葡萄酒と陶酔の神。人間の母から生まれ、神々に加わった。

「万民の神話事典」 1874年 / パブリックドメイン 出典
ディオニュソスとは何の神様か
ディオニュソスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Διόνυσος。日本語では「ディオニュソス」で定着しています。
名の前半「ディオ」は「ゼウスの」を意味します。後半の語源は分かっていません。
かつては「後から入ってきた外来の神」とされていましたが、この見方は覆りました。
ミュケナイ文明の線文字Bの粘土板に、「ディオヌソ」と読める記載が見つかった。
紀元前13世紀のものです。つまりホメロスより数百年前から、ギリシャにいた神でした。
ローマ名バックスは、日本では「バッカス」の形で知られます。酒の別名としても使われます。
Διόνυσος(ディオニュソス)
古代ギリシャ語の表記。「ゼウスの(ディオス)」+不明の語。後半の語源は分かっていない。
Bacchus(バックス)
ローマ名。日本では「バッカス」の形で知られる。
Βρόμιος(ブロミオス)
「轟く者」の意。雷とともに生まれたことによる。
Λυαῖος(リュアイオス)
「解き放つ者」の意。酒が悩みを解くことによる。
ディオニュソスの物語
母が焼け死ぬ ─ 生まれる前の悲劇
テーバイの王女セメレは、ゼウスの子を身ごもりました。
ヘラは老女の乳母に化けて近づき、疑いを吹き込みます。
本当にゼウスなのかしら。 神ならば、真の姿を見せてくれるはずでしょう。
セメレはゼウスに「どんな願いでも叶える」と誓わせ、そのうえで求めました。
本当の姿を見せてください。
ゼウスは止めようとしましたが、誓いは破れません。
雷霆をまとった姿が現れた瞬間、セメレは焼け死んだ。
ゼウスは咄嗟に、六か月の胎児を取り出します。 そして自分の太腿を裂いて縫い込み、月満ちるまで育てました。
二度目の誕生です。
母の胎から一度、父の腿から一度。
のちに成長したディオニュソスは、冥界へ下って母セメレを連れ出し、神々の列に加えました。
狂気を送る ─ 認めない者への罰
この神は、自分を神と認めない者を許しません。 ただし殺すのではなく、狂わせます。
もっとも有名なのがテーバイ王ペンテウスの話です。エウリピデスの悲劇『バッコスの信女』が伝えます。
ペンテウスは、新しい信仰を禁じました。女たちが山で踊るのを、風紀の乱れと見たのです。
ディオニュソスは若者の姿で王の前に現れ、捕らえられます。牢は勝手に開き、宮殿は揺れました。
そして王に囁きます。
見たくはないか。 山で女たちが何をしているか。
王は女装して山へ登りました。信女たちに見られた瞬間、
彼女たちは彼を獅子だと思い込み、素手で引き裂いた。
先頭に立っていたのは、王の母アガウエでした。
我に返った母が抱えていたのは、息子の首でした。
ギリシャ悲劇でもっとも恐ろしい場面とされます。
海賊を海豚にする ─ 神と知らずに捕らえる
『ホメロス風讃歌』が伝える、別の罰の話です。
海辺に立つ美しい若者を、海賊が見つけました。王子だと思い、身代金目当てに船へ連れ込みます。
縄で縛ろうとすると、縄はひとりでに解けました。
舵取りだけが気づきます。
これは神だ。放してやれ。
船長は聞き入れませんでした。すると──
船に葡萄酒が流れ出し、帆に葡萄の蔓が巻きつき、蔦が櫂を覆った。
そして若者は獅子に変わりました。
海賊たちは海へ飛び込み、
その姿は海豚(イルカ)に変わった。
舵取りだけが助けられ、幸運を約束されます。
イルカが人に親しむのは、もとが人間だからという説明が、この話から生まれました。
演劇を生む ─ 祭が劇場になる
ギリシャ悲劇は、この神の祭から生まれました。
毎年春、アテネで大ディオニュシア祭が開かれます。神像を運び、行列を組み、そして──
三日間にわたって、悲劇が上演された。
作者は三人選ばれ、それぞれ悲劇三本と滑稽な劇一本を出します。優勝者が決められました。
