冥界の川の渡し守。渡し賃を払えない死者は、岸に置き去りにされる。
カロンとは何の神様か
カロンはひとことで言えば料金を取る番人です。ギリシャ神話で、死者が最初に会う相手にあたります。
仕事は死者を舟で対岸へ運ぶこと。ただし条件が二つあります。
地上でちゃんと葬られていること。 そして、渡し賃を持っていること。
賃料はオボロスという小さな銀貨一枚でした。だからギリシャの人は、死者の口に硬貨を含ませて葬りました。これは物語だけの話ではありません。口に貨幣を入れられた古代の遺骨が、実際に各地で見つかっています。
条件を満たさない者は舟に乗れません。埋葬されなかった者は、岸をさまよい続けることになります。
姿は、白髪と髭の乱れた汚れた老人。目は炎のようだと書かれます。
注意したい点があります。ホメロスにはこの渡し守が出てきません。 『イリアス』『オデュッセイア』の冥界に、舟も渡し賃も登場しないのです。ローマ名はカロンのまま変わりません。
カロンのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Χάρων。日本語では「カロン」で定着しています。
語源は定まっていません。「輝く目の」を意味する語と結び付ける説があり、これはローマの詩が書いた「炎のような目」という描写と合います。
ローマでも名は置き換わりませんでした。冥界の渡し守という役目に、ローマ側の神が用意されていなかったためです。
渡し賃のオボロスは、実際に流通していた小額の銀貨です。「カロンの渡し賃」という言い方は、いまも考古学の用語として使われます。死者の口や手から硬貨が出土したとき、この名で呼ばれます。
日本語の読者には、三途の川の六文銭が近い習慣として思い浮かぶでしょう。川を渡るために銭が要るという発想は、離れた土地で別々に生まれています。
Χάρων(カロン)
古代ギリシャ語の表記。「輝く目の」を意味する語と結び付ける説がある。目が炎のようだという描写と合う。
Charon(カロン)
ローマでの綴りと読み。名は置き換えられず、そのまま使われた。
ὀβολός(オボロス)
渡し賃とされた小さな銀貨。死者の口に含ませて葬る習わしがあり、この習慣を指して「カロンの渡し賃」と呼ぶ。
カローン(カローン)
日本語での別表記。長音を入れた形で、翻訳によって使い分けられる。
Charun(カルン)
イタリア半島の先住民エトルリアで、死者に関わる神として描かれた存在の名。ギリシャのカロンとの関係は議論があり、確定していない。
カロンの物語
- ホメロスにいない ─ 後から現れた渡し守
- 渡し賃 ─ 口に硬貨を含ませる習わし
- どの川を渡るのか ─ 書物で名が変わる
- 通した相手 ─ 生きたまま渡った者たち
- 汚れた老人という造形 ─ 死神の原型になる
ホメロスにいない ─ 後から現れた渡し守
ギリシャ神話の冥界といえば、まず舟と渡し守が思い浮かびます。ところが、もっとも古い記録にはいません。
『オデュッセイア』第11歌で、オデュッセウスは生きたまま死者と話します。しかしそこには、
舟もない。渡し守もいない。渡し賃も要らない。
死者は自分でやって来て、供えられた血を飲み、言葉を話します。冥界に「入場の手続き」がありません。
この渡し守が文献に現れるのは、少し後の時代です。失われた叙事詩に描かれていたことが、後代の旅行記の証言から分かっています。以後、悲劇にも喜劇にも登場するようになりました。
アリストパネスの喜劇では、酒神ディオニュソスが自分で櫂を漕がされます。笑いの対象になるほど、観客に馴染んだ存在になっていたわけです。
なぜ後から現れたのか。 はっきりした答えはありません。ただし、死者を葬る作法が細かくなっていく時代と重なっている、という指摘があります。手続きが増えれば、手続きを司る存在が要ります。
渡し賃 ─ 口に硬貨を含ませる習わし
この渡し守を有名にしたのは、料金を取るという一点です。
賃料はオボロス銀貨一枚。当時の物価でいえばごく小額で、貧しい者でも払える額でした。それでも、払えなければ乗せません。
