人を惑わせる力。ゼウスに髪をつかまれ、天から投げ落とされた。
アーテとは何の神様か
アーテはひとことで言えば判断を狂わせるものです。
名は「惑い」と、「その結果としての破滅」の両方を指します。原因と結果が、一つの語に収まっています。
『イリアス』第19歌で、総大将アガメムノンは自分の失策をこの女神のせいだと語ります。
アーテは足が柔らかい。地を踏まず、 人の頭の上を歩いて、次々に迷わせる。
ゼウス自身も一度だまされました。ヘラの策でヘラクレスの誕生を先取りされたとき、怒った最高神は、
アーテの髪をつかみ、二度と天へは戻さぬと誓って、 星空から地上へ投げ落とした。
以後この女神は、神々のあいだではなく人間のあいだを歩いています。
後を追うのは祈りの女神たちです。足を引きずり、皺だらけで、いつも遅れて着きます。
系譜は二通りあります。ホメロスはゼウスの娘、ヘシオドスは争いの女神エリスの子とします。
アーテのギリシャ名・ローマ名と読み方
古代ギリシャ語では Ἄτη。日本語では「アーテ」「アテ」と書きます。
この語の特徴は、原因と結果を同じ一語で表すことです。 人の判断を狂わせる働きも、その結果として訪れる破滅も、どちらもアーテと呼ばれます。
惑ったこと。そして、惑ったせいで滅びたこと。 二つを分けて呼ばない。
日本語には、これに当たる一語がありません。「魔が差す」が近いかもしれませんが、破滅までは含みません。
ギリシャ悲劇では、この語が骨組みになります。人が思い違いをし、取り返しのつかない行いをして、滅びる。その一続きの流れを、一語で指せることが、悲劇の言葉づかいを支えました。
注意したいのは、女神アテナとの混同です。名前が似ていますが、まったく別の存在です。日本語で「アテ」と書くと紛らわしいため、この図鑑では「アーテ」と表記しています。
ローマにこの女神に当たる神はおらず、名前がそのまま使われました。
Ἄτη(アーテ)
古代ギリシャ語の表記。惑い・破滅を意味する普通名詞でもあり、原因と結果の両方を指す。
アテ(アテ)
長音を省いた表記。女神アテナとは別の存在なので、混同に注意が要る。
アーテー(アーテー)
長音をすべて残した学術的な表記。
リタイ(リタイ)
「祈り」を意味する語。アーテの後を追う女神たちの名で、ゼウスの娘とされる。
アーテの物語
アガメムノンの弁明 ─ 私のせいではない
『イリアス』の第19歌は、ギリシャ文学のなかでも議論を呼び続けている場面です。
アキレウスと総大将アガメムノンが、ようやく和解します。そこでアガメムノンは、自分がしたこと──アキレウスから戦利品の女を取り上げたこと──について語ります。
ところが、その言い分がこうです。
私が悪いのではない。 ゼウスと運命と、闇を行く復讐の女神が、 私の心に激しいアーテを投げ込んだのだ。 神が仕上げることを、誰が妨げられよう。
そして、アーテがどういう存在かを説明します。
ゼウスの長女で、すべてを惑わせる恐ろしい者。 足は柔らかい。地を踏まないからである。 人の頭の上を歩いて、人を害する。
自分の過ちを、神の仕業として説明しています。
これを責任逃れと読むか、当時の常識と読むかで、評価が分かれてきました。
ただし、アガメムノン自身は続けてこう言います。
それでも、惑わされたからには、償わねばならない。
神のせいだが、責任は取る。 ギリシャの考え方は、この二つを同時に成り立たせています。原因が外にあることと、責任を負うことは、矛盾しません。
この場面は、後の哲学や法の議論でも繰り返し取り上げられてきました。
天から投げ落とされる ─ ゼウスも惑った日
アガメムノンの弁明には、続きがあります。ゼウス自身がアーテに惑わされた話です。
ヘラクレスが生まれようとしていたとき、ゼウスは神々の前で宣言しました。
今日生まれる、私の血を引く子が、 周りの人々を治める王となるだろう。
ヘラは、この言い方に隙を見つけます。誓わせたうえで、出産を遅らせ、別の家に先に子を生ませました。生まれたのがエウリュステウスです。
のちにヘラクレスが十二の難業を課されるのは、この王に仕えることになったからです。
誓ってしまった以上、取り消せません。ゼウスは激怒しました。
光る髪をつかみ、激しい怒りに誓った。 二度とオリュンポスと星空へは戻さぬと。 そして振り回して、天から投げ落とした。
落ちた先は人間の世界です。以後アーテは、人のあいだを歩き続けています。
落ちた場所については、のちにトロイアの町が築かれた丘だとする伝えがあります。あの戦争の土地に、惑いの女神が落ちていたという筋立てです。
この話が持つ意味は大きいものです。最高神ですら惑う。 そして、惑ったあとで自分を惑わせたものを追放する。アーテが人間界にしかいないのは、ゼウスがそうしたからだと説明されています。
祈りの女神たち ─ 足を引きずって追う者
アーテには、追いかける者がいます。『イリアス』第9歌で、老将ポイニクスがアキレウスを説得するために語る話です。
祈りの女神たちは、大神ゼウスの娘である。 足が悪く、皺だらけで、目は伏せられている。 アーテの後を、苦労して追いかけている。
