ポセイドンの妃。海の女王でありながら、夫の物語の陰に置かれ続けた。
アムピトリテとは何の神様か
アムピトリテはひとことで言えば海の女王です。
海の老人ネレウスとオケアノスの娘ドリスの娘で、五十柱のネレイスの一柱。ポセイドンの妃となりました。
出会いはナクソス島でした。姉妹たちと踊っているところを見初められ、逃げて世界の果てへ身を隠します。連れ戻したのは、海獣でも神でもなくイルカでした。
探し出して説き伏せた功により、 イルカは星座に上げられた。
生んだのは海の伝令トリトンです。上半身が人、下半身が魚の姿で、法螺貝を吹いて波を鎮めます。
ゼウスの妻ヘラが夫の恋のたびに荒れ狂うのに対し、この女神には嫉妬の物語がほとんどありません。 ポセイドンにも多くの恋があったにもかかわらず、です。
海の底に静かに座り続けている女神として描かれます。
アムピトリテのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἀμφιτρίτη。日本語では「アムピトリテ」または「アンピトリテ」と書きます。
語源は定まっていません。有力なのは「まわりを取り巻くもの」と読む説で、この場合は陸を囲む海そのものを指すことになります。
名前が海そのものを意味するなら、この女神は「ポセイドンの妻になった海」だということになります。 支配する神と、支配される海が夫婦になっている形です。
ホメロスの詩では、女神の名としてではなく海を指す言葉として使われる箇所があります。「アムピトリテの上を進む」は「海を渡る」という意味です。テミスやムネモシュネと同じで、神の名がそのまま日常語でした。
ローマではサラキアという女神が対応させられました。塩水を意味する語に通じる名です。
息子トリトンの名との関係を指摘する説もありますが、確かめられていません。
Ἀμφιτρίτη(アムピトリテ)
古代ギリシャ語の表記。「まわりを取り巻くもの」と読む説があり、陸を囲む海そのものを指すと解される。
アンピトリテ(アンピトリテ)
日本語での別の書き方。事典によって「ム」と「ン」が分かれる。
アムピトリーテー(アムピトリーテー)
長音を残した学術的な表記。
Salacia(サラキア)
ローマで対応させられた海の女神の名。ネプトゥーヌスの妃とされ、塩水を意味する語に通じる。
アムピトリテの物語
イルカが連れ戻す ─ 求婚の使い
ポセイドンがこの女神を見初めたのは、ナクソス島とされます。姉妹たちと輪になって踊っているところでした。
アムピトリテは逃げました。行き先は、天を担ぐアトラスのもと、世界の西の果てです。
困ったポセイドンは、使いを送ります。そのなかの一頭が、
隠れ場所を探し当て、女神を説き伏せて連れ帰った。
イルカでした。ポセイドンは礼として、このイルカを星座に上げます。いるか座です。
求婚を成立させた功で星になった動物は、ギリシャ神話でこれだけです。
この話には、ギリシャ人のイルカ観がよく表れています。イルカは人を助ける生き物、船に寄り添う生き物として、古代から特別に扱われました。竪琴弾きアリオンを背に乗せて救った話も伝わっています。
伝えによっては、アムピトリテは逃げずに承諾したとも語られます。逃げた話と逃げなかった話の両方が残っており、原典は一致していません。
嫉妬しない妃 ─ ヘラとの違い
ポセイドンには、多くの恋の相手がいます。
メドゥーサ、デメテル、テオパネ、トオサ。生まれた子には、キュクロプスのポリュペモス、天馬ペガソス、巨人たちが並びます。
それでもアムピトリテが怒った記録は、ほとんどありません。
ゼウスの妻ヘラと比べると、違いは際立ちます。ヘラは夫の相手を牛に変え、蛇を送り、子を追い回します。ギリシャ神話の主要な悲劇の何割かは、この嫉妬から始まっています。
同じ立場にありながら、海の女王には嫉妬の物語がありません。
例外がひとつだけ伝わります。ポセイドンがスキュラに心を寄せたため、アムピトリテが薬草を入り江に流し、彼女を怪物に変えたという話です。
ただし、この筋は少数派です。多くの原典では、スキュラを怪物にしたのはキルケーとされます。
なぜ怒らない妃として描かれたのか。原典は理由を書きません。海の底は、争いの舞台として描かれにくかったとも考えられます。
海の王妃として ─ 図像と祭祀
アムピトリテは、単独で描かれることがほとんどありません。
古代の壺絵、モザイク、彫刻。どれもポセイドンの隣です。三叉の矛を持つ夫の傍らに座り、海馬に引かれた車に乗り、行列を従えています。
髪に蟹の鋏を飾り、網をかぶった姿。
海の生き物を身につけた図像が、この女神の目印です。
祭祀の面では、コリントスのポセイドンの聖域に夫婦そろって像が置かれていたとパウサニアスが伝えます。デロス島やテノス島の海の神々の聖域にも、名が連なります。
単独の神殿を持たず、夫の聖域のなかに並んで祀られる。 この形が、この女神の立場をそのまま表しています。
近世以降、ヨーロッパの噴水彫刻でこの女神は大きく扱われるようになりました。海神の凱旋を主題にした噴水では、必ずといってよいほど隣に置かれます。
古代よりも近代のほうが、姿を目にする機会が多い女神です。
アムピトリテの家系図と家族
アムピトリテの性格と人物像
アムピトリテには、台詞がほとんどありません。
『イリアス』にも『オデュッセイア』にも名は出てきますが、海を指す言葉としての用法が中心です。人格を持って動く場面は、ごく限られます。
海の女王という高い位にありながら、これほど描写の乏しい女神は珍しい存在です。