重要なのは、これが宗教行事だったことです。劇場は神域にあり、上演は奉納でした。
アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス。
現存するギリシャ悲劇はすべて、この祭のために書かれたものです。
悲劇(トラゴイディア)の語源も、「山羊の歌」とされます。山羊はこの神の獣でした。
アテネのディオニュソス劇場は、アクロポリスの南斜面に今も残っています。
西洋演劇は、ここから始まりました。
オリュンポスに加わる ─ 人間の母を持つ神
ディオニュソスは、オリュンポス十二神?に数えられます。
ただし、条件が特異です。
十二神のなかで、この神だけが人間の母を持つ。
しかも、席を譲られています。 竈の女神ヘスティアが自分の座を明け渡したという伝えがあります。
この神が加わる意味は大きいものです。
オリュンポスの他の神は、秩序の側にいます。ゼウスは掟を、アテナは戦略を、アポロンは節度を司ります。
ディオニュソスだけが、秩序を解く神です。
酒は理性を緩め、踊りは自分を忘れさせ、演劇は他人になることを許す。
19世紀の哲学者ニーチェは、ギリシャ文化をこの二つの原理で説明しました。
アポロン的(形と秩序)とディオニュソス的(陶酔と生成)。
両方がなければ成り立たない、というのがその主張です。
ディオニュソスの家系図と家族
ディオニュソスの性格と人物像
ディオニュソスは、境界を溶かす神です。
酒は理性と本能の境を、演劇は自分と他人の境を、陶酔の祭儀は人間と神の境を溶かします。
注目すべきは、この神が二重であることです。
恵みをもたらすと同時に、破滅をもたらす。
葡萄酒は喜びを与え、飲みすぎれば人を壊します。信女たちは山で歌い踊りますが、素手で獣を引き裂きもします。
ペンテウスへの罰は、この二重性そのものです。王が禁じたものが、王を殺しました。 しかも殺したのは母親です。
もうひとつ重要なのが、この神が受け入れられない場所へ行くことです。テーバイでも、海賊の船でも、認められないところへ現れます。
外から来て、内側を変える。
人間の母を持ち、二度生まれ、席を譲られてオリュンポスに加わった。最初から異物だった神です。
ディオニュソスを祀った神殿と遺跡
ディオニュソスの聖域は、劇場と葡萄の島にあります。
他の神が神殿を中心とするのに対し、この神の中心は人が集まって何かをする場所でした。踊り、飲み、劇を見る。
拝む場所ではなく、体験する場所。
デメテルのエレウシスと同じ構造です。秘儀を持つ神は、建物の形が違います。
ディオニュソス劇場(Theatre of Dionysus)
西洋演劇が生まれた場所
ギリシャ悲劇が初演された劇場です。アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストファネスの作品が、すべてここで上演されました。
最盛期には約17,000人を収容したとされます。
最前列には大理石の椅子が並び、神官や高官の席でした。中央の一脚には「ディオニュソスの神官の席」と刻まれています。
劇場のすぐ下に神殿の跡があり、上演が奉納であったことが配置から分かります。
アクロポリスの入場券で見学できる。南斜面の入口から入るとすぐ。
ナクソス島(Naxos)
この神の島とされ、アリアドネと結ばれた地
ディオニュソスの島とされました。葡萄の産地であり、島には現在もワイナリーがあります。
テセウスに置き去りにされたアリアドネが、この島でディオニュソスに見出され、妻となりました。その冠が天に上げられ、かんむり座になったとされます。
港に立つ巨大な大理石の門「ポルタラ」は、紀元前6世紀に着工しながら完成しなかった神殿の入口です。
夕日の名所として知られています。
アテネのピレウス港からフェリーで約4〜5時間。
デロス島のディオニュソス神域(Sanctuary of Dionysus, Delos)
男根柱が並ぶ神域
デロス島のディオニュソス神域の住所: ギリシャ キクラデス諸島 デロス島
