冥界を流れる川であり女神。神々はこの水にかけて誓い、破れば罰を受ける。
ステュクスとは何の神様か
ステュクス?はひとことで言えば神々が嘘をつけない仕組みです。川であり、その川の女神でもあります。
名は「憎むべきもの」を意味します。大洋の神オケアノスの長女で、ローマでも綴りは変わりません。
この神の重さは、誓いにあります。神々が争うと、ゼウスは虹の女神イリスを送り、黄金の壺にこの川の水を汲ませました。その水にかけて誓い、偽れば罰を受けます。
一年のあいだ息もつけずに横たわる。 そののち九年、神々の集まりから遠ざけられる。
なぜこれほど重んじられたのか。ティタン神族?との十年戦争で、この女神が真っ先にゼウスの側についたからです。褒賞として「神々の誓いの証人」という地位を与えられました。
連れて行った子は四柱。勝利(ニケ)・力・競い・暴力。以後ゼウスのそばを離れません。
アキレウスをこの川に浸したという話は、ずっと後の時代のものです。掴んでいた踵だけが濡れず、そこが弱点になりました。
ステュクスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Στύξ。日本語では「ステュクス」「スティクス」の両方が使われます。
語源ははっきりしています。「憎む」「震え上がる」を意味する動詞と同じ語根です。恐ろしいものとして名付けられた川です。
ローマでも名は置き換わりませんでした。冥界の川に、ローマ側の対応する神がいなかったためです。
ややこしいのは、川と女神が同じ名であることです。ヘシオドスは女神として書き、ホメロスは川として書きます。書物によってどちらを指すかが変わるため、読み分けが必要になります。
地上には、この川と同一視されてきた滝があります。ペロポネソス半島北部の山中にあり、現在は「黒い水」を意味する名で呼ばれています。
Στύξ(ステュクス)
古代ギリシャ語の表記。「憎む」「震え上がる」を意味する動詞と同じ語根を持ち、「憎むべきもの」と解される。
Styx(ステュクス)
ローマでの綴り。名は置き換えられず、そのまま使われた。英語では「スティクス」に近い読みになる。
Μαυρονέρι(マヴロネリ)
この川と同一視されるアルカディア北部の滝の、現在の呼び名。「黒い水」を意味する。
ステュクス川(ステュクスがわ)
冥界を流れる川としての呼び方。女神と川が同じ名で、書物によってどちらを指すか読み分ける必要がある。
スティクス(スティクス)
日本語での別表記。英語読みに寄せた形で、創作作品ではこちらも使われる。
ステュクスの物語
- 真っ先に味方した ─ 地位を得た理由
- 誓いの罰 ─ 神は死なないから謹慎させる
- 地上にあるステュクス ─ 実在する滝
- アキレウスを浸す ─ 後から加わった話
- なぜ祀られなかったのか ─ 場所であり装置である神
真っ先に味方した ─ 地位を得た理由
ヘシオドス『神統記』は、この女神が高い地位を得た経緯をはっきり書きます。
ティタン神族との十年戦争のさなか、ゼウスは呼びかけました。
味方する者には、地位と褒賞を与える。 これまで地位を持たなかった者にも与える。
最初に応じたのが、この女神でした。父オケアノスの助言に従い、四人の子を連れて駆けつけます。
ゼロス(競い)、ニケ(勝利)、クラトス(力)、ビア(暴力)。
この四柱は、以後ゼウスのそばを離れません。勝利がゼウスの隣にいるのは、母が最初に味方したからです。
褒賞は、地位や領地ではありませんでした。
神々の大いなる誓いは、この女神の水によって立てられる。
誓いの証人という役目そのものが褒賞でした。地味に見えますが、これは神々の世界の秩序を一手に担う地位です。
先に賭けた者が、いちばん重い役目を得た。この筋書きは、ヘシオドスが繰り返し用いる型です。
誓いの罰 ─ 神は死なないから謹慎させる