そこで生まれたのが、死者の口に硬貨を含ませて葬る習わしです。
ここが重要なところです。この習慣は、文献だけでなく発掘によって確かめられています。 ギリシャ世界の各地の墓から、口のあたりや手のなかに硬貨を持った遺骨が出土しています。考古学ではこれを「カロンの渡し賃」と呼びます。
ただし、すべての墓にあるわけではありません。 地域と時代によって差が大きく、行われた場所と行われなかった場所があります。
神話がそのまま全員に守られていたのではない。 守った人々がいた、というのが正確な言い方になります。
埋葬されなかった者が岸に留め置かれるという設定も、同じ方向を向いています。遺体を葬ることが、生きている者の義務であるという考え方を、神話の側から支える仕掛けでした。
どの川を渡るのか ─ 書物で名が変わる
渡る川の名は、書物によって違います。
冥界には複数の川があるとされました。
アケロン(嘆きの川)、ステュクス(憎しみの川)、 コキュトス(慟哭の川)、プレゲトン(燃える川)、 レテ(忘却の川)。
この渡し守が舟を出すのは、アケロンとする書物が多く、ステュクス?とするものもあります。ローマの詩人ウェルギリウスは両方の名を使っており、古代の段階ですでに整理されていません。
地上には、この川と結び付けられた実在の場所があります。ギリシャ北西部のイピロス地方を流れるアケロン川です。その岸には、死者の霊を呼ぶための施設があったとされる遺跡が残っています。
もう一つ、タイナロン岬も冥界の入口とされました。ペロポネソス半島の最南端で、ここから地下へ降りる洞窟があると信じられていました。ヘラクレスが番犬ケルベロス?を連れ出したのも、この道からだと伝えられます。
入口が複数あるのは、各地の人が自分の土地の洞窟や川を冥界の入口と考えたためです。
通した相手 ─ 生きたまま渡った者たち
この渡し守は、原則として死者しか乗せません。 それでも、生きたまま渡った者が数人います。
ヘラクレス。番犬ケルベロスを連れ出す任務で冥界へ下りました。後代の伝えでは、この渡し守は英雄を恐れて舟に乗せ、そのために冥界の王から罰を受けたとされます。
オルフェウス。死んだ妻を連れ戻すため、竪琴を弾きながら下りました。ローマの詩は、その音楽が冥界のすべてを止めたと書きます。ただし帰り道、振り返ってはならないという約束を破り、二度目に川を渡ろうとしたときは、渡し守に断られました。
アイネイアス。ローマの建国叙事詩では、黄金の枝を示すことで乗船を認められます。渡し守は最初、生者を拒みました。
並べてみると規則が見えます。
力で押した者、音楽で説き伏せた者、印を示した者。
通す条件が三通りあり、いずれも例外として扱われています。 この渡し守は融通が利かないからこそ、突破の仕方が物語になりました。
汚れた老人という造形 ─ 死神の原型になる
この渡し守の姿を決定づけたのは、ローマの詩です。
恐ろしく汚れた姿。顎からは白い髭が伸び放題に垂れ、 目は炎のように据わっている。肩には汚れた外套を結んでいる。
神々しさがまったくありません。 ギリシャの神は美しく描かれるのが原則ですから、これは例外的な造形です。
中世に入ると、この姿はさらに強く働きました。ダンテの『神曲』地獄篇では、この渡し守が舟に亡者を乗せ、櫂で打って追い立てます。
ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の壁画にその場面を描きました。キリスト教の最後の審判の絵のなかに、ギリシャの渡し守が入っています。 ダンテを経由して持ち込まれたものです。
骸骨でもなく、鎌も持たないのに、この老人は「死者を運ぶ者」の視覚的な原型になりました。
舟、櫂、川、老人、そして料金。この五つの組み合わせは、いまも死の描写に繰り返し現れます。冥王星の衛星に付けられた名も、この定着の結果です。
カロンの家系図と家族
カロンの性格と人物像
カロンには、感情がほとんど書かれていません。
怒りもせず、憐れみもせず、規則どおりに人を乗せ、規則に合わない者を断ります。この規則正しさこそが、この存在の恐ろしさです。
