歌で船人を惑わす海の魔物。誘いの中身は美声ではなく「知識」だった。
セイレーンとは何の神様か
セイレーンはひとことで言えば知りたさという罠です。
海の岩場から歌い、通りかかった船をおびき寄せます。近づいた者は骨と皮になって積み上がりました。
ホメロスの原典では二人です。三姉妹になるのも、人魚の姿になるのも後世の話で、古代の壺絵や墓の彫刻では鳥の体に女の顔をしています。
決定的なのは、誘いの文句です。
こちらへ来なさい、名高いオデュッセウスよ。 私たちはトロイアで起きたすべてを知っている。 この豊かな大地で起きることは、みな知っている。
誘っているのは、色でも音楽でもありません。すべてを知りたいという欲です。
オデュッセウスは部下の耳を蜜蝋でふさぎ、自分だけを帆柱に縛らせて聞き通しました。縄を解けと叫び続けたと書かれています。
名は、危険を告げる警報器の語として現代に残りました。
セイレーンのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Σειρῆνες。単数形はセイレンです。日本語では複数形の音に近い「セイレーン」で定着しています。
語源は定まっていません。「縛るもの」を意味する語と結び付ける説があり、聞いた者を縛りつける歌という性格に合います。ただし確定はしていません。
この名からは、いくつもの言葉が枝分かれしました。
ひとつは、人魚です。ラテン語を経て、フランス語・スペイン語・イタリア語などで、この語がそのまま人魚を意味するようになりました。もとは鳥だったものが、言葉のうえでは魚になっています。
もうひとつは、警報器です。十九世紀のフランスで、円盤に穴を開けて回し、音を出す装置が作られました。その装置にこの神話の名が与えられ、のちに危険を知らせる装置一般を指す語になります。
歌で人を招く声が、人を退けるための音に変わりました。
さらに、危うい魅力を持つ人を指す言葉としても使われます。
Σειρῆνες(セイレネス)
古代ギリシャ語の複数形の表記。単数形はセイレン。語源は定まっておらず、「縛るもの」を意味する語と結び付ける説がある。
セイレン(セイレン)
単数形。日本語では複数形の音に近い「セイレーン」が定着している。
Sirena(シレナ)
ラテン語の綴り。この語から、ロマンス諸語で人魚を意味する語が生まれた。
パルテノペ(パルテノペ)
後世に三姉妹とされたときの一柱の名。遺体が流れ着いた岸に町ができ、その古い名になったと伝えられる。
セイレーンの物語
知識で誘う ─ オデュッセイア第12歌
『オデュッセイア』第12歌に、この場面があります。
キルケーは、あらかじめ通り方を教えていました。
はじめにセイレーンに出会う。 近づく者を、みな惑わす者たちである。 その声を聞いた者は、家へ帰れない。
岸には骨が山と積まれ、皮が縮んで乾いている。
対処法も具体的です。部下の耳に蜜蝋を詰めること。自分だけが聞きたいなら、帆柱に立てて縛らせること。縄を解けと言い出したら、さらに縛れとまで指示しています。
風が止み、海が凪ぎました。船が近づくと、歌が始まります。
ここが、この物語の核心です。 歌の中身が書かれています。
こちらへ来なさい、名高いオデュッセウスよ、アカイア勢の大いなる誉れよ。 船を止めて、私たちの声を聞きなさい。 私たちはトロイアで神々がもたらしたすべての苦しみを知っている。 この豊かな大地で起きることは、すべて知っている。
美しい声とも、愛とも、宝とも言っていません。「知っている」とだけ言っています。
オデュッセウスは、心を奪われました。眉で合図し、解けと命じます。部下はさらに強く縛りました。
知りたい欲だけで、英雄は死にかけています。
二人か三人か ─ 数と姿の変わり方
セイレーンの姿は、時代とともに大きく変わりました。
ホメロスは、姿を書いていません。 声だけです。数は、二人であることが文法から分かります。ギリシャ語には二つのものを指す専用の形があり、そこが使われています。
古代の美術では、鳥の体に女の頭として描かれます。翼があり、脚に鉤爪があり、しばしば竪琴や笛を持っています。
墓石の上に立ち、竪琴を弾く鳥女。
古代ギリシャの墓には、この姿の像がよく置かれました。 死者を悼んで歌う存在、あるいは魂を運ぶ存在と考えられていたためです。船乗りを食う怪物と、墓を守る歌い手が、同じ姿をしています。
数が三人になるのは、後の時代です。名も伝わります。パルテノペ、レウコシア、リギア。楽器の受け持ちを分けて、竪琴・笛・歌とする書き方も現れました。
親も後から加わります。父は河神アケロオス、母はムーサの一柱メルポメネあるいはテルプシコラ、とされました。歌の女神の血を引くという説明です。
