運命の三女神の一人。人の一生の糸を、紡ぎはじめる者。
クロトとは何の神様か
クロトはひとことで言えば始める者です。
運命の三女神モイライ?の一柱で、名は「紡ぐ女」を意味します。糸を紡ぐことを指す動詞が、そのまま神の名になりました。
三姉妹の受け持ちは、はっきり分かれています。
クロトが糸を紡ぎ、ラケシスがその長さを配り、 アトロポスが切る。
この神が触れるのは、糸の出はじめだけです。 どれだけの長さになるかも、いつ切られるかも、姉妹の手に渡ります。
生まれについては、ヘシオドス『神統記』のなかで二通りに書かれています。 夜の女神ニュクスが父を持たずに生んだとする箇所と、ゼウスと掟の女神テミスの娘とする箇所です。
同じ書物のなかで食い違っているため、どちらが正しいとも決められていません。
持ち物は糸巻き棒と紡錘。三姉妹のなかで、もっとも若い姿で描かれることの多い女神です。
クロトのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Κλωθώ。日本語では「クロト」または「クロートー」と書きます。
名は、糸を紡ぐことを意味する動詞から作られています。神の名であると同時に、機織りの現場で使われていた普通の言葉でもありました。 三姉妹の名は三つとも、この作り方をしています。
紛らわしいのは、三姉妹全体を指す呼び名です。ギリシャ語ではモイライ、単数形はモイラで、「分け前」「割り当て」を意味します。日本語の本では「モイラ」「モイライ」「運命の三女神」が混ざって使われるため、同じ相手を指していると気づきにくいことがあります。
ローマでは三姉妹をパルカと呼び、クロトにはノナを当てました。「九番目」という意味で、妊娠の月数にちなむ名です。
「運命の糸」という言い回しがありますが、その糸を実際に紡いでいるのがこの女神です。
Κλωθώ(クロト)
古代ギリシャ語の表記。糸を紡ぐことを意味する動詞から作られた語で、「紡ぐ女」が原義。
クロートー(クロートー)
長音を残した学術的な表記。事典類ではこちらの形も使われる。
Nona(ノナ)
ローマで三女神に当てられた名のうちの一柱。「九番目」を意味し、妊娠九か月目にちなむとされる。
モイライ(モイライ)
三姉妹をまとめて呼ぶ名。「割り当て」を意味する語の複数形で、一人ひとりは「モイラ」と呼ぶ。
クロトの物語
紡ぐという受け持ち ─ 三人で一つの仕事
モイライの仕事は、流れ作業の形で語られます。
クロトが羊毛から糸を引き出し、 ラケシスがその糸を測って割り当て、 アトロポスが鋏を入れる。
古代の壺絵やローマ時代の石棺では、三姉妹がこの順に並びます。クロトは糸巻き棒を、ラケシスは巻物か細い杖を、アトロポスは鋏か日時計を持ちます。
この分業には考え方が表れています。誰かが生まれることと、どれだけ生きるかと、いつ終わるかは、別々の問題だという整理です。
ただし、ヘシオドス『神統記』の書き方はもっと素っ気ないものです。
人が生まれるとき、善いことと悪いことを与える女神たち。
三人の役割を細かく割り振ったのは、後の時代の著述家です。もとは「三人でひとつ」の存在でした。
それでも分業の形が広まったのは、紡ぐ・測る・切るという手仕事の順序が、人の一生の説明としてわかりやすかったからでしょう。糸は誰の家にもある道具で、たとえに使うのに説明がいりません。
二つの母 ─ 夜の娘か、テミスの娘か
モイライの親は、同じ書物のなかで二度、別々に書かれています。
一つ目は『神統記』の第211行あたり。夜の女神ニュクスが、父を持たずに生んだ子らの並びです。
死と眠り、夢の族、非難と悲嘆、 そしてモイライとケール。
並ぶのは、人が恐れるものばかりです。ここでのモイライは罰する側として書かれ、罪を犯した者を追うとされます。
二つ目は第901行あたり。ゼウスが二番目の妻テミスを娶り、
季節の女神ホーライと、運命の女神モイライを生んだ。 ゼウスがもっとも尊んだ女神たちである。
こちらのモイライはゼウスの体制のなかに組み込まれています。
