力そのもの。ゼウスの玉座を離れず、命じられるままに神を縛る。
クラトスとは何の神様か
クラトスはひとことで言えば言うことをきかせる力です。
ステュクスとティタンのパラスの子。ニケ(勝利)・ビア(暴力)・ゼロス(競い心)の兄弟です。
ティタンとの戦いが始まったとき、母ステュクス?は真っ先にこの四柱を連れてゼウスの側に付きました。ヘシオドスは、その褒美をこう書きます。
四柱はゼウスのそば近くに座を得て、 その神から離れることなく、行くところへ従う。
最高神の玉座の脇にいるのは、この四柱です。
名は力・支配を意味します。民主政や貴族政といった政体の名に付く語尾は、この一語です。
アイスキュロスの作とされる悲劇『縛られたプロメテウス』は、この神の台詞で幕を開けます。世界の果てで、火を盗んだプロメテウスを岩に縛りつける役です。鍛冶の神が手を止めて憐れむと、
なぜためらう。父の命令だ。
と急かします。同情という言葉を持たない神です。
クラトスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Κράτος。日本語では「クラトス」と書きます。
この語は、現代の政治の言葉に生きています。 民主政、貴族政、独裁政、官僚制。政体を表す語の後半は、ほとんどがこの一語です。 「誰が力を握るか」という形で、政治の仕組みが名づけられているわけです。
注意したいのは、ビアとの違いです。ビアは剥き出しの暴力、クラトスは言うことをきかせる力を指します。
ビアは殴る力。クラトスは、殴らずに従わせる力。
この区別は重要です。クラトスには正当なものという含みがあり、王の権威にも使われました。ビアにはその含みがありません。
兄弟でありながら、上下が付いています。 悲劇でクラトスだけが口をきき、ビアが黙っているのは、この違いによるとみられています。
Κράτος(クラトス)
古代ギリシャ語の表記。力・強さ・支配を意味する普通名詞でもある。政体を表す語の語尾に残る語。
クラトース(クラトース)
長音を残した学術的な表記。
パラスの子(パラスのこ)
父ティタンのパラスと、冥界の川ステュクスの子であることを示す呼び方。四柱そろって同じ呼ばれ方をする。
ポテスタース(ポテスタース)
ローマで力・権限を意味した語。この神に当たる独自の神格はローマにはおらず、概念として受け止められた。
クラトスの物語
ステュクスの子ら ─ 最初に味方した四柱
ヘシオドス『神統記』は、この一族の由来をていねいに書いています。
冥界の川ステュクスは、ティタンのパラスとのあいだに四柱を生みました。
競い心ゼロス、足の美しい勝利ニケ、 そして力クラトスと暴力ビア。
ティタンとの戦争が起きたとき、ゼウスは全ての神に呼びかけました。味方すれば、権能を取り上げないという約束です。
ステュクスは、父オケアノスの勧めで、真っ先に子らを連れて上った。
褒美は二つ与えられました。第一に、ステュクスの名が神々の最も重い誓いになったこと。 第二に、この四柱がゼウスの玉座の脇に座を得たことです。
以後、四柱はゼウスから離れません。
最高神の権力は、この四つで構成されていると読めます。競い、勝ち、従わせ、必要なら殴る。神話の系譜が、そのまま統治の分析になっています。
兄弟のうちニケだけが独立した信仰を得て、神殿を持ちました。残る三柱には祀りの記録がほとんどありません。
岩に縛る ─ 『縛られたプロメテウス』の冒頭
この神が生きた台詞を持つ場面は、一つしかありません。 アイスキュロスの作とされる悲劇『縛られたプロメテウス』の冒頭です。
舞台は世界の果て、人の来ない岩山。クラトスとビアがプロメテウスを引き立てて登場し、鍛冶の神ヘファイストスに命じます。
ここが世界の果てだ。仕事にかかれ。 父の命じた縛めを、この者にはめるのだ。
ヘファイストスはためらいます。同族の神を縛るのは辛い、と嘆きます。クラトスは容赦しません。
なぜぐずぐずしている。 憎むだけ無駄な相手を、なぜ憐れむのか。
ゼウスのほかに、自由な者はいない。
最後の一行は、この悲劇でもっとも有名な台詞の一つです。
仕事が終わると、クラトスは去り際にこう言い放ちます。「せいぜい神々のものを人間に配ればいい。誰がおまえの苦しみを軽くしてくれるのか」
冷酷さが、そのまま人物像になっています。 この悲劇は、権力の側に立つ者の口ぶりを、これ以上ないほど正確に写しました。
なぜ祀られなかったのか ─ 姉妹との差
この四柱のうち、ニケだけが独立した神殿を持ちました。 アテナイのアクロポリスには、その名を負う小さな神殿が今も立っています。
残る三柱には、祀りの記録がほとんどありません。
理由は考えやすいところです。人は「勝ちたい」と祈ることはできても、「力そのもの」に祈ることはできません。 勝利は結果ですが、力は手段だからです。
