人を獣に変える魔女。オデュッセウスにだけ薬が効かなかった。
キルケーとは何の神様か
キルケーはひとことで言えば敵から味方へ変わる魔女です。ギリシャ神話でこの転換をする人物は多くありません。
太陽神ヘリオスの娘で、母は大洋の女神ペルセイス。神の血を引きながら、オリュンポスには属しません。アイアイエー島でひとり暮らし、薬草と呪文を使いました。
島に上陸した者は、酒を勧められます。飲めば、
姿は豚に変わり、心だけが人のまま残った。
オデュッセウスの部下二十二人が、この目に遭いました。
ところが本人には効きません。ヘルメスがモーリュという薬草を先に渡していたからです。剣を抜かれたキルケーはただちに折れ、部下を人に戻します。
以後、この魔女は助言者になります。冥界へ行けという指示、セイレーンの避け方、スキュラとカリュブディスのどちらを選ぶか。『オデュッセイア』後半の航路は、すべてキルケーが引いたものです。
キルケーのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Κίρκη。日本語では「キルケー」「キルケ」の両方が使われます。
ローマ名は綴りがキルケ(Circe)になるだけで、別の名には置き換わりませんでした。神ではなく個別の人物なので、対応する神を探す必要がなかったためです。
この名から派生した英語の語があります。 「人を惑わせる」「魅了して堕落させる」という意味の形容詞で、いまも文章語として使われています。魔女の名がそのまま性質を表す語になった例です。
Κίρκη(キルケー)
古代ギリシャ語の表記。語源は鳥のタカを指す語とする説があるが、確かではない。
Circe(キルケ)
ローマでの綴りと読み。英語では「サーシー」に近い読みになる。
キルケ(キルケ)
日本語での別表記。長音を省いた形で、翻訳によって使い分けられる。
Αἰαίη(アイアイエー)
住んでいた島の名。「嘆きの島」と解する説がある。
キルケーの物語
太陽の娘 ─ 神の血を引く魔女
キルケーはヘリオスの娘です。父は毎日、天を渡って地上のすべてを見ています。
きょうだいの顔ぶれが、この家系の性格を示します。
兄弟に、コルキス王アイエテス(金羊毛を持つ王)。 姉妹に、クレタ王妃パシパエ(ミノタウロスを産んだ女)。 姪に、メデイア(コルキスの魔女)。
魔術を使う人物が、この一族に集中しています。 ギリシャ神話で薬草と呪文を操る人間は、ほとんどこの家から出ています。
キルケーが島にひとりで住んでいる理由は、書物によって違います。追放されたとする伝えもあれば、単にそこに住んでいたとだけ書くものもあります。
島には獅子と狼がいて、来訪者に尾を振ってじゃれつきました。『オデュッセイア』は、それらもかつて人間だったと示唆します。豚に変えられた者ばかりではなかったわけです。
豚に変える ─ 心だけが残る
オデュッセウスの一行が島に着き、二十三人が探索に出ました。館からは機を織る歌声が聞こえます。
招き入れられた者たちは、チーズと蜂蜜と葡萄酒の混ぜ物を勧められました。そこに薬が入っています。飲み干した瞬間、杖で打たれ、
頭も声も剛毛も、姿はすっかり豚になった。
ここで『オデュッセイア』は、決定的な一行を加えます。
しかし心は、以前のままそこにあった。
体だけが変わり、意識は人間のまま残ります。 これがこの魔術のもっとも恐ろしい点です。豚小屋に入れられた者たちは、自分が豚であることを理解したまま木の実を食べました。
一人だけ、疑って外に残った者がいました。エウリュロコスです。彼が船へ走って報せたため、オデュッセウスが救出に向かうことになります。
モーリュ ─ 効かなかった薬
館へ向かうオデュッセウスの前に、ヘルメスが若者の姿で現れました。渡されたのは一本の草です。
根は黒く、花は乳のように白い。 神々はこれをモーリュと呼ぶ。人の手では掘り出せない。