夜が父なしに生んだ古い力と、最高神の娘。 二つの説では性格まで違います。
ヘシオドスがなぜ両方を残したのかは、わかっていません。古い伝えを消さずに並べたのだ、という見方が有力です。神図鑑では両方の説を併記しています。どちらか一方を選んで書くと、原典より狭くなってしまうからです。
象牙の肩 ─ 釜から引き上げる手
クロトが単独で動く場面は、ごくわずかです。そのひとつが、ペロプスという若者の話です。
父タンタロスが神々を試そうとして、我が子を煮て食卓に出しました。気づかずに肩を口にした神がいたと伝えられます。神々は少年を釜に戻して生き返らせ、欠けた肩には象牙が継がれました。
詩人ピンダロス『オリュンピア第1歌』は、この場面をこう歌います。
クロトが清らかな釜からあなたを引き上げたとき、 その肩には象牙が輝いていた。
引き上げる手が、クロトの手になっています。 糸を紡ぐ女神が、いちど途切れた命をもう一度この世へ引き出したことになります。
ただしピンダロス自身は、この筋に否定的です。神々が人の肉を食べたなどとは信じられないとして、別の説明を与えようとしています。
詩人が退けようとした話のなかに、クロトの名だけがはっきり残った。この女神の出番の少なさを、よく表す一段です。 単独で名を呼ばれるのは、命が始まる場面か、始め直される場面に限られます。
酔わされた三姉妹 ─ 寿命が延びた唯一の例
モイライが人の寿命を延ばした、という例外的な話があります。
テッサリアの王アドメトスは、かつてアポロンに親切にしたことがありました。その返礼に、アポロンは死期の迫った王のために手を打ちます。
アイスキュロスの悲劇『エウメニデス』では、復讐の女神たちがアポロンをこう責めます。
おまえは古い女神たちを酒でたぶらかし、 人間を死から解こうとした。
条件が付きました。身代わりに死ぬ者がいれば、というものです。老いた両親は断り、名乗り出たのは若い妻アルケスティスでした。
三姉妹は買収されたのではなく、酔わされています。 力ずくでも取引でもなく、判断が緩んだ隙を突かれた形です。
この一件は、モイライの立場を考えるうえで重要です。決めたことは変えないが、決める前なら手が入る余地がある。
そしてもう一つ。延びたぶんは、誰かの命で埋められました。 総量は変わっていません。分け前として運命をとらえるギリシャの考え方が、ここにも出ています。
クロトの家系図と家族
クロトの性格と人物像
クロトには、性格を語れるだけの言動がありません。
台詞は伝わらず、怒りも恋も書かれていません。三姉妹はほとんどの場面で「三人ひとまとまり」として現れ、そのなかでクロトだけが何かを言った記録は見つかりませんでした。
それでも、この女神には位置から読み取れる性格があります。
手にしているのは、糸の出はじめです。どんな一生になるかを、この神は知りません。 長さを決めるのは次の姉妹、終わらせるのはその次の姉妹です。始めることだけに徹している神と言えます。
もう一つ、三姉妹に共通する特徴があります。取り消しません。 頼まれても脅されても、原典で判断を変えた場面はありません。唯一の例外がアドメトスの一件で、そこでも酔わされたうえでのことでした。
人の一生を扱う神でありながら、人に対して感情を持たない。 これはギリシャの神々のなかではむしろ珍しい形です。オリュンポスの神々は、ひいきもすれば恨みもします。運命の女神たちだけが、それをしません。
怖い神かと言えば、そうとも言い切れません。恨まれる筋合いのない神として置かれている、というのが正確なところです。
クロトゆかりの地と遺跡
クロトだけを祀った神殿は確かめられませんでした。
モイライは、単独ではなく三姉妹まとめて祀られるのがふつうでした。パウサニアスは各地でモイライの祭壇や像を見たと書き残していますが、その一つひとつを現在の地図の上で確定できる資料は見つかりませんでした。
この女神たちは、大きな神殿へ日々参る相手ではありませんでした。 呼ばれるのは、子が生まれるとき、婚礼のとき、そして人が死ぬときです。人生の変わり目に立ち会う神で、祭祀もその場かぎりのものだったと考えられます。