なぜ鳥の姿なのか。ペルセポネがさらわれたとき、探しに行けるよう翼を得た、という話が伝わります。あるいは、探しきれなかった罰として鳥に変えられたとも語られます。
鳥から魚へ ─ 人魚になった経緯
現在、多くの人がセイレーンと聞いて思い浮かべるのは人魚です。しかし、これは中世以降の姿です。
変化の過程は、はっきりとは分かっていません。有力なのは、中世ヨーロッパの動物寓話集を通じて、鳥の姿と魚の姿が混ざったという見方です。
中世の写本には、上半身が女で下半身が鳥の図と、上半身が女で下半身が魚の図が、同じ名前のもとに並んで描かれています。しばらくのあいだ、両方が並存していました。
やがて魚のほうが優勢になります。
海の危険を語る話に、鳥より魚のほうが似合った。
言葉のうえでは、完全に置き換わりました。フランス語・スペイン語・イタリア語などで、この語は人魚を意味します。
もとの姿を保っているのは、英語圏と日本語くらいです。 日本語で「セイレーン」と言うと鳥女を指し、「マーメイド」と言うと魚の人魚を指す、という使い分けが一応あります。
二本の尾を持つ人魚を商標に使う珈琲店があり、その図はこの流れを引いています。鳥が魚になり、魚が看板になりました。
古代の鳥女の姿は、いまは美術館の壺絵のなかにだけ残っています。
警報になる ─ 名が音の名になるまで
セイレーンの名は、現代では警報器を指します。救急車、消防車、空襲警報。すべてこの名です。
経緯は、たどることができます。
十九世紀のフランスで、円盤に穴を並べて高速で回し、空気を断続させて音を出す装置が作られました。水中でも音が伝わることから、この神話の名が与えられたと伝えられます。
その後、この仕組みが大きな音を遠くまで届ける道具として実用化されました。灯台、船、工場、そして警報。
歌で人を招いた声が、人を遠ざけるための音になりました。 由来と用途が正反対になっています。
もうひとつ、この名は人を指す言葉としても残りました。危うい魅力を持ち、破滅へ引き込む存在を指します。
「セイレーンの歌」という言い回しは、耳ざわりのよい誘いを指す決まり文句です。政治や経済の議論でも使われます。
生物学では、海牛目という分類名にこの語が使われました。ジュゴンやマナティが属する仲間です。船乗りが人魚と見間違えたという言い伝えから名づけられています。
神話の怪物の名が、これほど多方向に散った例は多くありません。 音、魅力、生き物、そして警告。すべてが「近づいてはいけないもの」を指しています。
セイレーンの家系図と家族
セイレーンのきょうだい: スキュラともに帰路をふさぐ難所として並べられる
セイレーンの性格と人物像
セイレーンには、性格がほとんど書かれていません。
ホメロスが記したのは、居場所と、歌の中身と、その結果だけです。姿の描写すらありません。動かず、追わず、ただ歌って待っている存在です。
この「動かなさ」が、実は重要です。
スキュラは首を伸ばして人をさらいます。カリュブディスは海ごと呑み込みます。セイレーンは、何もしません。 近づくかどうかは、聞いた側が決めます。
罠は、自分から入るものだった。
性格として読み取れる唯一のことは、何を差し出せば人が来るかを知っているという点です。
オデュッセウスへの誘いは、彼の名を呼び、彼の誉れを称え、そのうえで「トロイアのすべてを知っている」と告げます。相手に合わせた文句です。
知恵者として名高い男に、知識を差し出す。この一点だけで、英雄は正気を失いました。
後世の伝えでは、この存在にも終わりが来ます。オルフェウスの竪琴に歌を打ち消され、あるいはオデュッセウスに通過され、海に身を投げたとされます。
誰も止められなかった歌が、通り過ぎられた。
存在理由が、一度の失敗で消えます。 誘えないセイレーンには、何も残りません。
流れ着いたパルテノペの遺体を葬った岸に町ができ、その古い名になったと伝えられます。
セイレーンゆかりの地と遺跡
セイレーンを祀った神殿はありません。 船人を惑わす存在であり、助けを求める相手ではないからです。
ただし、まったく祀られなかったわけではないという記録が残っています。
古代の地理書は、イタリア半島の西岸に、三姉妹の一柱パルテノペの墓があったと伝えます。遺体が流れ着いた岸に町が築かれ、その古い名になったとも語られます。この墓では、競走を伴う祭りが行われていたとされます。
もうひとつ、古代の墓に置かれた鳥女の像があります。竪琴を弾き、死者を悼む姿です。これは怪物としての祀りではなく、葬りの飾りとして作られました。
