世界の西の果てで、黄金の林檎の木を守り歌う乙女たち。
ヘスペリデスとは何の神様か
ヘスペリデスはひとことで言えば夕暮れの娘たちです。名は宵を意味する語から作られています。
住むのは日の沈む方角、世界の西の果て。そこに黄金の林檎の木があり、乙女たちはその木の番をしながら歌って暮らしています。
声のよい娘たちが、大洋の向こうで木の実を守る。
ヘシオドスは、夜の女神ニュクスがひとりで生んだ娘とします。後代の書物はアトラスの娘とし、人数も三人・四人・七人と割れています。
木は、大地ガイアがヘラの婚礼に贈ったもの。根もとには、眠らない竜ラドンが巻きついています。
ヘラクレスが十一番目の功業でこの実を取りに来ました。自分では取らず、アトラスに取ってこさせ、その間じゅう天を代わりに担いだという筋が有名です。
パリスの審判?に転がった「不和の林檎」は、これとは別の林檎です。
ヘスペリデスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἑσπερίδες。日本語では「ヘスペリデス」と書き、単数形は「ヘスペリス」です。
名の元にあるのはヘスペロス、宵の明星を指す語です。日が沈んだあと西の空に見える金星のことで、その方角に住むからこの名になりました。
東は夜明け、西は宵。 世界の果ては、時刻の名で呼ばれた。
ギリシャ人にとって西は、日が沈む方角であると同時に、生者の世界の終わる方角でもありました。 冥界も西にあるとされます。
この語から、ヘスペリアという地名が生まれます。ギリシャから見て西にあるイタリアを、ローマから見て西にあるスペインを、詩人たちはこの名で呼びました。
もう一つ、植物学に残った語があります。ミカン状果、つまり柑橘類の実の型を指す学術語が、この女神たちの名から作られています。黄金の林檎は柑橘類だったのではないかという古い推測が、そのまま用語になりました。
Ἑσπερίδες(ヘスペリデス)
古代ギリシャ語の複数形。「宵」「夕方」を意味する語から作られ、夕暮れの娘たちを指す。
ヘスペリス(ヘスペリス)
単数形。一人を指すときの形で、日本語ではあまり使われない。
アトランティデス(アトランティデス)
「アトラスの娘たち」の意。父をアトラスとする系統ではこの呼び名が使われる。
ヘスペリデスの園(ヘスペリデスのその)
黄金の林檎の木が生える場所を指す言い方。土地の名としては特定されていない。
ヘスペリデスの物語
誰の娘か ─ 系譜が定まらない乙女たち
ヘスペリデスの親は、書物によってまったく違います。
ヘシオドス『神統記』は、夜の女神ニュクスがひとりで生んだ娘たちに数えます。並んでいる名前が、その性格を語っています。
死、眠り、夢、非難、悲嘆、そして西の乙女たち。
明るい存在ではありません。夜が生んだものの一覧に入っています。
一方、後代の書物はアトラスの娘とします。アトラスは天を担ぐティタンで、その立つ場所も世界の西の果てです。同じ場所にいるから、親子にされたという順序も考えられます。
さらに、宵の明星ヘスペロスの娘とする伝えもあります。
人数と名前も揃いません。三人とするもの、四人とするもの、七人とするもの。名はアイグレ(輝き)、エリュテイア(赤)、ヘスペレ(宵)などが挙がりますが、書物ごとに入れ替わります。
これほど系譜が定まらない集団は珍しいと言えます。理由は単純で、この乙女たちが場所とセットの存在だからです。物語に必要なのは園と木と竜であって、誰の娘かではありませんでした。
黄金の林檎と竜ラドン ─ 十一番目の功業
ヘラクレスの十二の功業のうち、十一番目がこの林檎を取ってくることでした。
難しさは、場所が分からないことにあります。世界の西の果てとしか伝わっていません。ヘラクレスは道々で人に尋ね、海の老神ネレウスを捕らえて無理やり道を聞き出します。
