踊りの輪を楽しむムーサ。座って竪琴を弾き、舞に拍を送る。
テルプシコレとは何の神様か
テルプシコレはひとことで言えば踊りを楽しむ女神です。名がそのまま、その意味になっています。
後世の整理では舞踊を受け持ちます。ところが図像を見ると、この女神はたいてい踊っていません。 腰かけて竪琴を鳴らし、踊る者に拍を送る側に立っています。
舞う者ではなく、舞わせる者。
この分担はローマ時代以降のもので、ヘシオドスの段階では九柱はまとめて歌う一団でした。
名に含まれる「コロス」は、歌いながら輪になって踊る一団を指す語です。合唱隊を意味する現代の語は、この語からまっすぐ続いています。
テルプシコレのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Τερψιχόρη。日本語では「テルプシコレ」「テルプシコレ」「テルプシコレー」と、揺れの大きい名前です。
名は二つの語からできています。前半は「楽しむ」「喜ばせる」。これは笛の女神エウテルペの名にも入っている語です。後半の「コロス」が、この女神を他と分けています。
コロスは、歌と踊りが一体になった集団を指しました。輪になって足を踏み、同時に歌う。詩と音楽と舞踊が分かれていなかったギリシャの姿が、この一語に残っています。
歌わない踊りも、踊らない歌も、当時は普通ではなかった。
合唱隊を意味する現代の語は、このコロスからそのまま来ています。 今は歌うだけの集団を指しますが、もとは踊る集団でした。
舞踊を意味する現代の学術語のいくつかにも、この女神の名が使われています。
Τερψιχόρη(テルプシコレ)
古代ギリシャ語の表記。「楽しむ」を意味する語と「踊りの輪」を意味する語を合わせた名。
テルプシコレー(テルプシコレー)
長音を残した学術的な表記。事典類ではこの形が多い。
テルプシコレ(テルプシコレ)
長音を落とした別の日本語表記。既存の資料では両方が使われている。
テルプシコーラ(テルプシコーラ)
舞踊史の書物で用いられる表記。
テルプシコレの物語
座って拍を送る ─ 踊らない舞踊の女神
テルプシコレの図像には、はっきりした特徴があります。この女神は、ほとんど踊りません。
座って竪琴を構え、あるいは立って弦を弾く。視線は手もとではなく、前を向いています。
舞うのは人間。 拍を出すのが女神。
この配置は、ギリシャの合唱隊の実際をそのまま写しています。合唱隊は輪になって踊りながら歌い、その脇で楽器を鳴らす者が拍を出しました。踊る集団の中心にいるのは、動かない人でした。
舞踊は、ギリシャで独立した芸ではありませんでした。祭りの行列、悲劇の合唱、婚礼、戦の前の武装舞踊。どれも別の目的の一部として踊られます。見せるための踊りという発想は薄いのです。
だから、この女神に与えられた仕事も「踊ること」ではなく「踊りを成り立たせること」でした。持ち物が楽器なのは、そのためです。
動く者ではなく、動きを作る者。 九柱のなかで、この女神の姿がいちばん誤解されやすい理由がここにあります。
揺れる分担 ─ 誰がセイレーンの母か
セイレーンの母を誰とするかは、原典によって割れています。
アポロドーロスはメルポメネと書きます。一方、アルゴ船の航海を歌った詩人アポロニオスは、テルプシコレを母としています。父はどちらも河神アケロオスです。
歌う怪物の母は、歌の女神か、踊りの女神か。
決め手はありません。古代の書き手も、どちらかに統一しようとはしませんでした。
こうした揺れは、テルプシコレに限りません。九柱の担当そのものが、書物によって食い違います。この女神は舞踊とされることが多い一方、抒情詩や笛を割り当てる系統も伝わっています。
理由ははっきりしています。もともと分担が無かったからです。 ヘシオドスは九つの名を並べただけでした。後の時代が、名前の意味を手がかりに役割を割り振ったのです。
テルプシコレの名には「踊りの輪」が入っています。だから舞踊になりました。名前が根拠なのですから、名前の読み方が変われば担当も変わります。 揺れているのは当然でした。
なぜ記録が少ないのか ─ 集団で祀られた神々
テルプシコレには、単独の物語がほとんどありません。恋も、怒りも、罰も、この女神ひとりの行いとしては伝わっていません。
理由は、祀られ方にあります。
ムーサ?は、九柱そろって祀られる神々でした。聖域には九柱の像が並び、祭りでは九柱に呼びかけられます。一柱ずつに祭壇を立てる形は、古代の記録にほとんど見られません。
神話が個別の物語を生むのは、たいてい個別に祈られたときです。祈る人がいれば、その神に固有の性格が求められます。逆に、集団としてしか祈られない神には、固有の物語が育ちません。
名前は九つある。 事件は一つもない。
この状態は、ムーサ九柱に共通しています。単独の物語を持つのは、オルフェウスの母とされるカリオペくらいです。
それでも、この女神たちは消えませんでした。分担と持ち物という形で、名前だけが生き延びたからです。図像が名前を運び、名前が学問と芸術の分類になり、いまも劇場と学会の看板に残っています。
物語が無いことと、忘れられたことは別です。
テルプシコレの家系図と家族
テルプシコレの子・子孫: セイレーンセイレーンの母をこの女神とする別の伝えもある
テルプシコレの性格と人物像