船乗りを食う存在と、墓を守る歌い手が、同じ姿をしている。 この二面性が、この存在をとらえにくくしています。
伝承の舞台は、イタリア半島の南西の海とされてきました。ただし、ホメロスが実在の海域を指して書いたという確実な証拠はありません。
セイレーンが現代に残した痕跡
セイレーンの名は、警報器・人魚・生物の分類として現代に残りました。
警報器を指す語: 十九世紀のフランスで作られた発音装置にこの名が与えられ、のちに危険を知らせる装置一般を指す語になった。救急車や消防車の音がこれにあたる。
ロマンス諸語の「人魚」: フランス語・スペイン語・イタリア語などで、この語がそのまま人魚を意味する。もとは鳥だったものが、言葉のうえでは魚になった。
海牛目という分類名: ジュゴンやマナティが属する仲間の分類名に、この語が使われている。船乗りが人魚と見間違えたという言い伝えによる。
「セイレーンの歌」という言い回し: 耳ざわりのよい誘いを指す決まり文句。政治や経済の議論でも使われる。
墓に置かれた鳥女の像: 竪琴を弾き死者を悼む姿の像が、古代ギリシャの墓に数多く置かれた。船人を食う怪物と同じ姿である。
セイレーンが司るもの
祈願の対象ではありません
船人を惑わす存在であり、祈って助けを求める相手ではない。
警戒
名が警報器を指す語になった。近づいてはならないものを告げる働きに転じている。
詩と歌
後世に父を河神、母をムーサの一柱とされ、歌の血筋に置かれた。
魂の導き
古代の墓には竪琴を弾く鳥女の像が置かれ、死者を悼む存在とされた。
知識
誘いの文句は「すべてを知っている」であり、知りたい欲を狙う存在だった。
セイレーンが登場するゲーム・アニメ
創作で扱われるとき、姿はほぼ人魚型です。原典の鳥の姿が採られる例は、ごく少数にとどまります。
歌の中身も、たいてい省かれます。「美しい歌声で惑わす」で済まされるのが通例です。
しかし原典で語られているのは、美声ではありません。「あなたの知りたいことを、私たちは知っている」という誘いです。知恵者ほど引っかかる罠として設計されています。
この一点を描いた作品は多くありません。もっとも面白い部分が、もっとも省かれている存在だと言えます。
セイレーンが登場する絵画・彫刻
ウォーターハウス「オデュッセウスとセイレーン」
1891年の作。船を取り囲む鳥の姿のセイレーンを描いており、古代の図像に忠実な数少ない近代絵画です。
古代の壺絵と墓石の像
帆柱に縛られたオデュッセウスと、岩の上の鳥女という構図が繰り返し描かれました。竪琴を弾く姿の像は墓に置かれました。
セイレーンが登場する文学・音楽
アポロニオス『アルゴナウティカ』第4巻
オルフェウスが竪琴を鳴らして歌をかき消し、船を通過させます。ただし一人だけ海に飛び込みました。
近代の詩と歌劇
抗いがたい誘いの象徴として、繰り返し主題に選ばれてきました。
セイレーンが登場するゲーム・創作
海の敵役としての登場
歌で相手を操る能力を持つ敵として、多くの作品に登場します。姿は人魚型が主流です。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
セイレーンについてよくある質問
セイレーンとは何ですか。
海の岩場から歌い、通りかかった船をおびき寄せる存在です。ホメロスの原典では二人で、姿は書かれていません。古代の美術では鳥の体に女の顔として描かれました。
セイレーンは何人いるのですか。
ホメロスの原典では二人です。ギリシャ語の二つのものを指す文法の形が使われているため、そう分かります。三姉妹とされ、パルテノペ・レウコシア・リギアという名が伝わるのは後の時代です。
セイレーンは人魚ですか。
もとは鳥です。上半身が女、下半身が鳥の姿で描かれていました。人魚になるのは中世以降で、動物寓話集を通じて鳥と魚の姿が混ざったと考えられています。フランス語やイタリア語では、この語がそのまま人魚を意味します。
オデュッセウスはどうやって通り抜けたのですか。
キルケーの助言に従い、部下の耳を蜜蝋でふさぎ、自分は帆柱に縛らせました。歌を聞いて縄を解けと叫びましたが、部下は耳が聞こえないためさらに強く縛り、船は通過しました。
セイレーンは何と歌ったのですか。
「私たちはトロイアで起きたすべてを知っている。この大地で起きることはみな知っている」と歌いました。美しい声や愛ではなく、すべてを知りたいという欲を狙った誘いです。
救急車のサイレンと関係がありますか。
あります。十九世紀のフランスで、円盤を回して音を出す装置にこの神話の名が与えられ、のちに危険を知らせる装置一般を指す語になりました。人を招いた歌が、人を遠ざける音に変わったことになります。