戦場の恐慌そのもの。アレスの馬を軛につなぐ、父に従う二柱の一。
デイモスとは何の神様か
デイモスはひとことで言えば軍が崩れる瞬間です。
アレスとアフロディテの子。兄弟のポボス(恐怖)と必ず対で語られます。
『神統記』は、この二柱の働きをこう書きます。
隊列を組んだ人の群れを、震えさせて崩す。
刀で殺すのではなく、逃げ出させるのが仕事です。
『イリアス』では、アレスが戦場へ出るときにこの二柱へ命じて馬を車につながせます。戦の神は、恐怖を御者として連れていることになります。
デイモスは目の前の恐慌、ポボスは逃走に至る恐怖と読み分けられることが多いのですが、古代の書物は二つを厳密に分けていません。 ほとんどの場面で、二柱はひとまとまりに扱われます。
火星の二つの衛星のうち、外側の小さいほうがこの名を負います。名は『イリアス』の一節から選ばれました。
デイモスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Δεῖμος。日本語では「デイモス」と書きます。
この名は、恐れを意味する普通名詞です。兄弟のポボスも同じく恐れを意味し、二つの語の違いは、古代の用法でもはっきりしません。
近代の解説では「デイモスは恐慌、ポボスは敗走をもたらす恐怖」といった説明が見られますが、原典にその区別を裏づける記述はありません。 二柱はほぼ常に並べて語られ、単独で働く場面がほとんどないためです。
この名は、火星の衛星の名として世界中に知られました。名づけたのは十九世紀のアメリカの天文学者で、『イリアス』でアレスが二柱に馬をつながせる一節から取られたと伝えられます。
同じ語根から、恐れを意味する別の形の語も作られています。動物が急に目玉模様を見せて相手をひるませる行動を指す学術語は、この語から来ています。
Δεῖμος(デイモス)
古代ギリシャ語の表記。恐れ・恐慌を意味する普通名詞でもある。
デイモース(デイモース)
長音を残した学術的な表記。
フォルミードー(フォルミードー)
ローマで恐れを意味した語。この神に対応する存在として、詩人が軍神の従者に数えることがある。
デイマ(デイマ)
同じ語根から作られた、恐れを意味する中性名詞。動物が相手をひるませる行動を指す学術語は、この語から作られている。
デイモスの物語
軍神の子ら ─ 崩す係
『神統記』は、アレスとアフロディテのあいだに生まれた子を三柱挙げます。
ポボスとデイモス、そして調和の女神ハルモニア。
恐怖と恐慌と、調和が兄弟です。 ギリシャ神話でもとりわけ落差の大きい系譜になっています。
二柱の働きは一貫しています。隊列を崩すことです。
古代の戦いでは、密集した隊列がそのまま戦力でした。互いに盾を並べて押し合い、どちらかの列が崩れた瞬間に勝敗が決まります。実際の死者の多くは、崩れて背を向けたあとに出ました。
つまり、
戦いを決めるのは、殺す力ではなく、崩す力である。
この経験が、二柱の神を生んだと考えられます。
『イリアス』は、アレスが出撃するときの様子を書きます。
恐怖と恐慌に命じて、馬を車につながせた。
戦の神の支度をするのが、この二柱の役目でした。父の従者として、戦場のどこにでも現れます。
盾に描かれる ─ 恐れを武器にする
この二柱には、具体的な使われ方がありました。武具の意匠です。
『イリアス』第11歌は、アガメムノンの盾を描写します。
中央には、恐ろしい目つきのゴルゴンの顔があり、 その周りにデイモスとポボスが置かれていた。
盾の役目は、防ぐことだけではありません。相手が身構える前に退かせることも、盾の働きでした。
パウサニアスは、オリンピアに納められていた古い櫃の装飾についても記しています。そこにもアガメムノンの盾があり、
盾の上には、獅子の頭をした恐怖が乗っていた。
と書かれていました。
この使い方は、理屈が通っています。恐怖の神を盾に描けば、恐怖そのものを味方につけたことになります。
古代ギリシャの武具には、ゴルゴンの顔をはじめ、見る者を怯ませる意匠が数多く付けられました。この二柱は、その考え方が人格になったものです。
祀るというより、持ち歩く神でした。
火星の衛星 ─ 名前だけが遠くへ行った
1877年、火星に二つの衛星が見つかりました。名づけられたのがポボスとデイモスです。
内側を回る大きいほうがポボス、 外側を回る小さいほうがデイモス。
名は『イリアス』の一節から取られ、提案したのはイギリスの学校教師だったと伝えられます。軍神の名を持つ星に、その従者の名を付けたことになります。
どちらも非常に小さく、丸い形をしていません。じゃがいものような不整形で、もともとは小惑星が捕らえられたものではないかとする見方があります。ただし、この点は決着していません。