一方、彫られた例は数え切れません。ローマ時代の石棺には、糸を扱う三人が繰り返し現れます。祀られた記録より、彫られた記録のほうがはるかに多い神です。
クロトが現代に残した痕跡
クロトの名は、三姉妹の一人として天文と美術に残りました。
小惑星の名: 三姉妹の名は、それぞれ別の小惑星に付けられている。クロト・ラケシス・アトロポスがそろって天体の名になった。
三女神の浮き彫り: ローマ時代の石棺の側面には、糸巻き棒・巻物・鋏を持つ三人が並んで彫られる。人の一生を一枚に納める図として広く用いられた。
「運命の糸」という言い回し: 糸が紡がれ、測られ、切られるという比喩は、この三姉妹の分業から来ている。日本語の「運命の糸」もその流れをくむ。
ローマのノナ: ローマではクロトにノナを当てた。「九番目」を意味し、妊娠九か月目にちなむ名である。
クロトが司るもの
一生の始まり
糸を紡ぎ出す役目を持ち、人が生まれることそのものを受け持つ。
糸紡ぎ
名がそのまま「紡ぐ女」を意味し、糸巻き棒と紡錘を手にする。
出産
ローマで当てられたノナの名は妊娠九か月目に由来し、産みの場に関わる。
子の誕生
生まれた子の糸を最初に手にする神とされ、産室で名を呼ばれた。
運命
三姉妹そろって人の定めを扱う。クロトはその入口を担当する。
クロトが登場するゲーム・アニメ
創作でのクロトは、単独ではなく必ず三人組の一人として現れます。 見分け方は決まっていて、糸巻き棒を持つ若い姿がこの女神です。
近代の絵画では「人の一生」を一枚に描く主題として好まれました。始まり・長さ・終わりを三人に割り振れるため、寓意の型として使いやすかったのです。
クロトが登場する絵画・彫刻
三女神を彫った石棺
ローマ時代の石棺の側面に、糸を扱う三人が繰り返し彫られました。名が添えられていないことが多く、持ち物で見分けます。
ゴヤ「運命の三女神」
スペインの画家ゴヤが晩年に自宅の壁へ描いた作品です。宙に浮かぶ三人が描かれ、小さな人形のようなものを持つ人物がクロトにあたるとされます。
クロトが登場するゲーム・創作
運命の三姉妹が出る作品
糸を紡ぐ役として三人組の一人に置かれ、もっとも若い姿で描かれることが多くなります。
ギリシャ神話を題材にした作品
主人公の寿命や宿命を扱う筋立てで、糸を手にする女神として名が呼ばれます。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
クロトについてよくある質問
クロトはどんな神ですか。
運命の三女神モイライの一柱で、人の一生の糸を紡ぎ出す役目を持ちます。名は「紡ぐ女」を意味し、糸巻き棒と紡錘を手にした若い姿で描かれます。
三姉妹の役割はどう違いますか。
クロトが糸を紡ぎ、ラケシスがその長さを配り、アトロポスが切ります。始まり・長さ・終わりの分担です。ただしこの分業を細かく書いたのは後の時代の著述家で、ヘシオドスは三人まとめて「善いことと悪いことを与える女神たち」と記しています。
クロトの親は誰ですか。
ヘシオドス『神統記』が二通りに書いています。夜の女神ニュクスが父を持たずに生んだとする箇所と、ゼウスと掟の女神テミスの娘とする箇所です。同じ書物のなかで食い違っており、どちらが正しいとも決められていません。
運命は変えられないのですか。
原典では、ほぼ変わりません。例外はアポロンが三姉妹を酒で酔わせて王アドメトスの寿命を延ばした一件ですが、そこでも身代わりに死ぬ者が必要でした。延びたぶんは誰かの命で埋められています。
クロトを祀った神殿はありますか。
この女神だけを祀った神殿は確かめられませんでした。モイライは三姉妹まとめて祀られるのがふつうで、パウサニアスが各地で祭壇や像を見たと記していますが、その位置を現在の地図の上で確定できる資料は見つかりませんでした。
クロトと併せて覚えたい言葉・用語
モイライ(Μοῖραι)
運命の三女神。クロトが命の糸を紡ぎ、ラケシスが長さを測り、アトロポスが断つ。ゼウスですら逆らえない。