世界の最も底。神の名であり、同時に場所の名でもある。
タルタロスとは何の神様か
タルタロス?はひとことで言えば神であり、場所でもある存在です。ローマでもタルタロス(タルタルス)のまま使われました。
ヘシオドス『神統記』は、世界の初めに生じたものとして四つを並べます。
まずカオス。次に、広い胸のガイア。 そして、広い道を持つ大地の奥底にあるタルタロス。さらにエロス。
つまりタルタロスは、大地と同じくらい古い存在です。 誰かに作られた牢獄ではなく、世界と一緒に生じています。
深さの説明が具体的です。
青銅の金床を天から落とせば、九日九夜落ち続けて、十日目に地に着く。 地から落とせば、同じだけかかってタルタロスに着く。
周囲は青銅の壁と門で閉ざされ、百腕の巨人ヘカトンケイルが番をします。ティタノマキア?に敗れたティタン神族?が閉じ込められたのはここです。
ガイアとのあいだに、神話最大の怪物テュポーンを生みました。場所でありながら、子を持つ神でもあるわけです。
タルタロスのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Τάρταρος。日本語では「タルタロス」で定着しています。
語源は分かっていません。 ギリシャ語のなかに説明のつく語根がなく、外から入った語ではないかとする見方があります。原初の存在の名には、この形のものがいくつかあります。
ローマでも綴りが変わるだけで、別の神には置き換わりませんでした。ローマ神話に「奈落そのもの」を担う神がいなかったためです。
注意したいのは、この語が神の名と場所の名を兼ねることです。原初の神々にはこの二重性がしばしば見られ、カオスもエレボスも同じ形をしています。
なお、料理の「タルタルソース」とはまったく関係がありません。あちらは中央アジアのタタール人に由来する語です。
Τάρταρος(タルタロス)
古代ギリシャ語の表記。語源は分かっていない。ギリシャ語の外から入った語とする見方がある。
Tartarus(タルタルス)
ローマでの綴りと読み。名は置き換えられず、そのまま使われた。
Τάρταρα(タルタラ)
複数形。場所として言うときは複数形が用いられることがある。
タルタルス(タルタルス)
日本語での別表記。ラテン語読みに寄せた形で、翻訳によって使い分けられる。
タルタロスの物語
- 最初からあった底 ─ 作られた牢獄ではない
- 青銅の門と百腕の番人 ─ 何が閉じ込められているか
- 罰の場所へ変わる ─ 人間が落とされるようになった経緯
- テュポーンの父 ─ 場所が子を持つということ
- なぜ記録が少ないのか ─ 祀られない神の典型
最初からあった底 ─ 作られた牢獄ではない
多くの人が、タルタロスを「ゼウスが敵を閉じ込めるために作った牢獄」だと思っています。原典はそう書いていません。
『神統記』の冒頭で、世界の初めに生じたものとして並ぶのは四つです。
カオス(空隙)、ガイア(大地)、タルタロス(奈落)、エロス(欲求)。
世界が始まった時点で、底はもう用意されていました。 誰かが掘ったのでも、罰のために設けたのでもありません。
この並びには意味があります。大地があるなら、その下がある。上と下は同時に生じます。天ウラノスは後からガイアが生んだ子ですが、下の方向だけは最初から独立して存在しているのです。
位置の説明も具体的です。
大地の根と、荒れた海の根が、その上に生えている。
大地も海も、タルタロスの上に根を張っていることになります。土台であって、付属物ではありません。
この構造を押さえておくと、後の話が読みやすくなります。ゼウスがティタン神族を落としたのは、もともとあった底を使っただけです。新しく作ってはいません。
青銅の門と百腕の番人 ─ 何が閉じ込められているか
ティタノマキアに勝ったゼウスは、敗れたティタン神族をここへ落としました。