読み取れる性格は二つあります。
ひとつは、逃げたことです。求婚から逃れ、世界の果てまで身を隠しました。ギリシャ神話で神の求めから逃げる女性は多くいますが、そのほとんどは姿を変えられるか、命を落とします。この女神は連れ戻され、そのまま妃になっています。
もうひとつは、荒れないことです。夫の恋にも、生まれた子にも、反応しません。
海の底は、静かである。
この静けさが、そのまま人物像になっています。
息子トリトンとの関係も、ほとんど書かれません。母として動く場面はなく、系譜のうえで名が挙がるだけです。
位が高く、記録が薄い。 アムピトリテは、その組み合わせのもっとも典型的な例だと言えます。
アムピトリテを祀った神殿と遺跡
アムピトリテだけを祀った神殿は確かめられませんでした。この女神は、夫ポセイドンの聖域のなかに並んで祀られる形が基本です。
確かめられるのは、コリントス地峡のポセイドンの聖域です。パウサニアスは、ここに夫婦の像が置かれていたと記しています。
エーゲ海の島々にも海の神々の聖域があり、そこに名が連なりますが、この女神の名を掲げた単独の建物としては特定できませんでした。
図像としてはきわめて多く残っています。壺絵、床のモザイク、石棺の浮彫。夫の隣という位置が定型になっており、その分だけ単独の祭祀が育たなかったと考えられます。
コリントスのポセイドンの聖域(コリントスのポセイドンのせいいき)
海の神の聖域。四大競技祭のひとつが開かれた
コリントスのポセイドンの聖域の住所: ギリシャ ペロポネソス半島 コリントス遺跡
コリントスのポセイドンの聖域の祀られた神: ポセイドン、アムピトリテ
コリントスのポセイドンの聖域に残るもの: 神殿の基壇と競技場の跡
コリントス地峡にある海の神の聖域です。ポセイドンとアムピトリテの像が並んで置かれていたとパウサニアスが記しています。
地峡は、二つの海に挟まれた細い陸地です。船を陸送する道が通り、海の神を祀るのにこれ以上ない場所でした。
夫婦そろって祀られたことが確かめられる、数少ない場所です。
四年ごとの競技祭が開かれ、遺跡には神殿の基壇と競技場の跡が残る。
アムピトリテが現代に残した痕跡
アムピトリテの名は、天体・生物・美術に残りました。
小惑星アムピトリテ: 1854年に発見された小惑星29番の名。
いるか座: この女神を連れ戻したイルカが星座に上げられたものとされる。夏の夜空の小さな星座である。
海の生物の学名: 海底の砂に住む多毛の環形動物の一属に、この女神の名が与えられている。
ヨーロッパの噴水彫刻: 海神の凱旋を主題にした噴水では、必ずといってよいほど隣に配される。古代より近代の作例のほうが多い。
アムピトリテが司るもの
海
名が海そのものを指す言葉として使われた。陸を取り巻く水の女神とされる。
海上安全
ポセイドンとともに海の神々の聖域に祀られ、航海の無事を託された。
夫婦の対
海の王と並んで座る妃。図像でも祭祀でも、必ず夫と一組で扱われる。
大漁
海の恵みを配る側の女神として、漁に出る者に祈られた。
岸の波
海が陸を取り巻く面を担う。波打ち際そのものと結びつけて語られる。
アムピトリテが登場するゲーム・アニメ
創作でこの女神が主役になることは、ほとんどありません。 原典に台詞と事績が乏しいためです。
使われるのは、もっぱら「海の女王」という肩書きです。海底王国を舞台にした物語で、王妃の名としてこの名が置かれます。
一方、美術では扱いがまったく違います。海神の凱旋という主題そのものが、この夫婦を描くために存在してきました。言葉の世界では薄く、絵の世界では厚いという、珍しい残り方をしています。
アムピトリテが登場する絵画・彫刻
ポセイドンとアムピトリテの凱旋図
海馬に引かれた車に夫婦が乗り、海の生き物の行列が従う構図です。古代のモザイクから近世の天井画まで、繰り返し描かれました。
海神の噴水彫刻
ヨーロッパ各地の広場にある海神の噴水では、隣に置かれる女性像がこの女神です。
アムピトリテが登場するゲーム・創作
海を舞台にした作品の女王役
海底の王国を描く作品で、王妃としてこの名が使われる例があります。
潜水艇や船の名
海に関わる乗り物の名として、この女神の名が用いられてきました。
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アムピトリテについてよくある質問
アムピトリテはどんな神ですか。
ポセイドンの妃で、海の女王とされる女神です。海の老人ネレウスとドリスの娘で、五十柱のネレイスの一柱にあたります。海の伝令トリトンの母です。
ポセイドンとはどうやって結ばれたのですか。
ナクソス島で踊っているところを見初められ、逃げて世界の果てに隠れました。イルカが探し出して説き伏せ、連れ戻したとされます。そのイルカは礼として星座に上げられました。
アムピトリテはヘラのように嫉妬しないのですか。
嫉妬の物語はほとんど伝わっていません。例外として、ポセイドンが心を寄せたスキュラを薬草で怪物に変えたという少数派の伝えがありますが、多くの原典ではそれを行ったのはキルケーとされます。
アムピトリテの子は誰ですか。
海の伝令トリトンです。上半身が人、下半身が魚の姿で、法螺貝を吹いて波を鎮めるとされます。ほかにロデとベンテシキュメを娘とする伝えもあります。
アムピトリテを祀った場所はありますか。
単独の神殿は確かめられませんでした。コリントス地峡のポセイドンの聖域に、夫婦の像が並んで置かれていたとパウサニアスが伝えています。