偽りを言わない海の老人。姿を変えて逃げ、捕まえた者に真実を告げる。
ネレウスとは何の神様か
ネレウスはひとことで言えば嘘をつかない海です。
原初の海ポントスとガイアの長子で、ヘシオドスは珍しく手放しに褒めています。
偽りを言わず、真実を語る神。 掟を忘れず、正しく穏やかな心を持つがゆえに、老人と呼ばれる。
ギリシャの神々は、たいてい怒り、欺き、罰します。その系譜の冒頭近くに、まったく怒らない神が一柱だけ置かれています。
オケアノスの娘ドリスを妻とし、五十柱のネレイスを生みました。アキレウスの母テティスも、ポセイドンの妃アムピトリテも、この夫婦の娘です。
この神はすべてを知っています。 ただし、聞かれたからといって答えません。答えを得たい者は、眠っているところを捕らえ、姿を変え続けるのを放さずに押さえ込むしかありません。
ヘラクレスは、黄金の林檎の在り処を聞き出すために、実際にそうしました。
ネレウスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Νηρεύς。日本語では「ネレウス」で定着しています。
この名は、ギリシャ語のなかでも古い層に属します。「流れる」「湿る」を意味する語根に結び付ける説が有力で、神の名というより、水を指す言葉がそのまま人格になった形だと考えられています。
娘たちを指す「ネレイス」は、この名から作られた集合の呼び名です。日本語では「ネレイデス」「ネレイド」とも書かれます。
紛らわしいのは、同じ「海の老人」と呼ばれる神が三柱いることです。ネレウス、プロテウス、ポルキュス。ホメロスはこの呼び名を使い分けず、文脈でしか区別できません。
海王星の衛星のひとつには、この神の娘たちの名が与えられています。
Νηρεύς(ネレウス)
古代ギリシャ語の表記。「流れる」「濡れる」を意味する語根と結び付ける説があり、水そのものを指す古い言葉の名残と考えられている。
ハリオス・ゲロン(ハリオス・ゲロン)
「海の老人」の意。ホメロスがこの神を呼ぶときの言い方で、プロテウスやポルキュスにも同じ呼び名が使われる。
ネーレウス(ネーレウス)
長音を残した学術的な表記。事典類ではこの形も使われる。
Nereus(ネレウス)
ローマでの綴り。海王星の衛星ネレイドの名は、この神の娘たちに由来する。
ネレウスの物語
褒められている神 ─ 神統記の異例
ヘシオドス『神統記』は、神々の性質をあまり書きません。名を挙げ、誰の子で誰を生んだかを並べるのが基本です。
ところがネレウスのところだけ、筆が止まります。
ポントスは、偽りを言わず真実を語るネレウスを生んだ。 長子であるゆえに、人々は老人と呼ぶ。 掟を忘れず、正しく穏やかな考えを知っているからである。
四行にわたって人格が褒められています。 これは『神統記』のなかでかなり異例です。
注目すべきは「老人と呼ばれる理由」の説明です。年老いているからではありません。正しく穏やかだから老人と呼ばれる、と書かれています。 古代ギリシャで長老が敬われた理由が、そのまま神の説明になっています。
海は荒れるものです。それでもギリシャ人は、海の最初の子に「嘘をつかない」という性質を与えました。
海が人を裏切るのではなく、海は本当のことしか言わない。そう考える言い方があったことになります。
ヘラクレスに縛られる ─ 変身する神の捕まえ方
十二の功業の十一番目で、ヘラクレスは世界の西の果てにある黄金の林檎を取ってくるよう命じられます。しかし、その場所を誰も知りません。
アポロドーロスによれば、ヘラクレスはニンフ?たちに教えられてネレウスを訪ねました。この神なら知っているからです。
ただし、素直には答えません。
眠っているところを縛り上げた。 神はさまざまな姿に変わったが、放さなかった。
水になり、火になり、獣になっても、腕をゆるめない。変わりきったところで観念し、林檎の在り処を告げます。
この型は、ギリシャ神話に何度も出てきます。プロテウスをメネラオスが捕らえる場面、テティスをペレウスが捕らえる場面。どれも同じ手順です。
姿を変える神からは、我慢だけが答えを引き出せる。 力でも祈りでもありません。放さずに待つことだけが通用します。
古代の壺絵にも、ヘラクレスが魚の尾を持つ老神を抱え込む図が数多く残っています。
五十柱の父 ─ 海の女神たちの家
ネレウスとドリスのあいだに生まれた娘たちは、ネレイスと総称されます。数は五十柱。
ヘシオドスはその名を、一柱ずつ書き出しています。
波を受ける者、島を与える者、洞窟に住む者、 澄んだ水の者、速く走る者。
名前のほとんどが海の様子を表す言葉です。五十の名を並べることで、海のさまざまな表情を数え上げている形になります。
