医術の神。死者まで蘇らせ、その罰にゼウスの雷で討たれた。
アスクレピオスとは何の神様か
アスクレピオスはひとことで言えば上手すぎて殺された神です。ローマ名はアイスクラピウス(エスクラピウス)。
父はアポロン、母は人間の女コロニスです。母が別の男と通じたためアポロンは彼女を討ちましたが、火葬の薪のなかから胎児を取り出しました。 育てたのは賢いケンタウロス、ケイロンです。
医術の腕は上がり続けます。薬草を知り、外科を修め、ついに、
死んだ者を生き返らせた。
ここで線を越えます。死者が減ることを訴えたハデスの求めに応じ、ゼウスが雷霆でこの神を討ちました。
怒ったアポロンは、その雷霆を鍛えたキュクロプスを射殺しています。
死後、神として祀られました。聖域はアスクレピエイオンと呼ばれ、古代ギリシャで最も多くの人が実際に足を運んだ宗教施設の一つです。神殿で眠り、夢に現れた神の指示を治療に用いました。
持ち物は一匹の蛇が巻き付いた杖。いま医療機関と救急車に付いている意匠は、これです。
アスクレピオスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἀσκληπιός。日本語では「アスクレピオス」で定着しています。
ローマ名はアイスクラピウスです。ギリシャ名をラテン語に写した形で、別の神に置き換えられたのではありません。ローマにはもともと医術の神がおらず、紀元前3世紀に疫病が流行したとき、エピダウロスから神を「迎えた」 と伝えられます。
このとき、聖蛇が船から降りてテヴェレ川の中州に上がったため、そこに神殿が建てられました。神をよそから輸入した、はっきりした例です。
杖の意匠は現在も広く使われています。ただしヘルメスの杖(二匹の蛇と翼)と混同されている例が非常に多く、医療の標識に二匹の蛇が使われているときは、たいてい取り違えです。正しくは蛇は一匹、翼はありません。
Ἀσκληπιός(アスクレピオス)
古代ギリシャ語の表記。語源は定まっておらず、ギリシャ語の外から入った名とする見方もある。
Aesculapius(アイスクラピウス)
ローマ名。エスクラピウスとも読む。紀元前3世紀に疫病を鎮めるためローマへ迎えられ、テヴェレ川の中州に神殿が建てられた。
Ἀσκλαπιός(アスクラピオス)
ドーリス方言の形。エピダウロスなどペロポネソス半島の碑文にはこの綴りが現れる。
アスクレピオスの杖(アスクレピオスのつえ)
一匹の蛇が巻き付いた杖。世界保健機関をはじめ、各国の医療組織の意匠に用いられている。
アスクレピオスの物語
- 火葬の薪から取り出される ─ 母を討った父
- 死者を蘇らせる ─ 越えてはならない線
- 神殿で眠る ─ 参籠という治療法
- 娘たちの名が言葉になる ─ 衛生と万能薬
- 杖はなぜ一匹なのか ─ 取り違えられ続けた意匠
火葬の薪から取り出される ─ 母を討った父
出生の場面は、ギリシャ神話でも屈指の異常さです。
母コロニスはテッサリアの王女で、アポロンの子を身ごもっていました。ところが彼女は、人間の男と通じます。
これを知らせたのが烏でした。当時、烏は白い鳥だったとされます。
報せを聞いたアポロンは怒り、烏の羽を黒く変えた。 以後、烏は黒い。
女神アルテミスが、あるいはアポロン自身が、コロニスを矢で討ちました。
遺体が火葬の薪に載せられたとき、アポロンは胎内の子に気づきます。
燃える薪から、子を引き出した。
母が焼かれるなかで、子だけが取り出されました。 ローマの詩人たちは、この場面を医術の神の始まりにふさわしいものとして繰り返し書いています。
引き取ったのは、ペリオン山に住む賢いケンタウロスケイロンでした。アキレウスやイアソンを育てた教師でもあります。ケイロンは薬草と外科をこの子に授けました。
父から予言と光を、育て親から薬を受け継いだことになります。
死者を蘇らせる ─ 越えてはならない線
アスクレピオスの腕は、人間の域を超えていきました。
決定的だったのは、ゴルゴンの血を手に入れたことです。アポロドーロスによれば、アテナがメドゥーサの血を分け与えました。
左の血脈から取った血は猛毒。 右の血脈から取った血は、死者を蘇らせる薬。
この薬で、アスクレピオスは死者を生き返らせます。よみがえらせた者の名は書物によって違い、ヒッポリュトス、カパネウス、テュンダレオス、グラウコスなどが挙げられます。
冥界の王ハデスが黙っていませんでした。
死者が減っている。
ハデスは兄ゼウスに訴えます。医術が完成すると、冥界が空になる。 これは世界の仕組みそのものへの脅威でした。