神々の誓いの手続きは、細かく決まっていました。
神々のあいだに争いが起きると、ゼウスがイリスを送る。 イリスは黄金の壺に、高い岩から滴る冷たい水を汲んで戻る。
その水にかけて誓い、偽った場合はこうなります。
一年のあいだ、息もつけずに横たわる。神々の食べ物にも触れられない。 そののち九年、神々の集まりと宴から遠ざけられる。 十年目にようやく戻ることを許される。
合わせて十年です。
ここに、ギリシャ神話の重要な前提が現れています。神は死にません。だから、嘘をついた罰に死を用いることができません。
人間の社会なら、偽誓の罰は死や追放です。神には効きません。そこで用意されたのが、息を止められた一年と、仲間外れの九年でした。
死なないからこそ、時間を奪うことが最大の罰になります。
この誓いは、ゼウスにも効きます。人間の女に「何でも望みを叶える」と誓ってしまい、その結果として相手を焼き殺すことになった話が、まさにこの誓いの拘束力を示しています。
地上にあるステュクス ─ 実在する滝
冥界の川とされながら、この川には地上の場所が特定されています。
ペロポネソス半島北部、アルカディアの山中にある高い滝です。切り立った岩から細く水が落ちており、現在は「黒い水」を意味する名で呼ばれています。
古代の記録は具体的です。歴史家ヘロドトスは、スパルタ王がアルカディア人にこの水にかけて誓わせようとしたと書いています。神話の誓いが、現実の政治で使われていたことになります。
旅行記を書いたパウサニアスは、この水の性質をこう伝えます。
どんな器も壊してしまう。ガラスも水晶も陶器も、石も金属も割れる。 ただ馬の蹄だけが、この水に耐える。
これは事実の記録というより、この水にまつわる評判の記録です。
もう一つ、古代から繰り返された噂があります。アレクサンドロス大王がこの水で毒殺されたというものです。ただし当時の歴史家自身が「そういう話が流れた」と書き添えており、噂として伝えられたことが分かるだけです。
現在も滝は残り、登山道から見ることができます。
アキレウスを浸す ─ 後から加わった話
「アキレウスは幼いときこの川に浸され、掴まれていた踵だけが不死にならなかった」
この話は、ホメロスには一行も出てきません。
『イリアス』のアキレウスは、傷つく体を持つ人間です。不死身ではありません。彼が死ぬのも、踵を射られたからだとは書かれていません。
川に浸すという筋が現れるのは、紀元後1世紀のローマの叙事詩からです。ヘシオドスやホメロスから見て、七百年から千年ほど後になります。
母テティスが赤子の踵を掴み、逆さにして川に浸した。 掴んだ場所だけが水に触れなかった。
ギリシャ側にはこれとは別の伝えもあります。母が赤子を火にかざして不死にしようとし、父に見つかって中断したというものです。どちらが古いかといえば、火のほうです。
それでも、いま世界中で知られているのは川のほうです。踵の腱を「アキレス腱」と呼ぶ呼び方も、この後発の話から来ています。
医学用語になったのは18世紀のことで、神話が解剖学の名称になった数少ない例です。
なぜ祀られなかったのか ─ 場所であり装置である神
これほど重い役目を持ちながら、この女神を祀った神殿はありません。理由は三つ考えられます。
一つ目。冥界の神だからです。地下の神への祀り方は地上の神と違い、神殿を建てて像を置く形になりません。
二つ目。川そのものだからです。オケアノスと同じで、場所そのものである神には祈る一点を定められません。
三つ目が、いちばん効いていると思われます。この女神は、人間に何かをしてくれる神ではありません。 神々のあいだの誓いを保証する装置であって、人の願いを聞く役ではないのです。
実際、古代の人が「ステュクスにかけて誓う」ことはありました。ただしそれは神々の作法を借りた表現であって、この女神への信仰とは別のものです。