ポセイドンが青銅の門を立て、周囲を壁で囲った。 番人として、百の腕を持つ三人が置かれた。
百腕の巨人ヘカトンケイルは、もともとウラノスによってここに閉じ込められていた者たちです。ゼウスが解放し、戦いで味方につけ、戦後は看守として同じ場所に残しました。
囚人だった者が、番人になっています。
閉じ込められているのは、時代によって増えていきます。
ティタン神族。 のちにエトナ山の下へ移されるまでのテュポーン。 神々に反逆した巨人族。
門の内側の描写も残っています。夜と昼はこの入口ですれ違う。片方が家に入るとき、もう片方が出ていく。二人が同時に中にいることはないとヘシオドスは書きます。
近くには、神々が誓いを立てるときに水を汲むステュクスの流れもあります。奈落は罰の場所であると同時に、世界の仕組みが集まる場所として描かれています。
罰の場所へ変わる ─ 人間が落とされるようになった経緯
ヘシオドスのタルタロスに、人間はいません。 落とされているのは神々だけです。
これが変わるのは後の時代です。プラトンは対話篇のなかで、死後の裁きを受けた魂のうち、
治らぬほどの罪を犯した者は、タルタロスへ投げ込まれ、二度と出てこない。
と語りました。ここで人間の魂が入る場所になります。
さらにローマの詩人ウェルギリウスが『アエネイス』第6巻で、冥界を訪れる場面を詳しく書きました。二重の壁、火の川、鉄の塔、眠らない番人。そして罰を受ける有名な者たちが並びます。
タンタロスは、水と果実を目の前にしながら永遠に届かない。 シシュフォスは、押し上げた岩が頂上で転げ落ちるのを繰り返す。 イクシオンは、燃える車輪に縛られて回り続ける。 ダナイデスは、底のない甕に水を注ぎ続ける。
いま「タルタロス」と聞いて思い浮かぶ光景は、ほぼこの系統のものです。 ヘシオドスの奈落は、ただ深く、暗く、閉ざされているだけでした。
キリスト教が広まると、この語は地獄を指す言葉として使われるようになります。意味の変化は、ここまでたどれます。
テュポーンの父 ─ 場所が子を持つということ
タルタロスが「ただの場所ではない」ことを示すのが、子がいるという一点です。
『神統記』の終盤、ティタン神族が片付いたあとに、ガイアが最後の子を生みます。
大地は、黄金のアフロディーテの助けを得て、 タルタロスと交わり、末子テュポエウスを生んだ。
頭が星に届き、肩から百の蛇の頭が生えた神話最大の怪物です。オリュンポスの神々は動物に姿を変えてエジプトへ逃げ、ゼウスだけが残って戦い、一度は敗れました。
大地と奈落のあいだに生まれた子が、最強の怪物になっています。 上と下の両端が結び付いた結果です。
ここに、この存在の性格がよく出ています。場所であって、同時に力を持った存在でもある。 抽象と具体のあいだに立っています。
ギリシャ神話では、この形が珍しくありません。海オケアノスは流れであり神であり、大地ガイアは土であり女神です。現象と人格が分かれていないのが、原初の神々の特徴です。
タルタロスは、そのなかでも最後まで人格を持たなかった側に属します。台詞も、姿の描写も、行動もありません。書かれているのは深さと、子を持ったことだけです。
なぜ記録が少ないのか ─ 祀られない神の典型
タルタロスの記述は、驚くほど少ないものです。
系譜のなかで名が挙がり、深さが語られ、テュポーンの父とされる。それでほぼ全部です。神殿もなく、祭壇もなく、祈りの言葉も伝わっていません。
理由は明快です。
祈っても、返ってくるものがない神だからです。
穀物の神には実りを、海の神には航海の安全を願えます。奈落に願うことは何もありません。 落とされないことを願うにしても、そこは神々が敵を投げ込む場所であって、本人が決めているわけではありません。
現象そのものである原初の神は、ギリシャではほとんど祀られませんでした。 カオスにもエレボスにもアイテールにも神殿はありません。タルタロスも同じです。