テルプシコレの性格を、原典から読み取るのは難しい仕事です。材料が名前と図像しかありません。
しかしその二つは、はっきりした方向を指しています。名は「踊りの輪を楽しむ者」。姿は、座って拍を送る者。
楽しむ主体でありながら、自分は動かない。 この組み合わせは、他の八柱には見られません。
悲劇のメルポメネは受け止める神、喜劇のタレイアは放つ神、歴史のクレイオは残す神です。テルプシコレは、そのどれとも違います。他人が動くのを見て、そこに喜びを感じる神です。
祭りの場面を思い浮かべると分かりやすいと思います。踊っている人と、その脇で手を打っている人。どちらも楽しんでいますが、楽しみ方が違います。
もう一つ、この女神には争った記録がありません。 挑まれても、罰したのは九柱そろってのことでした。セイレーンの母とされる伝えでも、娘たちが姉妹に敗れる場面に姿を見せません。
表に出ない神です。 拍を出す人が舞台の中央に立たないのと同じで、この女神は自分の物語を持たないことで、役目を果たしているように見えます。
テルプシコレを祀った神殿と遺跡
テルプシコレひとりを祀った神殿は確かめられませんでした。 ムーサは九柱そろって祀られるのが古代の形で、個別の祭壇はほとんど記録がありません。
代表となるのが、ボイオティア地方ヘリコン山麓のムーサの谷です。祭壇・劇場・柱廊の跡が残ります。
踊りそのものは、特定の神殿に閉じたものではありませんでした。 祭りの行列でも、婚礼でも、戦の前でも踊られ、その都度ちがう神に捧げられています。
ギリシャ各地に他のムーサの聖所も伝わりますが、位置を確定できる資料は見つかりませんでした。
ムーサの聖域(ムーサのせいいき)
ヘシオドスが歌ったムーサ九柱の聖域
ヘリコン山の北側の谷にある聖域です。九柱はここでまとめて祀られました。
聖域には劇場があり、数年ごとに詩と音楽の競技が開かれたとパウサニアスは記します。合唱隊の競演も、この種の祭りの定番でした。
テルプシコレひとりを祀った祭壇は、この聖域にも伝わっていません。
古代の町テスピアイの跡が近くにある。
テルプシコレが現代に残した痕跡
テルプシコレの名は、舞踊を指す言葉として現代に残りました。
舞踊を意味する形容の語: この女神の名から作られた形容詞が、英語やフランス語で「舞踊の」を意味する語として使われる。
合唱隊を意味する語: 名に含まれる「コロス」は、輪になって歌い踊る集団を指した。現代語の合唱隊はこの語から出ている。
小惑星テルプシコレ: 1864年に発見された小惑星81番の名。
ヘロドトスの巻の名: 『歴史』全九巻に付けられたムーサの名のうち、第五巻がこの女神の名を負う。
テルプシコレが司るもの
舞踊
名に「踊りの輪」を意味する語が入っている。ギリシャの踊りは歌と一体だった。
踊り
祭りの行列、悲劇の合唱、婚礼、戦の前の武装舞踊まで、すべてが踊りの場だった。
音楽
図像では竪琴を持ち、踊る者に拍を送る姿で描かれる。
技芸上達
合唱隊は市民が交代で務め、歌と踊りの稽古が公の行事として行われた。
テルプシコレが登場するゲーム・アニメ
テルプシコレは、名前が普通名詞に近い使われ方をした女神です。 「舞踊の」という意味の形容詞として、いまも辞書に載っています。
人物としての登場はまれです。原典に事件が無いため、借りられるのは名前と持ち物だけでした。
テルプシコレが登場する絵画・彫刻
ローマ時代のムーサ像群
竪琴を構えた立像または座像として、九柱そろいの彫刻群に置かれます。踊っていないため、恋愛詩のエラトと見分けにくい像もあります。
バレエ作品の主題
舞踊を主題にした作品で、この女神の名が題や役名に使われてきました。
テルプシコレが登場する舞踊・創作
舞踊団・舞踊学校の名
ヨーロッパ各地の舞踊団や稽古場に、この女神の名が付けられています。
セイレーンを扱う作品
母をこの女神とする系統の伝えが引かれることがあります。
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テルプシコレについてよくある質問
テルプシコレはどんな神ですか。
ムーサ九柱の一柱で、ゼウスと記憶の女神ムネモシュネの娘です。名は「踊りの輪を楽しむ者」を意味し、後世の整理では舞踊を受け持つとされます。
なぜ舞踊の女神なのに踊っていないのですか。
ギリシャの合唱隊では、踊る集団の脇で楽器を鳴らして拍を出す者がいました。この女神はその位置に描かれます。舞う者ではなく、舞わせる者として造形されたのです。
セイレーンの母はテルプシコレですか。
そう伝える系統があります。アポロニオスは母をテルプシコレとし、アポロドーロスはメルポメネとしています。原典は割れています。
合唱隊を意味する語と関係がありますか。
あります。名の後半にある「コロス」が、そのまま現代語の合唱隊の語源です。もとは輪になって歌いながら踊る集団を指しました。
テルプシコレを祀った神殿はありますか。
この女神ひとりを祀った神殿は確かめられませんでした。九柱そろってのムーサの聖域で祀られ、ボイオティア地方ヘリコン山麓のムーサの谷にその跡が残ります。
テルプシコレと併せて覚えたい言葉・用語
ムーサ(Μοῦσαι)
学問と芸術を司る九人の女神。英語ではミューズ。museum(ムーサの神域)と music(ムーサの技)の語源。