恋の詩を司るムーサ。名はエロスと同じ語根から出ている。
エラトとは何の神様か
エラトはひとことで言えば愛される名を持つ女神です。
ゼウスと記憶の女神ムネモシュネの娘で、九柱のムーサの一柱。名は「愛される女」を意味し、愛の神エロスと同じ語根を持ちます。
後世の整理では恋愛詩を受け持ち、小ぶりの竪琴と、ミルテや薔薇の冠を添えて描かれます。この分担はローマ時代以降のもので、ヘシオドスの段階では九柱はまとめて歌う一団でした。
九柱のなかで、名前がそのまま受け持ちを言い当てている数少ない一柱です。 担当が名前から割り振られたことを、この女神ほどはっきり示す例はありません。
アルゴ船の航海を歌ったアポロニオスは、王女メデイアの恋を語る第三巻の冒頭で、九柱ではなくこの女神ひとりに呼びかけて歌い出します。
さあエラトよ、そばに立って語ってください。
巻ごとに呼ぶ相手を選ぶ、後代の詩人らしい書き方です。
エラトのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἐρατώ。日本語では「エラト」または「エラトー」と書きます。
名の元にあるのは、愛するを意味する動詞です。この動詞から作られた名詞がエロスで、そのまま愛の神の名になりました。
エラトはその形容詞形を女性名にしたもので、「愛される女」「望ましい女」と読めます。愛する側ではなく、愛される側の名です。
ギリシャ語には愛を表す言葉がいくつもあります。エロスは惹きつけられて我を失うほうの愛を指し、家族の情愛や友情とは区別されました。恋愛詩が扱うのも、この種類の愛です。
恋は病であり、神の仕業だと考えられた。
もう一つ注意したいのが、アルカディア地方に同名のニンフ?が伝わることです。牧神の託宣を告げた巫女とされ、ムーサ?のエラトとは別の存在です。パウサニアスが書き残しています。
Ἐρατώ(エラト)
古代ギリシャ語の表記。「愛される」「望ましい」を意味する形容詞から作られた名。
エラトー(エラトー)
長音を残した学術的な表記。
エラート(エラート)
長音の位置を変えた別の表記。事典によって揺れる。
エラト(アルカディアのニンフ)(エラト)
アルカディア地方に同名のニンフが伝わり、牧神の託宣を告げたとされる。ムーサとは別の存在である。
エラトの物語
第三巻の女神 ─ 恋の巻だけ呼ぶ相手を変える
叙事詩は、ムーサへの呼びかけで始まります。『イリアス』も『オデュッセイア』も、冒頭の一行で女神に語ってくれと頼みます。
ところが後代の詩人は、この形式を細かく使い分けるようになりました。
アポロニオスの『アルゴナウティカ』は、アルゴ船の航海を四巻に分けて歌います。その第三巻、コルキスの王女メデイアがイアソンに恋してしまう巻の冒頭で、詩人はこう呼びかけます。
さあ、エラトよ、私のそばに立って語ってください。 娘の恋がどうしてイアソンを救ったのかを。
巻の中身に合わせて、呼ぶ女神を選んでいます。 これは、九柱の分担が意識され始めたことを示す早い例とされます。
続けて詩人は理由を述べます。この女神はアフロディテの領分を分け持ち、恋を歌う者に力を貸すのだと。
分担の一覧が固まる前に、詩の実作のなかで役割が試されていたことが分かる場面です。表は後から作られましたが、その材料は詩人たちの用例から集められました。
恋愛詩とは何だったか ─ 竪琴で歌われた私事
エラトが受け持つとされる恋愛詩は、叙事詩とは形も場もまったく違います。
叙事詩は英雄の物語を長々と語り、宴や祭りで大勢に聞かせるものでした。恋愛詩は短く、竪琴の伴奏で歌われ、聞き手ももっと小さな集まりでした。
私は誰それを恋している。 相手はこちらを見ない。 体が震え、汗が流れ、声が出ない。