泣いて頼んでも乗せません。埋葬されていない者を、岸に群がらせたまま置いておきます。ローマの詩は、その岸に押し寄せる死者の数を、秋の落ち葉と渡り鳥の群れにたとえました。
例外は三度だけです。力で脅されたとき、音楽に打たれたとき、印を示されたとき。そのうち一度は罰を受けています。
もうひとつ見落とせないのが、下働きであることです。冥界の王ではなく、王に使われる者です。神々の華やかな争いとも、英雄の冒険とも関係がありません。
それでいて、死者にとってはハデスよりも先に会う相手でした。王の顔を見る前に、この老人に料金を払わなければなりません。
制度の入口に立つ者が、いちばん怖い。 この渡し守が二千年以上描かれ続けている理由は、そこにあると思われます。
カロンゆかりの地と遺跡
カロンを祀った神殿はありません。 神ではなく、冥界の下働きだからです。願いをかける相手ではありませんでした。
かわりに残ったのが、冥界の入口とされた土地です。
ギリシャ北西部のアケロン川は、この渡し守が舟を出す川と同じ名を持ちます。その岸には、死者の霊を呼ぶ施設だったとされる遺跡があります。ただしこの遺跡の性格そのものが、いまも議論の途中です。
ペロポネソス半島最南端のタイナロン岬も、冥界へ下る洞窟があるとされた場所です。
どちらも、この渡し守に捧げられた施設ではありません。神話の地理が地上のどこに当てはめられたかを示す場所です。
本当に残ったのは、建物ではなく習わしでした。死者の口に硬貨を含ませて葬る作法は、各地の墓から実際に出土しています。
ネクロマンテイオン(アケロン川岸)(Nekromanteion)
死者の霊を呼ぶ施設があったとされる遺跡
ネクロマンテイオン(アケロン川岸)の住所: ギリシャ イピロス地方 アケロン川岸(古代エフィラ近郊)
ネクロマンテイオン(アケロン川岸)の祀られた神: ハデスとペルセポネ(カロンを祀った施設ではない)
ネクロマンテイオン(アケロン川岸)に残るもの: 厚い石積みの壁と、地下の部屋
冥界の川とされたアケロンの岸にある遺跡です。死者の霊を呼び出す施設だったとする説から、この名で呼ばれています。
この渡し守を祀った施設ではありません。 ここに祀られたのは冥界の王ハデスと王妃ペルセポネです。
ただし、この渡し守が舟を出す川として名が挙がるのが、まさにこのアケロンです。地上の川と冥界の川が同じ名で呼ばれ、その岸に死者へ取り次ぐ施設が置かれた、という結び付きになります。
遺跡の性格については議論があり、穀物倉を備えた要塞化した屋敷だったとする説も出されています。「死者の霊を呼ぶ施設」という解釈は確定していません。
所在は古代地名事典プレイアデス(Nekromanteion)で確認した。
タイナロン岬(Cape Tainaron)
冥界の入口とされたギリシャ本土最南端の岬
タイナロン岬の住所: ギリシャ ラコニア地方 マニ半島 タイナロン岬(マタパン岬)
タイナロン岬の祀られた神: ポセイドン(岬の聖域)。カロンを祀った施設ではない
タイナロン岬に残るもの: 洞窟と、聖域跡の基礎
ペロポネソス半島の最南端にあたる岬です。ここに冥界へ下る洞窟があると信じられていました。
ヘラクレスが番犬ケルベロスを連れ出すために下ったのも、この道からだと伝えられます。
この渡し守を祀った施設ではありません。 岬にはポセイドンの聖域があり、逃亡者が保護を求められる場所として知られていました。
現在は洞窟と聖域の基礎が残り、岬の先端には灯台があります。道が細く、徒歩でしか近づけない区間があります。
所在は古代地名事典プレイアデス(Tainaron)で確認した。
カロンが現代に残した痕跡
カロンの名は、天体・美術・考古学の用語として現代に残りました。
冥王星の衛星カロン: 1978年に見つかった、冥王星でもっとも大きな衛星。冥界の王のそばを回る衛星として、この渡し守の名が与えられた。
「カロンの渡し賃」という考古学の用語: 死者の口や手から硬貨が出土したとき、この名で呼ばれる。ギリシャ世界の各地の墓で確認されている。