ゼウスは雷霆を放ち、アスクレピオスを討ちます。
悲しんだアポロンは、ゼウスに手を出せない代わりに、雷霆を鍛えた鍛冶のキュクロプスを射殺しました。 その罰として、アポロンは一年のあいだ人間の王のもとで牧人として働かされます。
一人の医師の死が、神々の側に連鎖の罰を起こしました。
神殿で眠る ─ 参籠という治療法
死後、アスクレピオスは神として祀られ、その聖域アスクレピエイオンはギリシャ世界の各地に建てられました。
ここで行われた治療が独特です。参籠と呼ばれます。
手順はおおよそ次のとおりでした。
身を清め、供物を捧げる。 定められた寝所(アバトン)で一夜を過ごす。 夢のなかに神が現れ、処置を施すか、指示を与える。
翌朝、神官がその夢を聞き取り、治療の内容を決めました。医術と信仰が、同じ建物の中で並んで行われています。
エピダウロスには、治った人が奉納した石板が残っています。そこには症状と経過が刻まれており、失明が治った、槍の穂先が取れた、子を授かったといった記録が並びます。
聖域には蛇が放し飼いにされていました。毒のない種で、夢のなかで患部を舐めるとされます。脱皮する蛇は、再生の象徴でした。
もうひとつ重要なのは、聖域の中では人を死なせなかったことです。死期の近い者と出産間近の女性は、区域の外に出されました。神域を穢さないためです。
治る見込みのある者だけを受け入れる施設でもあったことになります。
娘たちの名が言葉になる ─ 衛生と万能薬
アスクレピオスの家族は、そのまま医学の用語になりました。
妻はエピオネ、子には次の名が伝えられます。
ヒュギエイア(健康・清潔)、パナケイア(すべてを癒すもの)、 イアソ(治癒)、アケソ(回復)、アイグレ(輝き)。 息子にマカオンとポダレイリオス。
ヒュギエイアの名は、そのまま「衛生」を意味する語になりました。手を洗い、清潔を保つという考え方が、この女神の名で呼ばれています。病気を治すことより、病気にならないことを担当する神です。
パナケイアは「万能薬」を意味する語になりました。あらゆる病に効く薬という発想は、この女神の名で語り継がれています。
息子の二人は『イリアス』に登場します。トロイア戦争?にギリシャ側の軍医として従軍し、
メネラオスが矢を受けたとき、マカオンが呼ばれて矢を抜き、傷に薬を塗った。
と書かれます。医者が名指しで活躍する、ヨーロッパ最古の場面の一つです。
医術が家業として受け継がれるという考え方も、ここから来ています。コス島の医師たちは自らを「アスクレピオスの子ら」と呼びました。
杖はなぜ一匹なのか ─ 取り違えられ続けた意匠
アスクレピオスの持ち物は、一匹の蛇が巻き付いた、節くれだった木の杖です。
蛇が選ばれた理由は、いくつか重なっています。
脱皮して新しくなる。 地面すれすれを這い、地下の世界と通じている。 聖域では実際に放し飼いにされ、治療に立ち会っていた。
この杖は、いま世界中の医療機関の標識に使われています。世界保健機関の紋章もこの杖です。
ところが、よく似た別の杖と取り違えられ続けています。 ヘルメスの杖ケリュケイオンです。
アスクレピオスの杖 … 蛇は一匹。翼はない。 ヘルメスの杖 … 蛇は二匹。上に翼が付く。
ヘルメスは商業と伝令の神であり、医術とは関係がありません。それでも救急車や病院の看板に二匹の蛇が使われている例は多く、とくに英語圏で混同が広まりました。
理由の一つは、印刷業者が図案を取り違えたためとも、軍の医療部隊が採用したためとも言われます。
どちらの杖が正しいかを見分けるには、蛇の数を数えれば足ります。
アスクレピオスの家系図と家族
アスクレピオスの性格と人物像
アスクレピオスは、神々のなかで最も人間に近い立場に立った神です。
人間の母から生まれ、教師について技術を学び、その技術で人を助け、そして技術が優れすぎたために殺されました。生まれつき力を持っていた神ではありません。
この神の物語は、能力の物語ではなく、境界の物語です。
ギリシャ神話には、人間の側に立って罰せられた者が何人かいます。火を与えたプロメテウス、そして死者を返したアスクレピオス。どちらも、人間の条件を変えようとして罰されました。
違うのは結末です。プロメテウスは鎖につながれ続けましたが、アスクレピオスは討たれたあとに神として復活し、祀られました。 星座へびつかい座になったとも伝えられます。
性格を伝える逸話はほとんどありません。怒った、恋をした、争ったという話がないのです。技術と、その行使の結果だけが語られています。
