夜そのものである原初の女神。ゼウスさえ怒らせるのを恐れた。
ニュクスとは何の神様か
ニュクスはひとことで言えばゼウスが手を出さなかった神です。ローマ名はノクス。
カオスから生まれ、闇エレボスの姉であり妻でもあります。オリュンポスより二世代以上前の、世界の最初期に属する神です。
この女神が生んだ子の顔ぶれが、その位置を示します。
死タナトス、眠りヒュプノス、運命の女神モイライ?、 報いネメシス、争いエリス、老い、非難、欺き、夢。
ヘシオドスは、これらを父なしで生んだと書きます。人が恐れるものを、夜がひとりで生み出しました。
『イリアス』第14歌に、この女神の格が出る場面があります。ヘラに頼まれてゼウスを眠らせたヒュプノスが、目覚めたゼウスに殺されかけ、母ニュクスのもとへ逃げ込みました。
ゼウスは追うのをやめた。夜を怒らせるのを恐れたからである。
最高神が手を引いた相手は、神話全体でもごくわずかしかいません。
ニュクスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Νύξ。「夜」という普通の単語がそのまま神の名になっています。
原初の神々には、この形の名が並びます。 カオス(空隙)、ガイア(大地)、エレボス(闇)、アイテール(上空の澄んだ空気)、ヘメラ(昼)。現象そのものが神の名前です。
ローマ名ノクスも同じく「夜」です。英語の nocturnal(夜行性の)、フランス語の nuit(夜)は、いずれもこの語系にさかのぼります。
夜を意味する語は、ヨーロッパの多くの言語で近い形をしています。ギリシャ語のニュクス、ラテン語のノクス、ドイツ語のナハト、英語のナイト。同じ一つの古い語から分かれたものです。
Νύξ(ニュクス)
古代ギリシャ語の表記。「夜」を意味する普通名詞そのもの。
Nox(ノクス)
ローマ名。ラテン語で「夜」を意味する。英語の nocturnal(夜行性の)はここから来ている。
ニュクス(ニュクス)
日本語表記。「ニュクス」でほぼ固定している。
ニュクスの物語
最初の四つ ─ カオスから何が生まれたか
ヘシオドス『神統記』の書き出しは、四つの存在を並べます。
まずカオスが生じた。 次に、広い胸のガイア(大地)。 そしてタルタロス、エロス。
そのカオスから、
エレボス(闇)とニュクス(夜)が生まれた。
続いてニュクスはエレボスと結ばれ、
アイテール(上空の澄んだ空気)とヘメラ(昼)を生んだ。
暗いものが先にあり、そこから明るいものが生まれます。 ギリシャの創世は、この順序で進みます。
注意したいのは、ニュクスは大地ガイアと同じ世代ではないことです。ガイアはカオスと並んで生じ、ニュクスはカオスから生まれました。厳密には一世代下になります。
それでも、この女神が「もっとも古い神の一柱」として扱われるのは、その後に生んだ子らの重さ によります。
父のない子ら ─ 恐ろしいものの一覧
『神統記』第211行から225行にかけて、ニュクスがひとりで生んだ子が列挙されます。
モロス(定められた滅び)、ケール(死の運命)、タナトス(死)、 ヒュプノス(眠り)、そして夢の一族。
続けて、
モモス(非難)、オイジュス(苦しみ)、ヘスペリデス(西方の乙女たち)、 モイライ(運命の三姉妹)、ケーレス(死をもたらす者たち)、 ネメシス(報い)、アパテー(欺き)、ピロテス(情愛)、 ゲラス(老い)、エリス(争い)。
さらに、争いエリスからは労苦・飢え・戦い・殺人・偽りの言葉が生まれます。
人が避けられないもの、避けたいものが、ひと続きの家系になっています。
ヘシオドスは、これらに父がいないと明記します。夜だけで生まれました。
この構成は、世界の不幸に起源を与えるためのものです。老いも死も争いも、外から来たのではなく、夜という古い秩序の一部として最初からあった、という説明になっています。
ゼウスが引き下がる ─ 神話最大級の一場面
『イリアス』第14歌。ヘラは、トロイア戦争?の戦況を変えるためにゼウスを眠らせたいと考えます。頼んだ相手が眠りの神ヒュプノスでした。
ヒュプノスは断ります。理由を、過去の経験として語りました。
以前、あなたに頼まれてゼウスを眠らせたことがある。 目覚めたあの方は怒り狂い、私を海へ投げ落とそうとした。
そのとき、どう助かったのか。
夜のもとへ逃げ込んだ。 ゼウスは追うのをやめた。夜を怒らせるのを恐れたからである。
原文はこう続けます。
神々と人間を圧する者(ニュクス)に、快からぬことをするのを避けたのだ。
最高神が、追撃を断念しています。 テュポーンにも一度は敗れたゼウスですが、あれは戦って負けたものでした。ここは、戦わずに引いています。
オリュンポスの秩序より前からある力に対しては、雷霆が通じない。この一場面だけで、ニュクスの位置が決まります。
なぜ物語が少ないのか ─ 祀られなかった神
これほど重い神でありながら、ニュクスの物語はほとんどありません。
登場するのは系譜の記述と、『イリアス』のあの一場面と、あとは断片的な言及だけです。
理由ははっきりしています。現象そのものである神には、事件が起きにくいからです。
夜は毎日来て、毎日去る。 争わず、恋をせず、旅もしない。
カオス、エレボス、アイテール、ヘメラも同じで、いずれも系譜には出ますが、物語を持ちません。原初の神々に共通する性質です。
祀られた記録も乏しく、パウサニアスがメガラに夜の神託所があったと記す程度です。神殿らしい神殿は確認できていません。