たどり着いた園には、百の頭を持つ竜ラドンがいました。この竜は眠りません。
番人が眠らないのだから、忍び込むことはできない。
そこでヘラクレスは、アトラスに頼みます。娘たちの父なら、園に入っても咎められません。
私が天を代わりに担ぐ。 あなたが林檎を取ってきてほしい。
アトラスは林檎を三つ持って戻り、「このまま自分が届けてくる」と言い出しました。天を担ぐ役目を、そのまま押し付けようとしたのです。
ヘラクレスは慌てず、「肩に当てものをしたいので少しだけ代わってほしい」と頼みます。アトラスが天を受け取った瞬間、英雄は林檎を拾って立ち去りました。
力ではなく口先で決着した、珍しい功業です。 ただし別の伝えでは、ヘラクレスがラドンを射殺して自分で取ったとされます。
塵になった乙女たち ─ アルゴ船が見たもの
ヘスペリデスの物語で、もっとも印象の強い場面は、ヘラクレスの功業の翌日に起こります。
アポロニオスの『アルゴナウティカ』第四巻です。アルゴ船の一行は砂漠をさまよい、水を求めてこの園にたどり着きます。そこで見たのは、殺されたばかりの竜と、嘆く乙女たちでした。
竜はまだ尾の先を動かしていた。 蠅が傷にたかっていた。
一行が近づくと、乙女たちはたちまち塵と土に姿を変えてしまいます。 オルペウスが呼びかけて頼むと、今度は地面から木が生え、それが元の姿に戻りました。
そして昨日の出来事を語ります。恐ろしい男が来て、竜を殺し、林檎を奪って行ったこと。その男が地面を蹴って水を湧かせたこと。
この場面は、二つの意味で珍しいものです。一つは、英雄の功業を被害者の側から見せていること。もう一つは、変身が一時的であることです。
ギリシャ神話の変身は、たいてい元に戻りません。 木になった者は木のまま、鳥になった者は鳥のままです。ヘスペリデスだけが、塵になり、木になり、また乙女に戻りました。
場所そのものと一体になった存在だから、姿を変えても消えないのだと読めます。
ヘスペリデスの家系図と家族
ヘスペリデスの性格と人物像
ヘスペリデスには、個人としての性格がありません。
名前が挙がることはありますが、書物ごとに違います。台詞を持つのはアポロニオスの一場面だけで、そこでも三人がまとめて語ります。
それでも、この乙女たちには一貫した性質があります。歌っていることです。
ヘシオドスは彼女たちを「声のよい娘たち」と呼びます。園で木の番をしながら歌う。働いているというより、そこに居ることが仕事です。
争わない。追わない。持ち場を離れない。
実際の番をしているのは竜ラドンで、乙女たちは戦いません。ヘラクレスが来ても、抵抗した記録はありません。竜が殺されたときも、嘆くだけです。
もう一つの特徴は、世界の端にいることです。この位置は、ギリシャ神話では特別な意味を持ちます。人の暮らしの外側、日の沈む先。行こうとすれば行けるが、道を知る者がいない場所です。
そこに、黄金の実る木と、歌う娘たちがいる。苦労のない土地の像が、ここに置かれています。ヘシオドスが別のところで描いた、労働のいらない黄金の時代とよく似た風景です。
手に入れられないから美しい。 ヘスペリデスの性格は、その一点に尽きます。
ヘスペリデスゆかりの地と遺跡
ヘスペリデスを祀った神殿はありません。 この乙女たちは信仰の対象ではなく、物語のなかの存在でした。
そのうえ、園の場所すら特定されていません。 「世界の西の果て」としか伝えられず、古代の書き手も具体的な土地を挙げていません。北アフリカのどこか、大西洋の島、アトラス山脈の向こう。推測は古代からありましたが、どれも確かめられていません。
名前だけは土地に残りました。ギリシャから見て西にあるイタリアを、ローマから見て西にあるスペインを、詩人たちはヘスペリアと呼びました。西の地という意味です。