デロス島のディオニュソス神域の祀られた神: ディオニュソス
デロス島のディオニュソス神域に残るもの: 大理石の男根柱(ファロス)
デロス島には、この神に捧げられた大理石の男根柱が並ぶ一角があります。豊穣の神としての性格を、そのまま形にしたものです。
紀元前300年頃の奉納で、台座にはディオニュソスの祭で優勝したことを記念する碑文が刻まれています。
勝利の記念に、この形の記念碑を建てたわけです。当時の感覚が現代とは大きく違うことを示す遺構です。
ミコノス島から船で約30分。日中のみ滞在可能。
ディオニュソスが現代に残した痕跡
ディオニュソスの名は、演劇・酒・哲学の用語に残りました。
悲劇 tragedy: 語源は「山羊の歌(トラゴイディア)」。山羊はこの神の獣であり、祭で歌われた歌から演劇が生まれた。
バッカス/バッカナール: ローマ名から。酒宴や乱痴気騒ぎを指す語として各国語に残る。
ディオニュソス的: ニーチェ『悲劇の誕生』の用語。形と秩序の「アポロン的」に対し、陶酔と生成の原理を指す。現在も芸術批評で使われる。
かんむり座: アリアドネの冠を天に上げたもの。ディオニュソスがナクソス島で彼女を妻としたことによる。
ディオニュソスが司るもの
葡萄酒・豊穣
葡萄の栽培と酒造りを人間に伝えた神とされる。
演劇・芸術
ギリシャ悲劇はこの神の祭から生まれた。劇場は神域に置かれた。
解放
「解き放つ者(リュアイオス)」と呼ばれる。酒が悩みを解くことによる。
再生
冬に枯れ春に芽吹く葡萄と重ねられ、死と再生の神とされた。
ディオニュソスが登場するゲーム・アニメ
「陽気な酒の神」として描かれることがほとんどです。原典のディオニュソスは、認めない者を狂わせ、母親に息子を引き裂かせる神でもあります。
この二面性を正面から描いたのは、エウリピデスの悲劇が現在でも最良の例です。
ディオニュソスが登場するゲーム
ディオニュソスが登場するアニメ・漫画・映像
西洋絵画
カラヴァッジョ「バッカス」、ティツィアーノ「バッカスとアリアドネ」など、繰り返し描かれました。
チョコレート菓子「バッカス」
洋酒入りチョコレートの商品名として、日本でこの名が広く知られています。
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ディオニュソスについてよくある質問
ディオニュソスは何の神様ですか。
葡萄酒・陶酔・演劇を司る神です。オリュンポス十二神のなかで、唯一人間の母から生まれました。
ディオニュソスのローマ名は何ですか。
バックス(Bacchus)です。日本では「バッカス」の形で知られます。
なぜ二度生まれたと言われるのですか。
母セメレが雷光に焼かれて死んだとき、ゼウスが六か月の胎児を取り出して自分の太腿に縫い込み、月満ちて産んだためです。母の胎から一度、父の腿から一度生まれています。
ギリシャ悲劇はディオニュソスと関係がありますか。
あります。アテネの大ディオニュシア祭で上演されたのが始まりで、劇場は神域に置かれ、上演は奉納でした。現存するギリシャ悲劇はすべてこの祭のために書かれたものです。
ディオニュソスは外国から来た神ですか。
かつてはそう考えられていましたが、覆りました。紀元前13世紀のミュケナイの線文字B粘土板に「ディオヌソ」と読める記載が見つかっており、古くからギリシャにいた神です。
「ディオニュソス的」とはどういう意味ですか。
ニーチェ『悲劇の誕生』の用語で、陶酔と生成の原理を指します。形と秩序を表す「アポロン的」と対になり、両方がなければ芸術は成り立たないとされました。
ディオニュソスと併せて覚えたい言葉・用語
オリュンポス十二神(オリュンポスじゅうにしん)
オリュンポス山に住む主要な神々。ゼウス、ヘラ、ポセイドン、デメテル、アテナ、アポロン、アルテミス、アレス、アフロディーテ、ヘファイストス、ヘルメスの十一柱は確実で、残り一枠をヘスティアとディオニュソスが争う。