かわりに、この女神は別の伝統で中心になりました。 オルフェウス教の宇宙論では、世界の始まりにニュクスが置かれ、そこからすべてが展開します。
ヘシオドスの筋とは別に、夜を最初に置く考え方が古代から存在したことになります。
ニュクスの家系図と家族
ニュクスの性格と人物像
ニュクスは、何もしない神です。
企まず、争わず、罰しません。ヘシオドスが書いたのは「生んだ」という動詞だけです。『イリアス』でも、逃げ込んできた子をかばったとは書かれていません。 ただそこにいて、ゼウスが引き返しただけです。
働きかけないのに、最高神が避ける。 これがこの女神の性格です。
力を振るう神ではなく、動かせない条件としての神と言うほうが近いでしょう。夜は交渉できません。頼んでも延びず、怒っても縮みません。
生んだ子らも同じ性質を持っています。死、眠り、老い、運命。いずれも、人が交渉できないものばかりです。
ギリシャ神話の神々は人間くさく、嫉妬し、機嫌を損ね、贈り物で動かせます。ニュクスだけは、そのどれにも当てはまりません。
祈っても答えない神であり、だから神殿も作られませんでした。それでも、ゼウスは道を譲りました。
ニュクスゆかりの地と遺跡
ニュクスを主神として祀った神殿は、確認できていません。
記録として残るのは、旅行家パウサニアスがメガラに夜の神託所があったと記した一行と、いくつかの祭壇への言及だけです。神殿の遺構は特定されていません。
理由は明快です。現象そのものである原初の神は、ほとんど祀られませんでした。 カオスにもエレボスにもアイテールにも神殿はありません。
ただし、この女神は別の場所に残っています。オルフェウス教の宇宙論では、世界の始まりにニュクスが置かれ、そこからすべてが展開すると説かれました。神殿ではなく、教えのなかで中心を占めた神です。
ゆかりの地として挙げられるものが無いことを、そのまま書いておきます。
ニュクスが現代に残した痕跡
ニュクスの名は、言葉・天文・美術として現代に残りました。
夜を意味するヨーロッパ各国語: ギリシャ語ニュクス、ラテン語ノクス、ドイツ語ナハト、英語ナイト。いずれも同じ古い語から分かれた。
nocturnal(夜行性の): ローマ名ノクスから作られた語。生物学の基本用語として使われている。
月の裏側の地形名: 天体の暗い領域に、夜にちなむ名が与えられている例がある。
ルーベンス「夜の女神」: 星をまとって夜空を渡る姿。夜の擬人像はルネサンス以降の西洋絵画で定型になった。
ニュクスが司るもの
眠り
眠りの神ヒュプノスの母。夜そのものであり、休息をもたらす存在とされた。
闇
夜そのものを司る。恐れの対象であり、同時に休息の条件でもあった。
予言
メガラに夜の神託所があったとパウサニアスは記す。夢を通じて告げるという考え方が背景にある。
ニュクスが登場するゲーム・アニメ
創作でこの女神を扱うときは、ほぼ「原初の強大な存在」として描かれます。 ゼウスが引き下がった一場面が、その根拠として使われます。
一方で、原典のニュクスは何も行動していません。 戦う場面も、企む場面もありません。そのため、活躍させようとすると原典から離れざるを得ないという難しさがあります。
近年の作品では、恐ろしいものを生んだ母という側面から、家族の物語として組み直す例が出てきました。
ニュクスが登場するゲーム
ニュクスが登場するアニメ・漫画・映像
各種の神話解説書
ギリシャ神話の系譜を説明する図では、必ず最初の数世代に置かれます。
創作における「夜の女神」の型
星をまとい、闇を従える女神像の原型として、多くの作品の下敷きになっています。
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ニュクスについてよくある質問
ニュクスは何の神様ですか。
夜そのものである原初の女神です。カオスから生まれ、死・眠り・運命・報い・争い・老いなどを父なしで生みました。ローマ名はノクスです。
ニュクスとゼウスの関係はどうなっていますか。
血のつながりはなく、世代が大きく離れています。『イリアス』第14歌では、眠りの神ヒュプノスが母ニュクスのもとへ逃げ込んだため、ゼウスが追撃をやめた場面が語られます。夜を怒らせるのを恐れたためとされ、最高神が引き下がった数少ない例です。
ニュクスの子供は誰ですか。
タナトス(死)、ヒュプノス(眠り)、モイライ(運命の三姉妹)、ネメシス(報い)、エリス(争い)、ゲラス(老い)、アパテー(欺き)などです。ヘシオドスは、これらを父なしで生んだと明記しています。
ニュクスの神殿はありますか。
主神として祀った神殿は確認できていません。旅行家パウサニアスがメガラに夜の神託所があったと記していますが、遺構は特定されていません。現象そのものである原初の神は、ほとんど祀られませんでした。
ニュクスはガイアと同じ世代ですか。
厳密には違います。ガイアはカオスと並んで生じ、ニュクスはカオスから生まれました。一世代下にあたります。ただし、生んだ子らの重さから、もっとも古い神の一柱として扱われます。
ニュクスと併せて覚えたい言葉・用語
モイライ(Μοῖραι)
運命の三女神。クロトが命の糸を紡ぎ、ラケシスが長さを測り、アトロポスが断つ。ゼウスですら逆らえない。
トロイア戦争(トロイアせんそう)
ギリシャ軍とトロイアの十年に及ぶ戦争。パリスがスパルタ王妃ヘレネを連れ去ったことから始まった。ホメロス『イリアス』はその十年目を描く。