これを懐に、オデュッセウスは館に入りました。杯を干し、杖で打たれ──何も起きません。
キルケーは驚いて言います。
薬の効かぬ者に会ったのは初めてだ。 お前はもしや、あのオデュッセウスか。
オデュッセウスは剣を抜きました。魔女はただちに膝を折り、部下を元に戻すことと、二度と害をなさないと神々に誓うことを条件に和解します。
豚たちは薬を塗られて人に戻りました。しかも以前より若く、背が高く、美しくなっていたと『オデュッセイア』は書きます。
モーリュが何の植物かは、いまも分かっていません。 ニンニクの一種、スノードロップ、麦角に効く解毒剤など、古代から諸説が唱えられてきました。
航路を教える ─ 一年の滞在のあと
和解のあと、一行は島に一年とどまりました。出発を促したのは部下たちで、オデュッセウス自身は留まっていました。
別れ際、キルケーは帰路を教えます。ただし、その第一歩が異例でした。
家に帰る前に、冥界へ行け。 予言者テイレシアスに道を聞け。
生きたまま冥界へ下るという、『オデュッセイア』の中心となる場面は、この指示から始まります。
冥界から戻った一行に、魔女はさらに具体的な注意を与えました。
セイレーンの歌は、耳に蝋を詰めて避けよ。聞きたければ帆柱に自分を縛れ。 スキュラとカリュブディスは、どちらかしか選べない。六人を失え。全員を失うよりよい。 太陽神の牛には、決して手を出すな。
三つの警告のうち、守られなかったのは最後の一つです。部下が牛を屠り、船は雷に砕かれ、オデュッセウス以外の全員が死にました。
助言はすべて正しく、破ったほうが滅びました。
キルケーの家系図と家族
キルケーの親: ヘリオス
キルケーの性格と人物像
キルケーは、筋が通れば折れる人物です。
剣を突きつけられたとき、この魔女は抵抗も報復もしていません。即座に条件を出し、誓いを立て、約束を守りました。以後の助言に嘘や罠は一つもありません。
害をなす者が、負けたあとに誠実になる。 ギリシャ神話の敵役としては、きわめて珍しい振る舞いです。
もうひとつの特徴は、知識で人を動かすことです。魔術で人を豚にしていたときより、航路を教えていたときのほうが、この人物は物語を大きく動かしています。冥界行きも、セイレーンの帆柱も、スキュラの選択も、すべてキルケーの指示です。
近代以降、この人物の読まれ方は大きく変わりました。一人で島に住み、訪れる男を家畜に変える女という設定が、そのまま別の意味に読み直されるようになったためです。
原典のキルケーは、恐ろしくもあり、有能でもあり、そして約束を守る人物でした。
キルケーゆかりの地と遺跡
キルケーを祀った神殿はありません。 神ではなく、物語の登場人物だからです。
かわりに残ったのは土地の名でした。イタリア中部のチルチェオ岬は、古代からこの魔女の島と同一視され、ギリシャ語名キルカイオン、ラテン語名キルケイイがそのまま現在の地名になっています。
住んだ島アイアイエーが実在のどこかを指すのかは、いまも分かっていません。 ホメロスの記述は「東の果て、太陽の昇るところ」とも読めるため、地中海の西にあるチルチェオ岬とは方角が合わないという指摘が古代からありました。
キルカイオン岬(モンテ・チルチェオ)(Monte Circeo)
古代からキルケーの島と同一視されてきた岬
キルカイオン岬(モンテ・チルチェオ)の住所: イタリア ラツィオ州ラティーナ県 チルチェオ岬
キルカイオン岬(モンテ・チルチェオ)の祀られた神: (祀られた神はいない。伝承地)
キルカイオン岬(モンテ・チルチェオ)に残るもの: 岬そのもの。周囲は国立公園
ティレニア海に突き出した標高541メートルの岬です。古代の地理書はここをキルケーの島アイアイエーと同一視し、ギリシャ語でキルカイオン、ラテン語でキルケイイと呼びました。