ダンテ『神曲』地獄篇: 第三歌に登場し、亡者を舟に乗せて櫂で打ち立てる。中世ヨーロッパにこの姿を定着させた。
ミケランジェロ「最後の審判」: システィーナ礼拝堂の壁画に、櫂を振り上げるこの渡し守が描かれている。ダンテを経由して持ち込まれた図像である。
ホラガイの学名: 大きな巻貝の一群に、この渡し守の名を語幹とする属名が与えられている。同じ名の種にはトリトンの名も組み合わされている。
パティニール「ステュクス川を渡るカロン」: 16世紀前半の絵画。舟の左右に天国と地獄を配した構図で、スペインのプラド美術館が所蔵する。
カロンが司るもの
死者の導き
死者を舟に乗せ、冥界の対岸へ運ぶ役目を負う。
死者の先導
死者が最初に会う存在であり、冥界へ入る手続きを司った。
葬送
埋葬されていない者は舟に乗れないとされ、遺体を葬ることの重さを支える存在だった。
境界
生者の世界と死者の世界を分ける川を、唯一渡ることができる者とされた。
カロンが登場するゲーム・アニメ
創作では「料金を取る」という一点がほぼ必ず採られます。 通行料を払わせる関門役として使いやすいためです。
一方で、埋葬されていない者を乗せないというもう一つの条件は、あまり描かれません。現代の物語では、遺体を葬れるかどうかが切実な問題になりにくいためと思われます。
原典では、この二つの条件は同じ重さで並んでいました。むしろ後者のほうが、生きている者への要求として重いものでした。
カロンが登場するゲーム
各種ロールプレイングゲームの渡し守
「金を払わないと先へ進めない案内人」という型は、この存在が出発点になっています。
カロンが登場するアニメ・漫画・映像
パーシー・ジャクソンシリーズ
現代のアメリカを舞台に、冥界の受付として姿を変えて登場します。
各種の冥界を扱った映像作品
川と舟と老人という組み合わせは、死後の世界を描く場面の定型になっています。
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カロンについてよくある質問
カロンとは何者ですか。
冥界の川で死者を舟に乗せて運ぶ渡し守です。神ではなく、冥界の王ハデスに使われる立場とされます。埋葬されていること、渡し賃を持っていることの二つを乗船の条件としました。
カロンのローマ名は何ですか。
ローマでも同じくカロン(Charon)です。名は置き換えられませんでした。冥界の渡し守という役目に、ローマ側の対応する神がいなかったためです。
カロンの渡し賃はいくらですか。
オボロスという小さな銀貨一枚とされます。当時としてはごく小額でした。この賃料を持たせるため、死者の口に硬貨を含ませて葬る習わしがあり、実際に各地の墓から硬貨を持った遺骨が出土しています。
カロンが渡る川はステュクスですか、アケロンですか。
書物によって違います。アケロンとするものが多く、ステュクスとするものもあります。ローマの詩人ウェルギリウスは両方の名を使っており、古代の段階ですでに整理されていません。
カロンはホメロスに出てきますか。
出てきません。『オデュッセイア』の冥界には舟も渡し守も渡し賃もなく、死者は自分でやって来て話します。この渡し守が現れるのは、少し後の時代の文献からです。
生きたままカロンの舟に乗った人はいますか。
ヘラクレス、オルフェウス、そしてローマの建国叙事詩のアイネイアスが挙げられます。それぞれ、力で脅す、音楽で説き伏せる、黄金の枝という印を示す、という別の方法を使いました。いずれも例外として扱われています。
冥王星の衛星カロンはこの神が由来ですか。
そうです。1978年に見つかったこの衛星は、冥界の王プルート(冥王星)のそばを回ることから、渡し守の名が与えられました。
カロンと併せて覚えたい言葉・用語
ステュクス(Στύξ)
冥界を流れる川、およびその女神。神々の最も重い誓いはこの名にかけて立てられ、偽れば一年息ができず九年追放される。
ケルベロス(Κέρβερος)
冥界の門を守る三つ首の犬。入る者は通すが、出る者は通さない。テュポーンとエキドナの子。