ただし、誓いの場面では例外的に名が出ます。 神々が最も重い誓いを立てるとき、破れば「タルタロスに落ちる」と言い添えられました。名前だけが、罰の重さを示す言葉として使われたのです。
記録が乏しいのは資料が失われたためではありません。はじめから、世界の底という条件として置かれた存在だからです。
タルタロスの家系図と家族
タルタロスの性格と人物像
タルタロスに、性格と呼べるものはありません。
言葉を発した記録がなく、姿の描写もなく、他の神と関わった場面もありません。ヘシオドスが与えたのは「在る」ことと「子を持った」ことだけです。
では、この存在を語る意味はどこにあるのか。「どこまでも下がある」という感覚そのものが、この神の中身です。
ギリシャ神話の世界は、上下にきちんと積み重なっています。天、大地、冥界、そしてその下の奈落。天と地の距離と、地と奈落の距離が同じだと書かれているのは、世界が上下対称に作られていることを示すためです。
この底があるおかげで、神話は「絶対に戻れない場所」を持てました。倒した敵をどこへやるかという問題に、答えが用意されています。
注目したいのは、恐ろしさの質です。ハデスの国は死んだ者が行く場所で、誰でもいつかは行きます。タルタロスは違います。行くのは、負けて投げ落とされた者だけです。
死よりも下に、もう一段ある。その一段があること自体が、この存在の役割でした。
タルタロスゆかりの地と遺跡
タルタロスを祀った神殿も祭壇も、確認できていません。 奈落そのものであり、祈る対象にならなかったためです。
原初の神には共通する事情で、カオスにもエレボスにも神殿はありません。現象そのものである神は、ギリシャではほとんど祀られませんでした。
ゆかりの地として挙げられるのは、冥界の入口とされた場所です。ギリシャ本土最南端のタイナロン岬の洞窟がそれにあたり、ヘラクレスがケルベロス?を引き出した場所と伝えられます。
ただし、これは冥界(ハデスの国)の入口であって、タルタロスそのものの入口ではありません。 タルタロスは冥界のさらに下にあります。この区別は原典でも守られており、ここでも守っておきます。
奈落そのものに、地上のどこかを対応させる伝えは残っていません。
タイナロン岬(Tainaron)
古代に冥界の入口とされた岬
タイナロン岬の住所: ギリシャ ラコニア地方 マニ半島 タイナロン岬(マタパン岬)
タイナロン岬の祀られた神: (ポセイドンの聖域があった。タルタロスを祀った施設ではない)
タイナロン岬に残るもの: 洞窟と、ポセイドン聖域の跡
ギリシャ本土の最南端にあたる岬です。ここには洞窟があり、古代には冥界への入口と考えられていました。ヘラクレスが番犬ケルベロスを地上へ引き出したのは、この場所からだと伝えられます。
ただし、ここはタルタロスへの入口とされたわけではありません。 冥界(ハデスの国)の入口であり、タルタロスはさらにその下にあります。混同されやすい点なので、はっきり分けておきます。
岬にはポセイドンの聖域があり、その跡が残ります。タルタロスを祀った施設は、ここにもどこにもありません。
所在は古代地名事典プレイアデス(Tainaron/Cape Matapan)で確認した。
タルタロスが現代に残した痕跡
タルタロスの名は、地獄を指す言葉として現代に残りました。
地獄を指す語としてのタルタロス: 新約聖書のギリシャ語本文にこの語を動詞化した形が現れ、以後、キリスト教圏で地獄の底を指す言葉として使われるようになった。
「タンタロスの苦しみ」という言い回し: 目の前にありながら決して手が届かない状態を指す。タルタロスで罰を受ける王の名から出た表現で、英語の tantalize(じらす)もここから来ている。
「シシュフォスの岩」という言い回し: 終わりのない徒労を指す。同じくタルタロスで罰を受ける王の名による。
創作における最下層の名: ゲームや小説で、世界の最深部や最重要の監獄にこの名を与える例が非常に多い。原典の「神々の牢獄」という位置がそのまま使われている。
