争いの女神。黄金の林檎ひとつでトロイア戦争を起こした。

「エリス(ベルリン古代美術博物館)」 / パブリックドメイン 出典
エリスとは何の神様か
エリスはひとことで言えば林檎ひとつで戦争を起こした神です。争い・不和を司ります。ローマ名はディスコルディア。
夜の女神ニュクスの娘。姉妹には死・眠り・運命・報いが並びます。
この女神の名を決定的にしたのが、招かれなかった婚礼です。
ペレウスとテティスの結婚式に、エリスだけが招かれませんでした。腹を立てた女神は、宴席へ黄金の林檎をひとつ投げ入れます。 刻まれていた言葉は──
最も美しい女神へ。
ヘラ、アテナ、アフロディーテが争い、パリスの審判?が行われ、そこからトロイア戦争?が始まりました。
十年の戦争と、一つの王国の滅亡が、この一投から生まれています。
ただしヘシオドスは、もう一柱の別のエリスについても書きます。良い争いの女神です。
エリスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἔρις。日本語では「エリス」で定着しています。
争いを意味する普通名詞でもあります。
ローマ名ディスコルディアは、英語 discord(不和) の語源です。concord(調和)の反対語にあたります。
注目すべきは、準惑星エリスの命名です。2005年に発見され、
この天体の発見が、冥王星の「惑星」からの降格を招いた。
天文学界に実際の論争を起こしたため、争いの女神の名が付けられました。命名そのものが皮肉になっています。
Ἔρις(エリス)
古代ギリシャ語の表記。「争い」「不和」を意味する普通名詞でもある。
Discordia(ディスコルディア)
ローマ名。英語 discord(不和)の語源。
μῆλον τῆς Ἔριδος(不和の林檎)
「エリスの林檎」の意。争いの種を指す言い回しとして各国語に残る。
エリスの物語
二柱のエリス ─ 悪い争いと良い争い
ヘシオドスは『仕事と日々』の冒頭で、重要な訂正をしています。
エリスは一柱ではない。地上には二柱いる。
一柱目は、戦争と争いを育てる女神です。誰も好んで敬わないが、必然によって敬わざるを得ない。
二柱目は違います。
こちらははるかに優れている。 怠け者をも仕事へ駆り立てる。
隣人が豊かに耕しているのを見て、人は働く気になる。
陶工は陶工を、大工は大工を、乞食は乞食を、詩人は詩人を妬む。
この争いは、人間にとって良いものである。
競争心としてのエリスです。
ヘシオドス自身、遺産をめぐって兄弟と争っていました。この詩は、その兄への説教として書かれています。
働け。争うなら、良いほうの争いをしろ。
争いの女神に二つの顔を与えたのは、この詩人の発明でした。
招かれない ─ 婚礼の欠席者
黄金の林檎を投げる ─ 一投の結果
エリスは宴席に現れず、贈り物だけを投げ入れました。
黄金の林檎がひとつ。
刻まれていた言葉は、
カリスティ(最も美しい者へ)。
名前は書かれていません。 それだけで十分でした。
ヘラ、アテナ、アフロディーテが名乗りを上げます。三柱とも譲りません。
ゼウスは判定を避けました。誰を選んでも二柱を敵に回します。 そこでトロイアの王子パリスに委ねました。
三女神は買収に出ます。アジア全土の支配権、あらゆる戦での勝利、最も美しい女性。
パリスはアフロディーテを選び、約束された女性ヘレネを連れ去りました。スパルタ王の妃です。
ギリシャ全土の王が誓約?に従って集まり、千隻の船が出た。
十年の戦争。トロイアの滅落。ヘクトルの死。アキレウスの死。
すべて、林檎ひとつからです。
戦場に立つ ─ 大きくなり続ける
エリスは、戦争が始まってからも登場します。
『イリアス』第4歌の描写が印象的です。
エリスは、はじめは小さい。 しかし、
やがて頭を天につけ、足は地を歩む。
争いは、始まりは小さく、放っておくと際限なく大きくなる。
そして、この女神は戦場を歩きながら呻き声を増やしていきます。
他の神々が戦場を去っても、エリスだけは残った。
アレスの妹、あるいは従者とされることもあります。ただし性格は違います。
アレスは戦いに加わる。エリスは、戦いを起こして見ている。
『イリアス』でアレスは繰り返し負けますが、エリスは負けません。 戦う相手がいないからです。
争いそのものは、誰にも倒せない。
エリスの家系図と家族
エリスの親: ニュクス父なしで生む
エリスの性格と人物像
エリスは、排除できない神です。
婚礼に招かなかったことが、最大の争いを生みました。避けようとする行為そのものが、この女神を呼びます。
注目すべきは、直接手を下していないことです。
林檎を投げただけ。
誰が最も美しいかは、書いていない。
争ったのは三女神であり、選んだのはパリスであり、戦ったのは人間です。
エリスは、きっかけを置いただけです。