海側から見ると本土から切り離された島のように見えるため、この結び付けが生まれたと考えられています。
キルケーを祀る神殿があったわけではありません。 物語の舞台とされた場所です。現在はチルチェオ国立公園に含まれ、麓にサン・フェリーチェ・チルチェオの町があります。
所在は古代地名事典プレイアデス(Kirkaion Akron/Monte Circeo)で確認した。
キルケーが現代に残した痕跡
キルケーの名は、地名・言葉・文学として現代に残りました。
チルチェオ岬(イタリア): 古代にキルケーの島と同一視された岬。ギリシャ語キルカイオン、ラテン語キルケイイが現在の地名の元になっている。
「人を惑わせる」を意味する英語の形容詞: この魔女の名から作られた語で、魅了して堕落させるさまを指す。
ジョイス「ユリシーズ」第15挿話: 「キルケー」と題された章。夜の街を舞台に、人物が次々と姿を変えていく幻覚として書かれている。
ウォーターハウス「オデュッセウスに杯を差し出すキルケー」: 1891年の絵画。杯を掲げ、背後の鏡にオデュッセウスが映る構図で知られる。
キルケーが司るもの
魔術
薬草と呪文を操る。ギリシャ神話で魔術を扱う人物の代表とされる。
医薬
姿を変える薬だけでなく、元に戻す薬も持っていた。薬を扱う知識そのものがこの人物の力である。
変化
人を獣に変え、また戻す。姿が変わることを司る存在として語られる。
キルケーが登場するゲーム・アニメ
近年、この人物は「敵役」ではなく「主人公」として描かれることが増えました。 原典が動機をほとんど書いていないため、書き足す余地が大きいからです。
一方で、助言者としての役割は創作にあまり採られません。豚に変える場面のほうが絵になるためですが、原典での比重は逆で、航路を教える場面のほうがはるかに長く書かれています。
キルケーが登場するゲーム
アサシン クリード オデッセイ
古代ギリシャを舞台にした作品で、伝承の断片として言及されます。
キルケーが登場するアニメ・漫画・映像
各種のオデュッセイア翻案作品
航海譚を映像化する場合、キルケーの島はほぼ必ず一話分の見せ場になります。
小説「キルケ」
2018年に刊行された長編で、魔女自身の視点から生涯を語り直したもの。世界的に読まれました。
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キルケーについてよくある質問
キルケーは何の神様ですか。
神ではなく、薬草と呪文を操る魔女です。太陽神ヘリオスと大洋の女神ペルセイスの娘とされ、神の血は引いていますが、オリュンポスの神々には属しません。
キルケーのローマ名は何ですか。
ローマでも同じくキルケ(Circe)です。綴りと読みが変わるだけで、別の名には置き換わりませんでした。
キルケーはなぜ人を豚に変えたのですか。
原典は理由を書いていません。島に上陸した者に一律に薬を飲ませており、特定の恨みによる行為とは描かれていません。動機が書かれていない点が、後世の作品で書き足される余地になっています。
オデュッセウスにはなぜ薬が効かなかったのですか。
ヘルメスがモーリュという薬草を先に渡していたためです。根が黒く花が白い草で、人の手では掘り出せないと『オデュッセイア』は書きます。実在のどの植物かは分かっていません。
キルケーとメデイアはどういう関係ですか。
叔母と姪です。キルケーの兄弟であるコルキス王アイエテスの娘がメデイアにあたります。ギリシャ神話で魔術を使う人物は、この一族に集中しています。
キルケーの島はどこにありますか。
アイアイエー島とされますが、実在のどこかは分かっていません。古代からイタリア中部のチルチェオ岬(キルカイオン)と同一視されてきましたが、ホメロスの方角の記述とは合わないという指摘も古代からありました。