実在の医師集団が自らを「この神の子ら」と名乗り、その系譜のなかからヒポクラテスが出ました。神話の神が、そのまま職業の祖先として扱われた数少ない例です。
アスクレピオスを祀った神殿と遺跡
アスクレピオスの聖域は、古代ギリシャで最も数が多く、最も多くの人が実際に足を運んだ施設の一つでした。数百か所にのぼったと考えられています。
ここでは、所在を確かめられた三か所だけを挙げました。エピダウロス(信仰の中心地)、コス島(ヒポクラテスの島)、アテネ(アクロポリス南斜面)です。
このほか、ペルガモン(現在のトルコ)、トリッカ(この神の出身地とする伝えがある)、コリントスなどにも大きな聖域がありましたが、確かめられた住所の形で書ける資料が手元にないため、欄には入れていません。
聖域はいずれも、町から少し離れた、水の湧く場所に作られました。清浄な水と静けさが治療の条件と考えられていたためです。
エピダウロスのアスクレピオス聖域(Sanctuary of Asklepios at Epidaurus)
アスクレピオス信仰の中心地
エピダウロスのアスクレピオス聖域の住所: ギリシャ ペロポネソス半島 アルゴリス(エピダウロス遺跡)
エピダウロスのアスクレピオス聖域の祀られた神: アスクレピオス(ヒュギエイアなどの一族も祀られた)
エピダウロスのアスクレピオス聖域に残るもの: 神殿・寝所(アバトン)・円形建物・劇場・競技場
エピダウロスのアスクレピオス聖域のご利益: 病気平癒
アスクレピオス信仰の総本山にあたる聖域です。この神の生誕地とされ、ここから各地へ信仰が広がりました。ローマへ神を迎えたときの使節も、ここへ来ています。
聖域には神殿だけでなく、参籠のための寝所(アバトン)、宿泊施設、浴場、競技場が備わっていました。治った人が奉納した石板が出土しており、症状と経過が刻まれています。
併設の古代劇場は、音の通りの良さで名高く、現在も上演に使われています。
世界遺産(エピダウロスのアスクレピオスの聖地)に登録されています。
所在はユネスコ世界遺産の登録情報(whc.unesco.org/en/list/491)で確認した。
コス島のアスクレピエイオン(Asklepieion of Kos)
ヒポクラテスの島にある大規模な聖域
コス島のアスクレピエイオンの住所: ギリシャ 南エーゲ地方 コス島
コス島のアスクレピエイオンの祀られた神: アスクレピオス
コス島のアスクレピエイオンに残るもの: 三段のテラス、神殿と柱廊の基礎
コス島のアスクレピエイオンのご利益: 医術
エーゲ海のコス島にある聖域で、斜面を三段のテラスに造成した構成で知られます。海を見下ろす位置にあります。
この島は、医学の祖とされるヒポクラテスの出身地です。島の医師たちは自らを「アスクレピオスの子ら」と呼び、家業として医術を受け継ぎました。
神への祈りと、経験にもとづく医学が、同じ島で並行していたことになります。神殿での治療と、症状の観察にもとづく治療は、当時対立するものとは考えられていませんでした。
現在は基礎と柱の一部が残り、テラスの構成をたどることができます。
所在は古代地名事典プレイアデス(Kos/places 599528)で確認した。
アテネのアスクレピエイオン(Asklepieion of Athens)
アクロポリス南斜面に設けられた聖域
アテネのアスクレピエイオンの住所: ギリシャ アテネ アクロポリス
アテネのアスクレピエイオンの祀られた神: アスクレピオス、ヒュギエイア
アテネのアスクレピエイオンに残るもの: 柱廊と泉の跡
アテネのアスクレピエイオンのご利益: 病気平癒
アクロポリスの南斜面、ディオニュソス劇場のすぐ西に設けられた聖域です。紀元前5世紀の終わり、疫病が流行したあとにエピダウロスから信仰が持ち込まれました。
聖域には泉が湧いており、水が治療に用いられたと考えられています。参籠のための柱廊もありました。
アクロポリスの遺跡を南から登る道の途中にあり、神殿の丘のすぐ下に病を治す場所があったことがわかります。
現在は柱廊の基礎と泉の跡が残ります。
所在はユネスコ世界遺産の登録情報(whc.unesco.org/en/list/404/アテネのアクロポリス)で確認した。
アスクレピオスが現代に残した痕跡
アスクレピオスの名と一族の名は、医療の意匠と用語として現代に残りました。
アスクレピオスの杖: 一匹の蛇が巻き付いた杖。世界保健機関の紋章をはじめ、各国の医療組織や救急車の標識に用いられている。二匹の蛇と翼を持つヘルメスの杖と取り違えられる例が多い。
