トロイアの川。死体で流れを塞がれて怒り、アキレウスに襲いかかった。
スカマンドロスとは何の神様か
スカマンドロスはひとことで言えば戦った川です。
トロイアの平野を流れる川の神。『イリアス』は、この川について珍しい書き方をしています。
人はスカマンドロスと呼び、神々はクサントスと呼ぶ。
人の言葉と神の言葉で名が違うとされた、数少ない存在です。
この神は、神話で神が人間と正面から戦う数少ない場面の主役です。アキレウスがトロイア勢を川へ追い込み、水が死体で詰まったとき、
川は人の声で叫び、渦を巻いて岸を越え、 英雄を追いかけた。
盾も足も役に立たず、アキレウスは流されかけました。英雄がもっとも死に近づいたのは、人間の敵ではなく川が相手のときでした。
助けたのは鍛冶の神ヘファイストスです。平野そのものに火を放ち、水を干上がらせました。
トロイアの人々は、この川に馬を沈めて捧げ物にしたと語られます。
スカマンドロスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Σκάμανδρος。日本語では「スカマンドロス」で定着しています。
この川には、二つの名があります。『イリアス』は、はっきりこう書きました。
人はスカマンドロスと呼び、神々はクサントスと呼ぶ。
ホメロスの詩には、人の言葉と神の言葉で名が違うものがいくつか出てきます。 巨人ブリアレオス、鳥キュミンディス、そしてこの川です。神々の言葉のほうが古く、意味がはっきりしているのが特徴です。
クサントスは「黄金色の」「黄褐色の」を意味します。土を含んで濁った水の色を指すと考えられています。
この神を呼ぶとき、『イリアス』は「ゼウスより生まれた」という形容を添えます。他の河神がオケアノスの子とされるのに対し、この川だけはゼウスの子とされました。トロイアの守り神としての位が、そこに表れています。
現在のトルコ北西部を流れる川が、この川にあたると考えられています。
Σκάμανδρος(スカマンドロス)
古代ギリシャ語の表記。人がこの川を呼ぶときの名として『イリアス』に記される。
Ξάνθος(クサントス)
神々がこの川を呼ぶときの名。「黄金色の」「黄褐色の」を意味し、水の色を指すとされる。
スカマンドロス・ディオゲネス(スカマンドロス・ディオゲネス)
「ゼウスより生まれたスカマンドロス」の意。『イリアス』でこの神を呼ぶときの言い方。
Scamander(スカマンデル)
ローマでの綴り。ラテン語の詩でもトロイアの川として言及される。
スカマンドロスの物語
死体で詰まる ─ 川が怒るまで
『イリアス』第21歌は、戦争の場面のなかでもとりわけ異様な一段です。
親友パトロクロスを討たれたアキレウスは、狂ったように戦い続けていました。トロイア勢を川へ追い込み、水の中で殺し続けます。
水は血に染まり、死体が流れを塞いだ。
さらにアキレウスは、生け捕った十二人の若者を岸に引き上げ、親友の弔いのために殺すと宣言します。
ここで、川が口をききました。
やめてくれ、アキレウス。 私の美しい流れが死体で詰まって、海へ注げない。
はじめは頼んでいます。 川は懇願から入りました。
アキレウスは聞き入れません。それどころか、川から上がってきたトロイアの王子リュカオンを、命乞いを退けて斬り捨てます。
死ね。パトロクロスが死んだのだ。私もいずれ死ぬ。
神話でもっとも冷たい台詞のひとつです。
川は怒りました。渦を巻き、岸を越え、盾を押し、足をすくいます。ここから、人間と川の戦いが始まります。
英雄を追う水 ─ アキレウス最大の危機
岸を越えた水は、アキレウスを追いかけました。
波が肩に打ちかかり、足の下の砂が流された。 木につかまろうとすると、その木ごと岸が崩れた。
英雄は走ります。走っても、水は追ってきます。
神の流れは、どれほど足の速い者よりも速い。
アキレウスは、はじめて弱音を吐きました。
母は、私がトロイアの城壁の下で矢に射られて死ぬと言った。 それなのに私は、豚飼いの子のように川で溺れて死ぬのか。
武勲を立てて死ぬはずが、水に呑まれて終わる。 英雄にとって、これ以上ない不名誉でした。
この場面が『イリアス』で果たしている役割は大きなものです。アキレウスは、人間の誰にも負けません。 ヘクトルにも、アイネイアスにも勝ちます。
それでも、川には勝てませんでした。
人の力の限界を示すために、ホメロスは相手として川を選んでいます。剣で斬れず、走って逃げられない相手です。
助けを求める声を聞いたのは、ヘラでした。
火が水を焼く ─ 神々の戦い
ヘラは、鍛冶の神ヘファイストスを呼びます。
火を放て。私は西風と南風を送る。
ヘファイストスは、まず平野を焼きました。川ではなく、死体の散らばる岸辺です。
死体が焼け、水があふれた野が乾いた。
続いて火は川そのものへ向かいます。
楡も柳も、蓮も葦も燃えた。 うなぎと魚が、渦のなかで苦しんだ。 川の水そのものが、煮え立った。
水が沸騰するという描写です。川の神はついに音を上げました。