こうした一人称の歌が、紀元前七世紀ごろから盛んになります。レスボス島のサッポー、テオスのアナクレオンが代表とされます。
ここで起きたことは大きな転換でした。歌の主語が、英雄から私になったのです。
ギリシャ人は、恋を外から襲ってくるものと考えました。だから恋の詩は、自分の気持ちを表現するというより、身に起きた出来事の報告に近い形をとります。
この考え方は、九柱の配置とも合っています。 詩は詩人が作るのではなく、女神が語らせるもの。恋も、恋する人が起こすのではなく、神がもたらすもの。どちらも、当人は受け取る側に置かれています。
アルカディアのエラト ─ 同名のニンフとの混同
エラトの名は、ムーサだけのものではありません。アルカディア地方に、同じ名のニンフが伝わります。
パウサニアスによれば、このエラトは牧神の託宣を告げる役を務め、アルカディアの初期の王家に嫁ぎました。山中の聖所で神の言葉を人に伝えた、という伝えです。
山の神の言葉を、人の言葉に直す者。
ムーサのエラトと、この巫女のエラト。同じ名で、どちらも「神の言葉を人に届ける」働きをしています。 そのため古代の書き手のあいだでも、しばしば取り違えられました。
名前の重なりは、ギリシャ神話では珍しくありません。神の名の多くが普通の単語だったからです。「愛される女」という言い方は、名前として自然に何度も生まれます。
この図鑑では、アルカディアのエラトは独立した記事にせず、ここで触れるにとどめています。 伝わる事績が短く、ムーサとの区別を示すことのほうが読者の役に立つと考えたためです。
見分ける手がかりは場所です。ヘリコン山の九柱ならムーサ、アルカディアの山の託宣ならニンフです。
エラトの家系図と家族
エラトの性格と人物像
エラトには、恋をした記録がありません。
恋愛詩を受け持つ女神でありながら、自分が誰かに恋した話も、誰かに恋された話も原典に見当たりません。名前だけが愛を語り、事績は空白のままです。
これは、九柱に共通する特徴でもあります。ムーサたちは集団として祀られ、集団として語られました。個別の物語が育つ余地が少なかったのです。
それでも、この女神には他と違う一点があります。呼びかけられ方です。
アポロニオスは第三巻の冒頭で、この女神に「そばに立ってください」と頼みます。九柱そろってではなく、一柱に向かって、恋の話をするために。
恋を語るときだけ、呼ぶ相手が変わる。
恋は、他の話題と同じようには語れない。 そう考えられていたことになります。戦も航海も九柱に頼めばよいが、恋にはこの女神が要る。
図像でも、この女神は少し違います。九柱のうちで、冠に花を用いる例がとくに多いのがエラトです。ミルテはアフロディテの木、薔薇も同じ女神の花です。
ムーサでありながら、愛の女神の側へ半歩踏み出している。 性格として語れるのは、この位置取りだけです。
エラトを祀った神殿と遺跡
エラトひとりを祀った神殿は確かめられませんでした。 ムーサは九柱そろって祀られるのが古代の形です。
代表となるのが、ボイオティア地方ヘリコン山麓のムーサの谷で、祭壇・劇場・柱廊の跡が残ります。
もう一つ、アルカディア地方に同名のニンフの伝承地があったとパウサニアスは書いていますが、これはムーサのエラトではありません。その位置を確定できる資料も見つかりませんでした。
恋の願いが持ち込まれたのは、ムーサの聖域ではなくアフロディテの神域でした。この女神と恋の結びつきは、祭祀ではなく詩と図像のなかで育ったものです。
ムーサの聖域(ムーサのせいいき)
ヘシオドスが歌ったムーサ九柱の聖域
ヘリコン山の北側の谷にある聖域です。九柱はここでまとめて祀られました。
