町を落とす女神。アレスと並んで戦場を歩き、混乱を連れて回る。
エニュオとは何の神様か
エニュオはひとことで言えば都市が落ちるときです。
アレスとともに戦場に立つ女神。『イリアス』は「都市を落とす者」という添え名で呼びます。
アレスがこの女神を伴い、混乱の神キュドイモスを連れて進む場面があります。殺すのがアレス、崩すのがこの女神です。
この神で重要なのは、アレスとの関係です。軍神の添え名エニュアリオスは、この名の男性形にあたります。そしてミケーネ時代の粘土板には、
アレスとは別に、エニュアリオスと読める名が刻まれている。
もとは独立した戦の神だったと考えられています。のちにアレスに吸収され、女神のほうだけが名を残した形です。
ローマでは戦の女神ベローナと重ねられました。
まぎらわしいことに、『神統記』には同じ名を持つ別の存在が出てきます。生まれつき老女で、三人で一つの目を使い回すグライアイの一人です。血のつながりはありません。
エニュオのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἐνυώ。日本語では「エニュオ」と書きます。
この名で押さえておきたいのは、ギリシャ語で語源をたどれないという点です。ギリシャ人がこの土地に来る前からあった、古い神の名とみられています。
それを裏づけるのが、ミケーネ時代の粘土板に残された記録です。そこには、この名の男性形にあたるエニュアリオスと読める語が、アレスとは別の神として記されています。
つまり順序はこうなります。
はじめに独立した戦の神がいた。 のちにアレスがその名を添え名として吸収した。 女神のほうは、名前だけが残った。
『イリアス』でこの女神が単独では働かず、常にアレスと並んで現れるのは、この経緯によると考えられています。
ローマではベローナと重ねられました。首都に神殿を持ち、宣戦の儀礼が行われた女神です。ギリシャでは影の薄い神が、ローマでは国家の儀礼に組み込まれています。
Ἐνυώ(エニュオ)
古代ギリシャ語の表記。語源はギリシャ語の内側では説明が付かず、ギリシャ人が来る前からあった名とみられている。
エニュオー(エニュオー)
長音を残した学術的な表記。
Ἐνυάλιος(エニュアリオス)
この名の男性形。のちにアレスの添え名になったが、ミケーネ時代の粘土板ではアレスとは別に記されている。
ベローナ(ベローナ)
ローマの戦の女神。この女神と重ねられた。首都に神殿を持ち、宣戦の儀礼が行われた。
エニュオの物語
都市を落とす者 ─ 『イリアス』での役
『イリアス』第5歌は、この女神が現れる代表的な場面です。
アフロディテが戦場で人間に傷つけられます。詩人はここで、この女神なら話が違ったという言い方をします。
アフロディテは、戦いを取り仕切る女神ではない。 アテナでもなければ、都市を落とすエニュオでもない。
戦場に立つ資格のある女神として、アテナと並べられています。
同じ歌の後半では、アレスが人間の味方をして進み出る場面があります。そのとき、
かたわらには女神エニュオがおり、 恥知らずな混乱の神キュドイモスを連れていた。
軍神の一団として描かれているわけです。
「都市を落とす者」という添え名は重要です。ギリシャの戦争で、最終的な目的は町を落とすことでした。兵を殺すことではなく、城壁の内側を奪うことが勝利です。
この女神は、その最後の場面を受け持ちます。殺す神ではなく、落とす神という位置づけになります。
アレスに吸収された神 ─ 粘土板が示すもの
この女神の名の男性形が、アレスの添え名になっています。エニュアリオスです。
『イリアス』では、この語はアレスを指す呼び方として何度も出てきます。ところが、
ミケーネ時代の粘土板には、 アレスとエニュアリオスが別々に記されている。
クレタ島クノッソスから出た、供え物の記録です。ここに書かれた神々の名には、のちのギリシャ神話に受け継がれるものが複数含まれています。
そのなかで、この二つが別の神として並んでいることは重要です。
考えられる筋道はこうです。もともと独立した戦の神エニュアリオスがいた。 のちに軍神の性格がアレスに集約され、エニュアリオスはその添え名として残った。そして女性形のこの女神だけが、別の神格として生き延びた。
神々の合併の痕跡と言えます。
ギリシャ神話には、こうした跡が随所にあります。一つの神に複数の添え名があるのは、たいてい別々の神が合わさった結果です。この女神は、その過程がもっとも見えやすい例にあたります。
同名の別人 ─ グライアイのエニュオ
この女神を調べるとき、必ずぶつかる混乱があります。同じ名の別の存在がいることです。
『神統記』は、海の老神ポルキュスとケトの娘として、グライアイ(老女たち)を挙げます。