この図鑑では、住所を確かめられない場所を書かない方針を取っています。 園の候補地として名の挙がる土地はいくつもありますが、いずれも根拠を示せませんでした。
ヘスペリデスが現代に残した痕跡
ヘスペリデスの名は、西の地と柑橘の実を指す言葉として残りました。
柑橘類の実の型を指す学術語: ミカンやオレンジのように、厚い皮のなかが房に分かれた実の型を指す植物学の語。黄金の林檎は柑橘だったとする推測から名が採られた。
ヘスペリアという地名: 「西の地」を意味する詩語。ギリシャの詩人はイタリアを、ローマの詩人はスペインをこの名で呼んだ。
宵の明星の名: 名の元になったヘスペロスは、日没後に西の空に見える金星を指す。明けの明星とは別の名で呼ばれていた。
セセリチョウの学名: 素早く飛ぶ小型の蝶の一群に、この名が学名として使われている。
ヘスペリデスが司るもの
果樹の実り
黄金の林檎が実る木を守る。神々の婚礼の贈り物とされた木である。
庭と果樹
園そのものと一体の存在で、場所を離れた物語をほとんど持たない。
黄金時代
働かずに実りがある土地という像が、この乙女たちの住む園に重ねられている。
蓄えの守り
眠らない竜とともに、奪われてはならないものを守り続ける役を担う。
ヘスペリデスが登場するゲーム・アニメ
ヘスペリデスは、乙女たちより「園」のほうが有名になりました。 黄金の林檎の木がある庭という像は、理想郷を描く型の一つとして受け継がれています。
登場人物としては動きが少なく、ヘラクレスの物語の背景として扱われることが大半です。名前を三つとも挙げられる読者は多くありません。
ヘスペリデスが登場する絵画・彫刻
オリンピアのゼウス神殿の浮彫
ヘラクレスの十二の功業を彫った浮彫のうち、アトラスが林檎を差し出す場面が残っています。
バーン=ジョーンズ「ヘスペリデスの園」
十九世紀の作。木を囲んで立つ乙女たちと、幹に巻きつく竜が描かれています。
ヘスペリデスが登場する文学・創作
アポロニオス『アルゴナウティカ』第四巻
竜が殺された翌日の園を、被害者の側から描いた場面があります。
黄金の林檎という主題
手の届かない宝を指す言い方として、後世の詩や物語で繰り返し使われました。
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ヘスペリデスについてよくある質問
ヘスペリデスはどんな存在ですか。
世界の西の果てで黄金の林檎の木を守る乙女たちです。名は「宵」を意味する語から作られています。ヘシオドスは夜の女神ニュクスの娘とし、後代の書物はアトラスの娘とします。
ヘスペリデスは何人いるのですか。
定まっていません。三人、四人、七人とする伝えがあり、名前も書物ごとに入れ替わります。系譜も親も一致していません。
黄金の林檎とパリスの審判の林檎は同じですか。
別です。パリスの審判に投げ込まれたのは、争いの女神エリスが「もっとも美しい者へ」と記した林檎です。ヘスペリデスの林檎は、ガイアがヘラの婚礼に贈った木の実です。
ヘラクレスはどうやって林檎を手に入れたのですか。
アトラスに取ってこさせ、その間じゅう天を代わりに担ぎました。戻ったアトラスが役目を押し付けようとすると、肩に当てものをしたいと言って一瞬だけ代わってもらい、そのまま立ち去っています。
ヘスペリデスの園はどこにあったのですか。
特定されていません。世界の西の果てとしか伝えられず、古代の書き手も具体的な土地を挙げていません。名前だけが「西の地」を意味する詩語として残りました。
ヘスペリデスと併せて覚えたい言葉・用語
パリスの審判(パリスのしんぱん)
エリスが投げ入れた黄金の林檎を巡り、ヘラ・アテナ・アフロディーテのうち誰が最も美しいかをトロイアの王子パリスが判定した出来事。トロイア戦争の発端。