同じことが、暴力にも競い心にも言えます。それらは祈って授かるものというより、その場に現れるものとして捉えられていました。
もう一つ、この神には姿がありません。 壺絵に描かれる際も、名前を書き添えなければ誰か分かりません。決まった持ち物も、決まった年齢もありません。
それでも、この神は消えませんでした。語そのものが残ったからです。
政治の仕組みを名づけるとき、ヨーロッパの言葉はいまもこの一語を使い続けています。神としては祀られず、言葉としては毎日使われている。ギリシャの抽象の神には、この形が少なくありません。
クラトスの家系図と家族
クラトスの性格と人物像
クラトスは、ためらわない神です。
悲劇のなかで、この神は一度も迷いません。鍛冶の神が同族を縛ることに苦しみ、手を止めるたびに、「父の命令だ」と押し切ります。
注目したいのは、この神が自分の意志で動いていないことです。命じたのはゼウスであって、クラトスではありません。恨みも欲もありません。ただ、命じられたことを最後まで実行します。
この人物像は、悲劇が意図して作ったものです。権力とは、意志を持たずに働くものだという見方が、そこに込められています。
姉妹ビアが一言も発しないのも、同じ計算によります。力は口をきき、暴力は黙って手を動かす。
もう一つ、この神には成長も変化もありません。 生まれてから玉座の脇にいて、それきりです。恋も敗北も語られません。
始まりから終わりまで、一つの働きしかしない。 抽象の神のなかでも、輪郭がとりわけ硬い神です。
近代の作品がこの名を好んで使うのは、この硬さのためでしょう。
クラトスゆかりの地と遺跡
クラトスを祀った神殿は確かめられませんでした。
兄弟のうち、独立した祀りを得たのはニケだけです。アテナイのアクロポリスには、その名を負う小さな神殿が今も立っています。
残る三柱には、社も祭壇も記録がありません。人は「勝ちたい」と祈ることはできても、「力そのもの」に祈ることはできないという事情が働いたと考えられます。
この神が現れるのは、悲劇の舞台の上です。『縛られたプロメテウス』の冒頭で、世界の果ての岩山にビアとともに登場します。
祀られた場所はなく、演じられた場所だけがある。 抽象の神としては珍しくない形ですが、この神の場合は台詞が残っているぶん、輪郭がはっきりしています。
クラトスが現代に残した痕跡
クラトスの名は、政治の言葉として現代に残りました。
政体を表す語尾: 民主政・貴族政・独裁政・官僚制など、政治の仕組みを表す語の後半はこの一語である。「誰が力を握るか」という形で仕組みが名づけられている。
「縛られたプロメテウス」の冒頭: 世界の果てでプロメテウスを縛る場面。「ゼウスのほかに自由な者はいない」という台詞は、権力を語るときの決まり文句として引かれ続けている。
同名の主人公を持つ作品: ギリシャ神話を題材にした現代の作品で、この名を持つ主人公が広く知られるようになった。神話での役柄とは大きく異なる。
力を意味する語根: 強さや効き目を表す学術用語にも、この語根が使われている。
クラトスが司るもの
力
名がそのまま力・支配を意味する。剥き出しの暴力ではなく、従わせる力を指す。
統治
民主政や貴族政といった政体の名は、この語を後半に持つ。
意志を通すこと
悲劇では、ためらう鍛冶の神を押し切って命令を実行させる役を務める。
王権
ゼウスの玉座の脇に座を得た四柱の一つで、最高神の権力を構成する働きとされた。
クラトスについてよくある質問
クラトスはどんな神ですか。
力そのものを司る神です。ステュクスとパラスの子で、ニケ・ビア・ゼロスの兄弟にあたります。ティタンとの戦いで真っ先にゼウスに味方し、その玉座の脇に座を得ました。
ビアとの違いは何ですか。
ビアは剥き出しの暴力を、クラトスは言うことをきかせる力を指します。クラトスには正当なものという含みがあり、王の権威にも使われました。悲劇でクラトスだけが口をきくのは、この違いによるとみられています。
デモクラシーの語源ですか。
そうです。民主政・貴族政・独裁政といった語の後半は、この神の名と同じ一語です。「誰が力を握るか」という形で政治の仕組みが名づけられています。
プロメテウスを縛ったのですか。
そうです。アイスキュロスの作とされる悲劇『縛られたプロメテウス』の冒頭で、ビアとともにプロメテウスを世界の果てへ引き立て、ためらう鍛冶の神を急かして岩に縛らせます。
祀られた神殿はありますか。
確かめられませんでした。四柱のうち独立した祀りを得たのはニケだけです。力そのものに祈ることは難しかったためと考えられます。
クラトスと併せて覚えたい言葉・用語
ステュクス(Στύξ)
冥界を流れる川、およびその女神。神々の最も重い誓いはこの名にかけて立てられ、偽れば一年息ができず九年追放される。