デイモスのほうは、火星の表面から見ると、ゆっくり空を横切ります。二つの衛星は、動きも見え方も違います。
この命名によって、神としてはほとんど祀られなかった二柱の名が、世界中の教科書に載りました。
神話の登場人物としては脇役でも、天文の名としては主役級。
抽象の神が現代に残る道筋として、これはよくある形です。星の名は、神話の記録の少なさとは関係なく付けられるからです。
デイモスの家系図と家族
デイモスの性格と人物像
デイモスには、台詞も意志もありません。
父の馬をつなぎ、戦場に付き従い、盾の意匠になる。原典に残るのはそれだけです。単独で何かを決めた場面が、一つもありません。
この神を理解する鍵は、常に二柱一組であることです。ポボスと切り離して語られる場面はほとんどありません。
二つで一つの働きをする。
性格の描き分けが無いのは、そのためです。近代の解説が「デイモスは恐慌、ポボスは敗走の恐怖」と説明することはありますが、原典にその裏づけはありません。
もう一つ、この神は味方にも敵にも働きます。 どちらの軍が崩れるかを選びません。父アレスが好きなだけ戦場を歩き回るのと同じで、恐慌は、どちらの側にも等しく訪れます。
姉妹にハルモニア(調和)がいることは、覚えておく価値があります。恐怖と恐慌と調和が同じ両親から生まれるという系譜は、戦と美が結びついた結果として書かれました。
何も語らないのに、戦場のすべての場面にいる神です。
デイモスゆかりの地と遺跡
デイモスを祀った神殿は確かめられませんでした。
兄弟のポボスには、スパルタに社があったとプルタルコス?が伝えます。しかし、この神については同じ記録が見つかりません。
かわりに残ったのは、武具の意匠です。『イリアス』はアガメムノンの盾にこの二柱が置かれていたと書き、パウサニアスもオリンピアに納められていた古い櫃の装飾に同じ図があったと記しています。
祀る対象というより、持ち歩いて相手に見せる神でした。
名が最も広く残ったのは、天文の分野です。火星の外側を回る小さな衛星が、この名で呼ばれています。神殿を持たなかった神の名が、世界中の教科書に載ることになりました。
デイモスが現代に残した痕跡
デイモスの名は、火星の衛星として世界中に知られています。
火星の衛星デイモス: 1877年に見つかった二つの衛星のうち、外側を回る小さいほう。名は『イリアス』の一節から取られ、イギリスの学校教師が提案したと伝えられる。
恐れを表す学術語: 同じ語根から、動物が急に目玉模様などを見せて相手をひるませる行動を指す語が作られている。
盾の意匠: アガメムノンの盾に、ゴルゴンの顔とともに置かれていたと『イリアス』は書く。相手を怯ませるための図として使われた。
調和の女神との兄弟関係: 同じ両親から生まれた姉妹にハルモニアがいる。恐怖と恐慌と調和が兄弟という、落差の大きい系譜になっている。
デイモスが司るもの
戦
隊列を崩すことで戦いの勝敗を決める働きを司る。
戦の始まり
アレスが出撃するとき、馬を車につなぐのがこの二柱の役目だった。
警戒
恐れは、避けるべきものであると同時に、身を守らせる働きでもあった。
厄除け
盾や武具の意匠として描かれ、相手を近づけないために用いられた。
デイモスについてよくある質問
デイモスはどんな神ですか。
戦場の恐慌そのものを司る神です。アレスとアフロディテの子で、兄弟のポボスと必ず対で語られます。隊列を崩し、兵を逃げ出させるのが働きとされました。
ポボスとの違いは何ですか。
はっきりしません。どちらも恐れを意味する語で、原典は二つを厳密に分けていません。近代の解説が役割を分けて説明することはありますが、原典に裏づけはありません。
火星の衛星の名前ですか。
そうです。1877年に見つかった二つの衛星のうち、外側を回る小さいほうがこの名です。軍神の名を持つ星に、その従者の名が付けられました。
ハルモニアと兄弟というのは本当ですか。
本当です。『神統記』は、アレスとアフロディテの子としてポボス・デイモス・ハルモニアの三柱を挙げます。恐怖と恐慌と調和が同じ両親から生まれています。
祀られた場所はありますか。
確かめられませんでした。兄弟のポボスにはスパルタに社があったと伝えられますが、この神については記録が見つかりません。かわりに武具の意匠として広く用いられました。
デイモスと併せて覚えたい言葉・用語
プルタルコス(Plutarch)
ギリシャの著述家。『イシスとオシリスについて』を書いた。オシリス神話が一続きの物語として読めるのはこの書だけだが、ギリシャ語で、神話の成立から二千年以上あとの記録である点に注意が要る。