パウサニアスは、聖域に並んでいた像や、数年ごとに開かれた詩と音楽の競技について記しています。竪琴に合わせて歌う短い詩の競演も、この種の祭りの演目でした。
エラトひとりを祀った祭壇は、この聖域にも伝わっていません。
古代の町テスピアイの跡が近くにある。
エラトが現代に残した痕跡
エラトの名は、恋の詩を指す言葉として現代に残りました。
愛を表す語との共通の根: 名は愛の神エロスと同じ語根を持つ。恋愛に関する現代の学術語の多くが、この語から派生している。
小惑星エラト: 1860年に発見された小惑星62番の名。
竪琴と花冠の女性像: 小ぶりの竪琴を抱え、ミルテか薔薇の冠をかぶった女性像は、恋愛詩の寓意としてこの女神を表す。
ヘロドトスの巻の名: 『歴史』全九巻に付けられたムーサの名のうち、第六巻がこの女神の名を負う。
エラトが司るもの
恋愛
恋愛詩を受け持つとされる。名も愛の神エロスと同じ語根から出ている。
恋愛成就
アポロニオスは、恋を歌う者に力を貸す女神としてこの一柱を呼んだ。
詩
竪琴の伴奏で歌う短い抒情詩が、この女神の領分とされた。
愛
ギリシャ人は恋を外から襲ってくるものと考えた。歌はその報告に近い形をとる。
エラトが登場するゲーム・アニメ
エラトが登場人物として動く創作は、ほとんどありません。 原典に事件が無く、性格の描写も残っていないためです。
使われるのは名前と、竪琴に花冠という組み合わせです。恋の詩を象徴する図案として、詩集の口絵や壁画に繰り返し置かれてきました。
エラトが登場する絵画・彫刻
ローマ時代のムーサ像群
小ぶりの竪琴を持つ立像として、九柱そろいの彫刻群に置かれます。同じく竪琴を持つテルプシコレと見分けにくい像もあります。
近世の寓意画
詩の種類を女性像で表す絵では、花冠と竪琴の組み合わせが恋愛詩を意味しました。
エラトが登場する文学
アポロニオス『アルゴナウティカ』第三巻
メデイアの恋を語る巻の冒頭で、この女神ひとりに呼びかけて歌い出します。
恋愛詩集の献辞
近世以降の詩集で、書き出しにこの女神へ呼びかける形式が使われました。
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エラトについてよくある質問
エラトはどんな神ですか。
ムーサ九柱の一柱で、ゼウスと記憶の女神ムネモシュネの娘です。名は「愛される女」を意味し、後世の整理では恋愛詩を受け持つとされます。
エラトとエロスは関係がありますか。
名の語根が同じです。どちらも「愛する」を意味する動詞から作られています。ただし系譜のうえでの親子や兄弟の関係はありません。
エラトはどの作品に呼びかけられていますか。
アポロニオスの『アルゴナウティカ』第三巻です。王女メデイアの恋を語る巻の冒頭で、九柱ではなくこの女神ひとりに呼びかけて歌い出しています。
アルカディアのエラトとは別の神ですか。
別です。牧神の託宣を告げたとパウサニアスが伝えるニンフで、ムーサのエラトとは系譜も伝承地も違います。名前の重なりによる混同が古代からありました。
エラトを祀った神殿はありますか。
この女神ひとりを祀った神殿は確かめられませんでした。九柱そろってのムーサの聖域で祀られ、ボイオティア地方ヘリコン山麓のムーサの谷にその跡が残ります。
エラトと併せて覚えたい言葉・用語
ニンフ(Νύμφη)
山・森・泉・木に宿る若い女神たち。神ではあるが不死ではなく、宿る木や泉が滅べば死ぬとされた。ギリシャ神話で最も数の多い存在。
ムーサ(Μοῦσαι)
学問と芸術を司る九人の女神。英語ではミューズ。museum(ムーサの神域)と music(ムーサの技)の語源。