かわりに残ったのが、地上の滝でした。アルカディアの山中の水は、恐れられ、噂され、政治にまで使われました。
神殿は無いのに、水そのものが力を持つと信じられていた。 この形の残り方は、他の神にあまり見られません。
ステュクスの家系図と家族
ステュクスの性格と人物像
ステュクスには、台詞がありません。
『神統記』に書かれているのは、行動が二つだけです。四人の子を連れて真っ先にゼウスの側についたこと。 そして、誓いの水を提供し続けていること。
意見も、感情も、迷いも書かれていません。決断の速さだけが、この女神の性格として記録されています。
注目したいのは、褒賞の受け取り方です。ゼウスは味方した者に地位を与えると約束しました。この女神が得たのは、領地でも権力でもなく、役目でした。
誓いの水を用意する係。それだけです。しかしその役目のおかげで、神々全員がこの女神に縛られることになりました。ゼウスも例外ではありません。
子の名前の並びも意味深です。競い・勝利・力・暴力。争いに必要なものが四つそろっています。 争いの側にいる神でありながら、争いを収める誓いを担当している。
恐ろしい名を持ち、恐ろしい子を持ち、それでいて秩序の側にいる。 この位置がこの女神の全部です。
ステュクスゆかりの地と遺跡
ステュクスを祀った神殿はありません。 冥界の川であり、人の願いを聞く神ではなかったためです。
かわりに残ったのが、地上の滝でした。ペロポネソス半島北部の山中にある高い滝が、古代からこの川と同一視されてきました。現在は「黒い水」を意味する名で呼ばれています。
この水には、実際の力があると信じられていました。歴史家ヘロドトスは、スパルタ王がこの水にかけて人に誓わせようとしたと書いています。 神話の作法が、現実の政治に持ち込まれていたわけです。
古代から繰り返された噂もあります。アレクサンドロス大王がこの水で毒殺された、というものです。ただし当時の歴史家自身が「そういう話が流れた」と書いており、噂として伝えられたことが分かるだけです。
滝そのものは残っています。神殿ではなく、水が信仰の対象でした。
ステュクスの滝(アルカディア北部)(Styx)
古代からステュクスの水とされてきた滝
ステュクスの滝(アルカディア北部)の住所: ギリシャ ペロポネソス半島 北部(アロアニア山地)
ステュクスの滝(アルカディア北部)の祀られた神: (祀られた神殿はない。伝承地)
ステュクスの滝(アルカディア北部)に残るもの: 切り立った岩から落ちる細い滝
ペロポネソス半島北部の山中にある滝です。古代からこの水が「ステュクスの水」とされてきました。
歴史家ヘロドトスは、スパルタ王がアルカディア人にこの水にかけて誓わせようとしたと記録しています。神話上の誓いが、現実の政治の場で持ち出されていたことになります。
旅行記を書いたパウサニアスは、この水がどんな器も壊し、馬の蹄だけが耐えると伝えました。この水にまつわる評判の記録であって、性質の観察ではありません。
神殿はありません。 現在は「黒い水」を意味する名で呼ばれ、登山道から見ることができます。
所在は古代地名事典プレイアデス(Styx)で確認した。
ステュクスが現代に残した痕跡
ステュクスの名は、医学用語・天体・言い回しとして現代に残りました。
アキレス腱: 踵の上の太い腱の名。母がこの川に浸したとき掴んでいた場所だから弱点になった、という後代の話から来ている。医学用語として定着したのは18世紀である。
冥王星の衛星ステュクス: 2012年に見つかった、冥王星の小さな衛星。冥界の川の名が与えられた。同じ冥王星の衛星には、渡し守カロンの名も付いている。
マヴロネリの滝(ギリシャ): 古代にステュクスの水とされた滝の、現在の呼び名。「黒い水」を意味する。ペロポネソス半島北部の山中にあり、いまも見ることができる。
「ステュクスにかけて誓う」という言い回し: 破ることのできない最も重い誓いを指す表現として、ヨーロッパの文学に残る。