生まれたときから白髪で、 三人で一つの目と一つの歯を使い回していた。
その一人の名がエニュオです。ほかにペムプレド、デイノがいます。
この三人は、ペルセウスの物語に出てきます。ゴルゴンの居場所を知る唯一の存在で、英雄は目を奪って口を割らせました。
戦の女神とは、血のつながりも役目の重なりもありません。 名前が同じだけです。
ギリシャ神話では、こうした同名の別人が数多くいます。ムーサのクレイオと歴史家の名、パトロクロスの父とティタンのメノイティオス。神話を読むときの、最初の落とし穴です。
どちらを指しているかは、文脈で見分けるしかありません。 アレスと並んでいれば戦の女神、姉妹が三人で目を回していればグライアイです。
エニュオの家系図と家族
エニュオの性格と人物像
エニュオには、台詞がありません。
アレスの傍らに立ち、混乱の神を連れて進む。原典に残るのは、その姿だけです。単独で何かを決めた場面が、一つもありません。
それでも、この女神の位置は明確です。アテナと並べられる資格を持つことです。『イリアス』は、戦場に立つ女神としてこの二柱の名を挙げました。
両者の違いも、はっきりしています。アテナは戦略の女神で、都市を守る側に立ちます。この女神は都市を落とす側です。
守る女神と、落とす女神。
同じ戦争を、両側から神格化しています。
もう一つ、この女神は古さの証人です。ギリシャ語で説明の付かない名を持ち、ミケーネ時代の記録にその男性形が現れます。ギリシャ神話が成立する前から、この名で呼ばれる戦の神がいました。
ローマに渡ってからのほうが、扱いは重くなります。ベローナとして首都に神殿を持ち、宣戦の儀礼に組み込まれました。
ギリシャでは脇役、ローマでは国家の神。 移った先で伸びた、珍しい例です。
エニュオゆかりの地と遺跡
エニュオを単独で祀った神殿は確かめられませんでした。
この女神は、アレスの祀りのなかで名を呼ばれる形が中心でした。軍神の添え名エニュアリオスは、この名の男性形にあたります。
ミケーネ時代の粘土板には、アレスとは別にエニュアリオスと読める名が供え物の記録として刻まれています。 文字の資料で追える古い神名の一つですが、それがどの場所の祀りだったかまでは特定できませんでした。
祀りとして形がはっきりしているのは、ローマのほうです。重ねられた戦の女神ベローナは首都に神殿を持ち、宣戦を告げる儀礼がそこで行われました。
ギリシャでは社を持たず、ローマでは国家の儀礼に組み込まれた。 同じ神格の扱いが、移った先で大きく変わっています。
エニュオが現代に残した痕跡
エニュオの名は、軍神の添え名と古い記録のなかに残りました。
エニュアリオスという添え名: この名の男性形で、のちにアレスの添え名になった。もとは別の戦の神だったと考えられている。
ミケーネ時代の粘土板に残る名: クノッソス出土の粘土板に、アレスとは別にこの名の男性形と読める語が刻まれている。文字で追えるギリシャの神名としては最古級にあたる。
ローマのベローナ: 重ねられた戦の女神。首都に神殿を持ち、宣戦を告げる儀礼が行われた。ギリシャでの扱いより重い位置を与えられている。
同名のグライアイ: 海の老神の娘で、三人で一つの目を使い回す老女たちの一人にも同じ名がある。血のつながりはなく、混同されやすい。
エニュオが司るもの
戦
アレスとともに戦場を歩く女神。「都市を落とす者」という添え名で呼ばれた。
戦の始まり
ローマで重ねられたベローナの神殿では、宣戦の儀礼が行われた。
武運
戦場に立つ資格のある女神として、『イリアス』はアテナと並べて名を挙げる。
戦場での勇
混乱の神を連れて進む軍神の一団に数えられる。
エニュオについてよくある質問
エニュオはどんな神ですか。
アレスとともに戦場に立つ戦の女神です。『イリアス』は「都市を落とす者」という添え名で呼びます。殺すのがアレス、崩すのがこの女神という役割分担で描かれます。
アレスとどんな関係ですか。
軍神の添え名エニュアリオスは、この名の男性形です。ミケーネ時代の粘土板ではアレスとは別の神として記されており、もとは独立した戦の神だったと考えられています。
グライアイのエニュオと同じですか。
別人です。『神統記』は海の老神ポルキュスとケトの娘として、三人で一つの目を使い回すグライアイを挙げ、その一人をエニュオと呼びます。名前が同じだけで、血のつながりも役目の重なりもありません。
ローマではどの神にあたりますか。
ベローナです。首都に神殿を持ち、宣戦を告げる儀礼が行われました。ギリシャでは社を持たなかったこの神格が、ローマでは国家の儀礼に組み込まれています。
祀られた場所はありますか。
単独で祀った神殿は確かめられませんでした。アレスの祀りのなかで名を呼ばれる形が中心だったと考えられます。