この娘たちのなかから、神話の主要人物が出ます。テティスはアキレウスを産み、アムピトリテはポセイドンの妃になり、ガラテイアはキュクロプスに恋されます。
海の女神と呼ばれる存在は、ほとんどがこの家から出ている ことになります。
父ネレウスは、娘たちが嘆くとき以外、ほとんど姿を見せません。『イリアス』第18歌でテティスが親友の死を嘆くと、五十の姉妹が海底の父の館に集まります。父はそこにいますが、一言も発しません。
父としての描写がほとんど無い父です。
ネレウスの家系図と家族
ネレウスの性格と人物像
ネレウスは、争わない神です。
ポセイドンが海の支配権を握ったあと、この神が抵抗した記録はありません。ティタン神族?とゼウスの戦争にも出てきません。古い神が新しい神に取って代わられるとき、ふつうは戦うか、落とされるか、消されるかのどれかです。ネレウスはどれでもありません。
ただ海の底に残り、娘たちに囲まれ、聞かれれば本当のことを言う。
もうひとつの性格は、答えを渋ることです。嘘は言いませんが、進んでは教えません。姿を変えて逃げようとします。
この二つは矛盾していません。逃げるが、捕まれば偽らない。 海の性質としては、よく分かる組み合わせです。荒れれば手に負えないが、荒れがおさまれば水は澄んでいます。
怒った場面も、罰した場面もありません。ギリシャ神話で数えるほどしかいない、害を与えない神です。
それゆえに物語の主役にはなれず、脇に置かれ続けました。事績が薄いのは、性格が穏やかすぎるからだと言えます。
ネレウスゆかりの地と遺跡
ネレウスを祀った神殿は確かめられませんでした。
この神は、独立した神殿を持つ形ではなく、娘たちであるネレイスとひとまとめに祀られることが多かったと考えられます。海辺の岬や港では、名を挙げずに「海の神々」として供え物がされました。
古代ギリシャで海の祭祀の中心になったのはポセイドンで、それより古い海の神々は、名を残しながら祭壇を持たない立場に移っています。
伝承の舞台としては、エーゲ海の海底にある館が語られます。『イリアス』では、そこに五十の姉妹が集まって嘆く場面が描かれました。ただし、特定の場所として指し示せる遺跡はありません。
ネレウスが現代に残した痕跡
ネレウスの名は、天体と生物の名として現代に残りました。
海王星の衛星ネレイド: 1949年に発見された海王星の衛星の名。この神の娘たちを指す言葉から取られている。
深海探査機の名: 海の底へ潜る無人探査機に、この神の名が与えられた例がある。海のすべてを知る神という性格による。
海の老人という呼び名: 姿を変えて逃げ、捕まえれば真実を語る存在を指す言い方として、後世の文学で使われ続けた。
壺絵のヘラクレス図: 魚の尾を持つ老神を抱きすくめる場面は、古代の陶器に繰り返し描かれた主題である。
ネレウスが司るもの
真理
偽りを言わない神とされる。捕らえられれば必ず本当のことを告げる。
予言
海のすべてを知り、尋ねられれば行く先を教える。
航海の安全
娘であるネレイスとともに、船乗りに親しまれた海の神格。
変化
水にも火にも獣にも姿を変える。逃れる術として語られる。
忍耐
変わり続ける相手を放さずにいた者だけが答えを得る、という物語の型を残した。
ネレウスについてよくある質問
ネレウスはどんな神ですか。
原初の海ポントスとガイアの長子で、「海の老人」と呼ばれる神です。偽りを言わず真実を語るとヘシオドスに記され、オケアノスの娘ドリスとの間に五十柱のネレイスを生みました。
ネレウスとポセイドンはどう違いますか。
ポセイドンは海を治める王で、ネレウスは海そのものに近い古い神格です。支配や戦いの物語はネレウスにはなく、予言と系譜だけが語られます。両者が争った記録もありません。
なぜヘラクレスはネレウスを縛ったのですか。
黄金の林檎がどこにあるかを聞き出すためです。この神は尋ねられても素直に答えず、水や火や獣に姿を変えて逃げようとするため、変わりきるまで放さずにいる必要がありました。
ネレウスの子にはどんな神がいますか。
五十柱のネレイスです。アキレウスの母テティス、ポセイドンの妃アムピトリテ、キュクロプスに恋されたガラテイアが、いずれもこの神の娘にあたります。
ネレウスを祀った神殿はありますか。
確かめられませんでした。娘たちであるネレイスとまとめて祀られる形が多く、海辺では名を挙げずに海の神々への供え物がなされました。
ネレウスと併せて覚えたい言葉・用語
ニンフ(Νύμφη)
山・森・泉・木に宿る若い女神たち。神ではあるが不死ではなく、宿る木や泉が滅べば死ぬとされた。ギリシャ神話で最も数の多い存在。
ティタン神族(ティタンしんぞく)
ウラノスとガイアの子である十二柱の神々。クロノスを王とし、ゼウスとの十年戦争に敗れてタルタロスへ落とされた。「タイタン」とも表記する。