やめてくれ。トロイア人がどうなろうと、私はもう構わない。
神と神が正面から戦い、片方が降参する場面は『イリアス』でもここだけです。
ヘラは火を止めさせます。この一段は、続く「神々の戦い」の始まりでもありました。アテナがアレスを石で打ち、ヘラがアルテミスの耳を張るという、やや滑稽な場面へつながっていきます。
神々の争いのなかで、この川と火の戦いだけが真剣に書かれています。
スカマンドロスの家系図と家族
スカマンドロスの性格と人物像
スカマンドロスは、土地の側に立つ神です。
トロイア戦争?で、神々は二手に分かれました。アテナ、ヘラ、ポセイドンはギリシャ側。アポロン、アフロディテ、アレスはトロイア側です。
この川は、迷わずトロイア側に立ちました。理由は単純です。自分がその土地の川だからです。
性格として際立つのは、はじめは頼むことです。
やめてくれ。私の流れが詰まって、海へ注げない。
怒る前に、事情を説明して頼んでいます。神が人間に頼む場面は、ギリシャ神話ではかなり珍しいものです。
聞き入れられなかったとき、はじめて怒りました。そして怒ったときの力は、英雄を殺しかけるほどのものでした。
もうひとつは、降参できることです。火に焼かれ、水が沸騰したとき、この神は即座に折れました。
トロイア人がどうなろうと、もう構わない。
見苦しいと読むこともできます。しかし、川は流れ続けなければならないという事情が、この一言にあります。焼き尽くされれば、この神は消えます。
土地に縛られ、土地とともにあり、土地のために怒り、自分が消えるとなれば退く。河神という存在の性質が、そのまま人格として書かれています。
スカマンドロスゆかりの地と遺跡
スカマンドロスを祀った神殿は確かめられませんでした。 河の神は、建物ではなく川そのものに捧げる形で祀られます。
『イリアス』には、この川への捧げ物の記録があります。
トロイアの人々は、この川に馬を生きたまま沈めた。
牛や馬を川に沈めるのが、河神への祈り方でした。少年が成人するときに髪を切って川に捧げる儀式も、広く行われています。
建物を建てない祀り方であるため、遺構としては残りません。
トロイアの遺跡はトルコ北西部にあり、近代に発見されました。ただし、『イリアス』の川が現在のどの流れにあたるかについては、古代から議論が続いています。 平野の地形は、長い年月のあいだに大きく変わりました。
現在この川にあたるとされる流れは、トルコ北西部を流れています。神の名が現代の地名として残っている例のひとつです。
スカマンドロスが現代に残した痕跡
スカマンドロスの名は、現代の地名と文学の主題として残りました。
現在のトルコ北西部の川: トロイアの遺跡の近くを流れる川が、この神の川にあたると考えられている。
人の言葉と神の言葉: 同じものに人と神で別の名があるという『イリアス』の書き方は、言語をめぐる議論で繰り返し引かれてきた。
火と水の戦いの図像: 鍛冶の神が川を焼く場面は、古代の壺絵や近世の版画に描かれた主題である。
文学者の集まりの名: 二十世紀のポーランドで、この川の名を冠した詩人の一団があった。
スカマンドロスが司るもの
川と水の守り
トロイアの平野を流れる川の神。土地に結びついた神格である。
土地を守ること
トロイア側に立ち、自分の土地を荒らす者に立ち向かった。
戦の守り
『イリアス』で人間と正面から戦った数少ない神である。
通過儀礼
トロイアの人々は、この川に馬を沈めて捧げ物にしたと語られる。
清め
古代ギリシャでは、川の水は身を清めるために用いられた。
スカマンドロスについてよくある質問
スカマンドロスはどんな神ですか。
トロイアの平野を流れる川の神です。『イリアス』では、人はスカマンドロスと呼び、神々はクサントスと呼ぶと書かれます。トロイア側に立ち、アキレウスと戦いました。
なぜアキレウスと戦ったのですか。
アキレウスがトロイア勢を川へ追い込んで殺し続けたため、水が死体で詰まって海へ注げなくなったからです。はじめは止めるよう頼みましたが、聞き入れられずに怒り、岸を越えて追いかけました。
アキレウスは勝ったのですか。
勝っていません。走っても追いつかれ、溺れかけました。助けたのは鍛冶の神ヘファイストスで、平野に火を放ち、川の水を沸騰させて退かせています。
クサントスとは何ですか。
同じ川を神々が呼ぶときの名です。「黄金色の」「黄褐色の」を意味し、土を含んで濁った水の色を指すと考えられています。人の言葉と神の言葉で名が違うものは、ホメロスの詩にいくつか出てきます。
スカマンドロスを祀った神殿はありますか。
確かめられませんでした。河の神は建物を建てず、川そのものに捧げます。『イリアス』には、トロイアの人々が馬を生きたまま川に沈めたという記録があります。
スカマンドロスと併せて覚えたい言葉・用語
トロイア戦争(トロイアせんそう)
ギリシャ軍とトロイアの十年に及ぶ戦争。パリスがスパルタ王妃ヘレネを連れ去ったことから始まった。ホメロス『イリアス』はその十年目を描く。