返される愛の神。エロスの弟で、報われない想いを罰する側に立つ。
アンテロスとは何の神様か
アンテロスはひとことで言えば返ってくる愛です。名は「向かい合うエロス」「返しのエロス」と読めます。
エロスの弟。父をアレス、母をアフロディテとする伝えがあります。
生まれた経緯を、後の時代の書物がこう伝えます。アフロディテが「エロスがいつまでも幼いままだ」と嘆いたとき、掟の女神テミスが答えました。
愛は、返されなければ育たない。弟を与えなさい。
弟が生まれると兄は背が伸び、離れるとまた縮んだといいます。片思いのままでは、愛は大きくならない。 この一点だけで作られた神です。
もう一つの顔は報いの神です。アテナイの学園には、この神の祭壇がありました。想いを退けられた男が身を投げ、それを見た相手も後を追った事件のあと、居留民たちが建てたものだと伝えられます。
ロンドンの広場に立つ有名な弓の像は、作者自身が「エロスではなくアンテロス」と述べています。
アンテロスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἀντέρως。日本語では「アンテロス」と書きます。
この名の接頭辞には、二つの意味があります。「向かい合う」と「仕返しに」です。 どちらで読むかで、この神の性格が変わります。
前者で読めば、返ってくる愛の神になります。想いが相手から返される、その働きです。
後者で読めば、愛への仕返しの神になります。想いを踏みにじった者を罰する働きです。
古代の資料は、両方の読み方を伝えています。 兄エロスを育てる弟としての姿と、退けられた恋を晴らす神としての姿。矛盾しているようですが、どちらも「返す」という一点でつながっています。
ローマでもギリシャ名がそのまま使われました。ローマにこの神に当たる独自の神格はいません。
Ἀντέρως(アンテロス)
古代ギリシャ語の表記。「向かい合う」を意味する接頭辞とエロスを組み合わせた語で、返される愛と、愛への仕返しの両方を指す。
アンテロース(アンテロース)
長音を残した学術的な表記。
メレスの報い手(メレスのむくいて)
アテナイの学園にあった祭壇に添えられた呼び名。想いを退けた側が身を投げた事件にちなむ。
アンテロスの物語
兄を育てる弟 ─ 愛は返されないと育たない
エロスは、いつまでも子どもの姿をしています。愛の神が幼児なのはなぜか。この問いに、一つの答えを出したのがこの神です。
後の時代の書物が伝える話です。アフロディテが子の育たないことを嘆くと、掟の女神テミスが答えました。
あなたの子は一人だからだ。 兄弟を与えれば育つ。
そこでアンテロスが生まれます。すると、
弟がそばにいるとき、エロスの背は伸びて翼も大きくなった。 離れると、また元の幼子に戻った。
この寓話は、片思いの状態を説明するために作られています。 想いが返されないうちは、愛は幼いままだということです。
二柱を組み合わせた図像は、古代から作られました。取っ組み合いをしている二人の翼の子どもという構図がその代表で、棕櫚の枝を奪い合う姿として彫られます。
争っているように見えて、これが釣り合いです。 どちらかが一方的に勝てば、それは愛ではなくなります。
学園の祭壇 ─ 報いの神として
パウサニアスは、アテナイの学園に、この神の祭壇があったと記しています。建てたのは市民ではなく、居留していた外国人たちでした。
由来はこうです。ある居留民の男が、アテナイの美しい若者に恋をしました。若者は相手にせず、侮り、ついには、
岩から飛び降りてみせろ。
と言いました。男はそのとおりにして死にます。
若者はその後、水差しで水を汲もうとしたとき足を滑らせ、同じように落ちて死にました。パウサニアスは、これを報いだと人々は考えたと書いています。
そこで居留民たちは祭壇を建て、この神を「報い手」と呼びました。
恋の神なのに、祀られた理由が復讐です。 ギリシャ人にとって、想いを弄ぶことは神の怒りを招く行いでした。
返さないこと自体が罪になる。 名前の「返し」には、この意味も含まれています。この祭壇の話は、そのことをもっともはっきり示す記録です。
ロンドンの弓の像 ─ 名前が入れ替わった彫刻
ロンドンの繁華街の中心に、弓を引いた翼の少年の像が立っています。世界でもよく知られた待ち合わせ場所です。
この像は一般に「エロス(キューピッド)」と呼ばれてきました。しかし、
作者は、これはアンテロスだと述べている。
と伝えられます。像は十九世紀に、貧しい子どもたちのために働いた政治家を記念して建てられました。見返りを求めない愛を表すために、兄ではなく弟が選ばれたという説明です。
