキントスの死」
十九世紀の作。円盤を手にしたまま嘆く神の姿を大きく描いています。
ヒュアキントスが登場する文学・創作
オウィディウス『変身物語』第十巻
アドニスやオルフェウスと同じ巻に置かれ、報われない愛の連なりとして語られます。
花に刻まれた文字という趣向
嘆きの声が花びらの模様になるという発想は、後世の詩でも引かれてきました。
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ヒュアキントスについてよくある質問
ヒュアキントスはどんな存在ですか。
スパルタの美しい少年です。アポロンに愛され、円盤の投げ方を教わっていましたが、その円盤に当たって死にました。血から花が咲いたと伝えられます。
円盤が当たったのは事故ですか。
伝えが分かれます。オウィディウスは跳ね返った円盤が当たったと書き、事故として語ります。一方、西風ゼピュロスが嫉妬して円盤の向きを曲げたとする伝えもあります。
咲いた花は今のヒヤシンスですか。
別の草花だったと考えられています。オウィディウスは花びらに嘆きの声を表す二文字が読み取れると書きますが、現代のヒヤシンスにそうした模様はありません。
ヒュアキンティアはどんな祭ですか。
スパルタ近郊のアミュクライで三日にわたって行われた祭です。初日は冠もパンも讃歌もない嘆きの日、残る二日は歌と行列と饗宴の喜びの日でした。スパルタは戦の最中でもこの祭のために軍を引き上げています。
他の変身譚とどこが違うのですか。
実際に祀られていた点です。アミュクライのアポロン像の台座がこの少年の墓とされ、毎年祭が行われました。ギリシャ以前からこの地で祀られていた神ではないかという説があります。