この手口は、争いの本質をよく表しています。種が撒かれても、争うかどうかは撒かれた側が決めます。 それでも、人は必ず争います。
もうひとつ重要なのが、ヘシオドスの二柱のエリスです。
競争心としての争いは、良いものである。
人を働かせ、腕を上げさせるのも、この女神です。
同じ力が、戦争にも成長にもなる。 古代ギリシャ人は、それを二柱に分けて説明しました。
エリスを祀った神殿と遺跡
エリスを祀った神殿はありません。 争いの女神に願いを捧げる者はいません。
しかし、この女神の存在は前提として扱われました。戦の前にアレスやアテナへ祈るとき、争いそのものは避けられないものとして了解されていたのです。
ヘシオドスが「良いほうのエリス」を立てたのは、避けられないものを、使えるものへ読み替える試みだったとも読めます。
ペレウスとテティスの婚礼の地(Mount Pelion)
黄金の林檎が投げ入れられた場所
ペレウスとテティスの婚礼の地の住所: ギリシャ テッサリア地方 ペリオン山
ペレウスとテティスの婚礼の地に残るもの: 山と伝承
ペレウスとテティスの婚礼が開かれたとされる山です。ケンタウロスのケイロンが住み、アキレウスを育てた場所でもあります。
ここで黄金の林檎が投げ入れられ、トロイア戦争の発端となりました。
特定の遺跡はなく、山そのものが伝承の舞台です。
現在はギリシャでも有数の自然が残る地域で、石畳の村々とハイキングの道が知られています。
ヴォロス市から車で行ける。冬はスキー場になる。
エリスが現代に残した痕跡
エリスの名は、天体・言葉・言い回しに残りました。
準惑星エリス: 2005年に発見。この天体の存在が冥王星の「惑星」からの降格を招き、天文学界に論争を起こしたため、争いの女神の名が付けられた。
discord(不和): ローマ名ディスコルディアに由来する。concord(調和)の反対語。
「不和の林檎」: 争いの種を指す言い回し。英語 apple of discord、日本語でも同じ形で使われる。
衛星ディスノミア: 準惑星エリスの衛星。エリスの娘である無法の女神ディスノミアーの名による。
エリスが司るもの
競争心
ヘシオドスが説く「良いほうのエリス」。怠け者を仕事へ駆り立てる。
争い・不和
戦争と争いを育てる。始まりは小さく、放置すると天に届くほど大きくなる。
エリスが登場するゲーム・アニメ
「きっかけを作った神」として名前だけが出ることがほとんどです。物語の本編には登場しません。
それでも、この女神がいなければトロイア戦争は起きませんでした。 登場時間と影響の大きさの差が、ギリシャ神話で最も極端な神です。
エリスが登場するゲーム
エリスが登場するアニメ・漫画・映像
西洋絵画「パリスの審判」
ルーベンス、クラーナハなど多くの画家が描いた主題です。ただし描かれるのは三女神とパリスで、エリス自身は端に小さく描かれるか、省かれます。
トロイア戦争を扱った作品全般
発端としてほぼ必ず言及されます。
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エリスについてよくある質問
エリスは何の神様ですか。
争いと不和を司る女神です。夜の女神ニュクスの娘で、姉妹には死・眠り・運命・報いが並びます。
エリスのローマ名は何ですか。
ディスコルディア(Discordia)です。英語 discord(不和)の語源になっています。
黄金の林檎とは何ですか。
エリスがペレウスとテティスの婚礼に投げ入れた林檎です。「最も美しい女神へ」と刻まれており、名前は書かれていませんでした。これがパリスの審判を経てトロイア戦争の発端になります。
なぜエリスは婚礼に招かれなかったのですか。
争いの女神を祝いの席に呼ぶ者はいなかったためです。しかし招かなかったこと自体が争いの種になりました。
「良いエリス」とは何ですか。
ヘシオドス『仕事と日々』が説くもう一柱のエリスです。競争心として人を働かせ、腕を上げさせます。「陶工は陶工を、詩人は詩人を妬む」という形で、社会を動かす力とされました。
準惑星エリスの名前の由来は何ですか。
この女神です。2005年の発見が冥王星の惑星からの降格を招き、天文学界に実際の論争を起こしたため、争いの女神の名が付けられました。
エリスと併せて覚えたい言葉・用語
パリスの審判(パリスのしんぱん)
エリスが投げ入れた黄金の林檎を巡り、ヘラ・アテナ・アフロディーテのうち誰が最も美しいかをトロイアの王子パリスが判定した出来事。トロイア戦争の発端。
トロイア戦争(トロイアせんそう)
ギリシャ軍とトロイアの十年に及ぶ戦争。パリスがスパルタ王妃ヘレネを連れ去ったことから始まった。ホメロス『イリアス』はその十年目を描く。
誓約(うけい)
神意を問うための占い。あらかじめ結果の意味を決めておき、どちらが起きるかで是非を判断する。