それでも、呼び名は定着しませんでした。矢を持つ翼の少年を見れば、人はエロスだと思うからです。
この取り違えは、この神の立場をよく表しています。 アンテロスは、常に兄と対で語られ、単独では覚えられません。
図像でも同じです。二柱が並んでいれば見分けられますが、一柱だけ描かれると、どちらか分からなくなります。松明を逆さに持つ、棕櫚の枝を持つといった見分け方はありますが、決まりきったものではありません。
返される側の神は、いつも相手を必要とします。
アンテロスの家系図と家族
アンテロスの性格と人物像
アンテロスは、兄がいないと成立しない神です。
単独の物語がなく、単独の図像も定まりません。エロスと並んでいるときにだけ、この神は見分けられます。返ってくる愛は、行く愛がなければ存在しないからです。
性格として指摘できるのは、厳しさでしょう。返される愛の神でありながら、祀られた理由は復讐でした。想いを退け、弄び、人を死なせた者を追い詰めます。
優しい神ではありません。 アテナイの学園の祭壇は、若者が足を滑らせて死んだ事件の記念です。
もう一つ、この神には釣り合いを求める性格があります。兄と取っ組み合う図像は、争いではなく釣り合いを表していると読まれてきました。片方が強すぎれば、それは愛ではなくなります。
与えることではなく、返ってくることを司る。 ギリシャの神々のなかで、恋を「一方通行では成り立たないもの」として神格化した例はここだけです。
近代のヨーロッパが、この神をたびたび思い出したのも同じ理由によります。
アンテロスゆかりの地と遺跡
アンテロスを祀った神殿は確かめられませんでした。
ただし、祭壇があったことははっきり記録されています。 パウサニアスは、アテナイの学園にこの神の祭壇があり、建てたのは市民ではなく居留していた外国人たちだったと記しました。
由来は、想いを退けられた居留民の男が身を投げ、退けた側の若者も同じように落ちて死んだという事件です。人々はこれを報いと考え、この神を「報い手」と呼んで祭壇を立てました。
しかし、その祭壇の位置を一次の資料で住所まで確かめられなかったため、ここには挙げていません。
エリスの体育場にも、兄弟が棕櫚の枝を奪い合う姿の浮き彫りがあったと伝えられます。祀りは、兄エロスの聖域のなかに置かれる形が多かったと考えられます。
アンテロスが現代に残した痕跡
アンテロスの名は、近代の彫刻と、心の働きを語る言葉として残りました。
ロンドンの記念噴水の像: 弓を引く翼の少年の像。一般にはエロスと呼ばれるが、作者はアンテロスだと述べたと伝えられる。見返りを求めない愛を表す像として建てられた。
二柱が取っ組み合う図像: 棕櫚の枝を奪い合う二人の翼の子どもという構図。争いではなく、愛の釣り合いを表すものと読まれてきた。
返される愛という考え方: 愛が一方通行では成り立たないという発想を神格化した例。近代のヨーロッパの詩や思想がくり返し取り上げた。
小惑星アンテロス: 1973年に見つかった小惑星1943番の名。地球の近くを通る一群に数えられる。
アンテロスが司るもの
愛
返される愛を司る。行く愛だけでは足りないという考えが神になった形。
恋愛成就
想いが相手から返されることそのものを受け持つ。
報い
想いを退け、弄んだ者を追い詰める神として、アテナイの学園に祭壇が建てられた。
変わらぬ友情
兄弟が離れると縮み、そばにいると育つという寓話は、関係が続くことの条件を語っている。
アンテロスについてよくある質問
アンテロスはどんな神ですか。
返される愛を司る神で、エロスの弟にあたります。名は「向かい合うエロス」「返しのエロス」と読め、想いが返されることと、返さない者への報いの両方を受け持ちます。
なぜエロスの弟が必要だったのですか。
愛は返されなければ育たないためです。アフロディテがエロスの育たないことを嘆いたとき、テミスが弟を与えるよう答えたと伝えられます。弟がそばにいるとエロスは背が伸び、離れると幼子に戻ったといいます。
報いの神というのはどういうことですか。
想いを弄んだ者を罰する働きです。アテナイの学園には、退けられた男が身を投げ、退けた若者も同じように落ちて死んだ事件のあとに祭壇が建てられ、この神は「報い手」と呼ばれました。
ロンドンの像はエロスですか、アンテロスですか。
作者はアンテロスだと述べたと伝えられます。見返りを求めない愛を表すために選ばれた姿でしたが、弓を持つ翼の少年という見た目から、一般にはエロスの名で呼ばれ続けています。
祀られた場所はありますか。
アテナイの学園に祭壇があったとパウサニアスが記していますが、住所までは確かめられませんでした。祀りは兄エロスの聖域のなかに置かれる形が多かったと考えられます。