衛生を意味する語: 娘ヒュギエイアの名から作られた。病を治すことではなく、病にならないようにすることを指す。
万能薬を意味する語: 娘パナケイアの名から作られた。あらゆる病に効く薬という発想を表す語として、いまも比喩に使われる。
へびつかい座: 蛇を抱えた人物の星座。この神の姿とされる。黄道にかかっているため、十三番目の星座として話題になることがある。
エピダウロスの奉納石板: 治癒した人が刻ませた症状と経過の記録。古代の病の訴えがそのまま読める資料として重んじられている。
アスクレピオスヘビ: ヨーロッパに分布する無毒の蛇に、この神の名が与えられている。聖域で放し飼いにされていた種と考えられている。
アスクレピオスが司るもの
医術
医術そのものを司る神。聖域では夢のお告げと実際の処置が並んで行われた。
病気平癒
聖域に残る奉納の石板には、治った人が刻ませた症状と経過が並んでいる。
眼病平癒
奉納板に、目が見えるようになったという記録が繰り返し現れる。
健康長寿
娘ヒュギエイアが健康と清潔を司る。病を治すことより、病にならないことを担当する。
延命
死者を蘇らせるまでに至り、そのために雷霆で討たれた神である。
アスクレピオスが登場するゲーム・アニメ
創作では、回復や治療を担当する役どころとして扱われます。 名前より先に、杖の意匠のほうが世界中に広まったという珍しい神です。
一方で、この神の物語の核である「上手すぎて殺された」という点は、あまり採られません。技術が進みすぎることへの警戒という主題は、現代の作品にも通じるはずですが、医術の神という肩書きだけが使われることが多くなっています。
アスクレピオスが登場するゲーム
アサシン クリード オデッセイ
古代ギリシャを舞台にした作品で、聖域が実際に歩ける場所として再現されています。
各種作品の回復役の名
医療施設や回復手段の名にこの神の名を当てる例が多く見られます。
アスクレピオスが登場するアニメ・漫画・映像
医療を扱う作品の題名
病院や医療組織の名として、この神の名や杖の意匠が使われる例が多くあります。
各種の神話解説書
「医術の神」として必ず取り上げられ、蛇の杖の説明が添えられます。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
アスクレピオスについてよくある質問
アスクレピオスは何の神様ですか。
医術の神です。アポロンと人間の女コロニスの子で、ケンタウロスのケイロンに薬草と外科を教わりました。死者を生き返らせるまでに腕を上げ、そのためにゼウスの雷霆で討たれています。
アスクレピオスのローマ名は何ですか。
アイスクラピウス(Aesculapius)です。エスクラピウスとも読みます。ローマにはもともと医術の神がおらず、紀元前3世紀に疫病が流行したとき、エピダウロスから神を迎えたと伝えられます。テヴェレ川の中州に神殿が建てられました。
アスクレピオスはなぜ殺されたのですか。
死者を生き返らせたためです。冥界の王ハデスが「死者が減っている」とゼウスに訴え、ゼウスが雷霆で討ちました。医術が完成すると冥界が空になるという、世界の仕組みそのものへの脅威と受け取られたためです。
アスクレピオスの杖と医療のマークは関係がありますか。
あります。世界保健機関の紋章をはじめ、各国の医療組織の意匠はこの神の杖です。蛇は一匹で、翼はありません。二匹の蛇と翼が付いた杖はヘルメスのもので、医術とは関係がありませんが、取り違えて使われている例が多くあります。
アスクレピオスの聖域ではどんな治療をしたのですか。
参籠と呼ばれる方法です。身を清めて供物を捧げ、定められた寝所で一夜を過ごし、夢に現れた神の指示を翌朝の治療に用いました。聖域には無毒の蛇が放し飼いにされ、浴場や競技場も備わっていました。
アスクレピオスの神殿はどこで見られますか。
ペロポネソス半島のエピダウロスが中心地で、世界遺産に登録されています。エーゲ海のコス島、アテネのアクロポリス南斜面にも遺構が残ります。エピダウロスには音の通りの良さで知られる古代劇場も併設されています。
ヒュギエイアやパナケイアとはどういう関係ですか。
娘たちです。ヒュギエイアの名は「衛生」を意味する語になり、パナケイアの名は「万能薬」を意味する語になりました。息子のマカオンとポダレイリオスは『イリアス』にギリシャ側の軍医として登場します。
アスクレピオスと併せて覚えたい言葉・用語
トロイア戦争(トロイアせんそう)
ギリシャ軍とトロイアの十年に及ぶ戦争。パリスがスパルタ王妃ヘレネを連れ去ったことから始まった。ホメロス『イリアス』はその十年目を描く。