タルタロスが司るもの
祈願の対象ではありません
奈落そのものであり、神殿も祭壇も伝わっていない。祈って返ってくるものがない存在として、古代から祀られなかった。
タルタロスが登場するゲーム・アニメ
創作では、ほぼ「最下層の監獄」として使われます。 原典の位置がそのまま生きている珍しい例です。
一方で、タルタロスが神でもあるという点はほとんど採られません。テュポーンの父であり、大地と並ぶ原初の存在であるという側面は、場所として描くと落ちてしまうためです。
また、多くの作品でタルタロスは冥界の一部として描かれますが、原典ではハデスの国よりさらに下にある別の領域です。
タルタロスが登場するゲーム
各種ロールプレイングゲームの最下層
迷宮や監獄の最深部にこの名を付ける例が多く見られます。
タルタロスが登場するアニメ・漫画・映像
各種の神話解説書
ギリシャの世界像を図示するとき、天・地上・冥界・タルタロスの四層として描かれるのが定型です。
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タルタロスについてよくある質問
タルタロスとは何ですか。
世界のもっとも底にある奈落です。同時に、そこを神格化した原初の神の名でもあります。ヘシオドス『神統記』では、カオス・ガイア・エロスと並んで世界の初めに生じたものとして挙げられています。
タルタロスのローマ名は何ですか。
ローマでも同じくタルタロス(Tartarus)で、読みが「タルタルス」になるだけです。ローマ神話に奈落そのものを担う神がいなかったため、名は置き換えられませんでした。
タルタロスと冥界(ハデスの国)は同じですか。
違います。ハデスの国は死んだ者が行く場所で、誰でもいつかは行きます。タルタロスはそのさらに下にあり、戦いに負けて投げ落とされた者が閉じ込められる場所です。天から地までの距離と、地からタルタロスまでの距離が同じだとヘシオドスは書いています。
タルタロスには誰が閉じ込められていますか。
ティタノマキアに敗れたティタン神族です。青銅の門と壁で閉ざされ、百の腕を持つヘカトンケイルが番をします。この番人たちは、もとは同じ場所に閉じ込められていた者で、ゼウスに解放されたあと看守として残りました。
タルタロスに人間は落とされますか。
ヘシオドスの記述では神々だけです。人間の魂が落とされるようになるのは後の時代で、プラトンやローマの詩人ウェルギリウスがそう書きました。タンタロスやシシュフォスが罰を受ける場面は、この系統のものです。
タルタロスは誰かの子ですか。
いいえ。世界の初めに、誰にも生まれずに生じました。逆に、大地ガイアとのあいだに神話最大の怪物テュポーンを生んでいます。場所でありながら、子を持つ神でもあるという二重性を持ちます。
タルタロスの神殿はありますか。
確認できていません。奈落そのものであり、祈って返ってくるものがない存在だからです。原初の神には共通する事情で、カオスにもエレボスにも神殿はありません。
タルタロスと併せて覚えたい言葉・用語
タルタロス(Τάρταρος)
冥界よりさらに深い奈落。神々に逆らった者が落とされる。ティタン神族が封じられている。青銅の金床を天から落とせば大地まで九日、大地からここまでさらに九日かかるとされる。
ティタノマキア(Titanomachia)
ゼウス率いるオリュンポスの神々と、クロノス率いるティタン神族の戦争。十年続き、解放されたキュクロプスとヘカトンケイルの加勢で決着した。
ティタン神族(ティタンしんぞく)
ウラノスとガイアの子である十二柱の神々。クロノスを王とし、ゼウスとの十年戦争に敗れてタルタロスへ落とされた。「タイタン」とも表記する。
ケルベロス(Κέρβερος)
冥界の門を守る三つ首の犬。入る者は通すが、出る者は通さない。テュポーンとエキドナの子。