「ステュクスを渡る」という表現: 死ぬことを指す婉曲な言い方。渡し守カロンの舟と組み合わせて用いられる。
ステュクスが司るもの
誓約
神々の誓いはこの女神の水にかけて立てられた。破れば十年の罰を受ける。
誓いを守らせる
ゼウスを含むすべての神を拘束する。神々の世界で唯一、最高神より上位に働く仕組みだった。
約束を守ること
古代の人が「ステュクスにかけて誓う」と言うのは、神々の作法を借りた最も重い約束の形だった。
水源
大洋の神オケアノスの長女であり、地上には同一視される滝が実在する。
ステュクスが登場するゲーム・アニメ
創作では「冥界の川」という場所としてだけ使われることが多くなりました。 女神であることは、ほとんど扱われません。
例外的によく採られるのが、この川にかけた誓いは破れないという設定です。物語の仕掛けとして扱いやすいためです。
一方で、原典でもっとも重要なティタン神族との戦争で真っ先にゼウスに味方したという経緯は、まず描かれません。誓いの証人という地位が、そこから来ていることも知られていません。
ステュクスが登場するゲーム
各種ロールプレイングゲームの「破れない誓約」
破れば重い代償を負う契約という仕掛けは、この女神の誓いが出発点になっています。
ステュクスが登場するアニメ・漫画・映像
パーシー・ジャクソンシリーズ
登場人物がこの川にかけて誓う場面が繰り返し出てきます。誓いの重さという原典の性質が使われています。
各種の冥界を扱った作品
冥界の入口を流れる川として、名だけが定型的に使われます。
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ステュクスについてよくある質問
ステュクスは何の神様ですか。
冥界を流れる川であり、その川の女神でもあります。大洋の神オケアノスの長女で、名は「憎むべきもの」を意味します。神々の誓いはこの水にかけて立てられました。
ステュクスのローマ名は何ですか。
ローマでも同じくステュクス(Styx)です。名は置き換えられませんでした。冥界の川に、ローマ側の対応する神がいなかったためです。
ステュクスにかけて誓うとどうなるのですか。
偽った神は、一年のあいだ息もつけずに横たわり、そののち九年、神々の集まりから遠ざけられます。合わせて十年です。神は死なないため、時間を奪うことが最大の罰になりました。
ステュクスはなぜ神々の誓いの証人になったのですか。
ティタン神族との十年戦争で、真っ先にゼウスの側についたためです。四人の子(競い・勝利・力・暴力)を連れて駆けつけ、その褒賞として誓いの証人という役目を与えられました。
ステュクス川は実在しますか。
ペロポネソス半島北部の山中にある滝が、古代からこの川と同一視されてきました。現在は「黒い水」を意味する名で呼ばれています。歴史家ヘロドトスは、この水にかけて誓わせようとした事例を記録しています。
アキレウスがステュクスに浸された話は本当ですか。
ホメロスには出てきません。『イリアス』のアキレウスは傷つく体を持つ人間として描かれています。川に浸すという筋が現れるのは紀元後1世紀のローマの叙事詩からで、ホメロスより千年ほど後になります。
ステュクスの子供は誰ですか。
ゼロス(競い)、ニケ(勝利)、クラトス(力)、ビア(暴力)の四柱です。ティタン神族との戦争で母とともにゼウスの側につき、以後ゼウスのそばを離れませんでした。
ステュクスと併せて覚えたい言葉・用語
ステュクス(Στύξ)
冥界を流れる川、およびその女神。神々の最も重い誓いはこの名にかけて立てられ、偽れば一年息ができず九年追放される。
ティタン神族(ティタンしんぞく)
ウラノスとガイアの子である十二柱の神々。クロノスを王とし、ゼウスとの十年戦争に敗れてタルタロスへ落とされた。「タイタン」とも表記する。