対比が鮮やかです。
アーテは強く、足が速い。 だからはるかに先を行き、地上を駆け回って人を害する。 祈りの女神たちは、そのあとから来て癒す。
害はすぐ来て、その手当ては遅れて来る。 誰もが知っている順序を、二組の神で表しています。
そして、老将は肝心のことを言います。
この女神たちを敬い、近づいたときに受け入れる者には、 大きな益がある。願いを聞いてもらえる。 しかし、拒んで追い返す者には、
祈りの女神たちがゼウスに訴え、アーテがその者に付くというのです。
謝りに来た相手を拒むと、次は自分が惑わされる。 ポイニクスは、この話をアキレウスへの説得に使いました。アガメムノンが謝罪の使者を送っているのだから、受け入れよ、と。
アキレウスは拒みます。そして親友パトロクロスを失います。この話は、そのまま予告になっていました。
驕りから破滅へ ─ 後世が作った筋道
アーテは、しばしばある流れのなかの一段階として説明されます。
驕り(ヒュブリス)があり、 惑い(アーテ)が来て、 報い(ネメシス)が下る。
この筋道は分かりやすく、ギリシャ悲劇の構造としてよく紹介されます。ただし、原典にこの順序をはっきり書いた箇所はありません。
後の時代の研究者が、複数の作品から取り出して整理した図式です。
それでも、この整理が支持されてきたのには理由があります。悲劇の筋立てが、実際にこの形を取ることが多いからです。
身の丈を超えた振る舞いがあり、判断が狂い、破滅する。ソポクレスの作品にも、アイスキュロスの作品にも、この流れは見つかります。
ただし、注意点があります。
ホメロスのアーテは、罰ではありません。 アガメムノンは驕ったから惑わされたのではなく、ただ惑わされました。神が投げ込んだ、それだけです。
悲劇の時代になると、因果の色が濃くなります。惑いは、それに先立つ何かの結果として説明されるようになりました。
同じ女神の位置づけが、時代とともに動いている。
この図鑑では、後世の整理を紹介しつつ、それが後世のものだと書き添える方針を取りました。分かりやすい図式ほど、出どころを確かめる必要があります。
アーテの家系図と家族
アーテの性格と人物像
アーテは、ギリシャの抽象の神のなかでもっとも動きのある一柱です。
歩きます。人の頭の上を、柔らかい足で。地面を踏みません。姿の描写が具体的に残っている抽象の神は、多くありません。
性格として書かれているのは、速さと強さです。祈りの女神たちを引き離して先を行き、地上を駆け回ります。
害は速く来る。手当ては遅れて来る。
この対比が、この女神の性格そのものです。
もう一つの特徴は、誰にでも取り憑くことです。人間だけではありません。ゼウスさえ惑わせました。 神も人も区別しないという点で、この女神は運命の三女神に近い位置にいます。
ただし、選んで狙うのではありません。 恨みもひいきもなく、ただ歩き回ります。
興味深いのは、追放されたことです。ゼウスは髪をつかんで天から投げ落とし、二度と戻さぬと誓いました。ギリシャ神話で、神が神を追放する場面はごくわずかです。
神々の世界から追い出され、人間の世界に置き去りにされた神。 アーテの位置は、それだけで一つの説明になっています。
人が判断を誤るのは人間だけの問題だと、ギリシャ人が考えていたわけではありません。神も惑う。ただし、惑いは地上に落ちた。 そういう整理です。
アーテゆかりの地と遺跡
アーテを祀った神殿は確かめられませんでした。 取り憑かれたくない相手であり、招く神ではないためです。
ゆかりの地として語られるのは、トロイアです。ゼウスに天から投げ落とされたアーテが落ちた場所が、のちにトロイアの町が築かれた丘だとする伝えがあります。あの戦争の土地に、惑いの女神が落ちていたという筋立てです。
ただし、この伝えを記す資料は限られており、遺構として確かめられるものはありません。
対になる祈りの女神たちについても、祀られた記録は見つかりませんでした。
一方、この女神と組にして語られるネメシスには、はっきりした神域があります。アッティカ地方のラムヌスで、いまも神殿の基壇が残ります。
惑わせる神は祀られず、報いる神は祀られた。 ギリシャ人がどちらに祈ったのかが、そのまま形になっています。
アーテが現代に残した痕跡
アーテの名は、悲劇を読み解く言葉として現代に残りました。
悲劇論の用語: 判断を狂わせる働きと、その結果としての破滅を一語で指す。ギリシャ悲劇を論じるとき、いまも原語のまま使われる。
「驕りから破滅へ」という図式: 驕り・惑い・報いという流れの中間に置かれる。ただしこの順序は後の時代の研究者が整理したもので、原典にそのまま書かれてはいない。
小惑星の名: 小惑星の一つにこの女神の名が付けられている。
足を踏まない歩き方: 地面を踏まず人の頭の上を歩くという描写は、後の詩や絵画で繰り返し引かれた。抽象の神に具体的な姿が与えられた珍しい例である。
アーテが司るもの
狂気の由来
人の判断を狂わせる働きを司る。名は惑いと破滅の両方を指す。
戒め
謝りに来た相手を拒むと、次は自分に付くと『イリアス』は語る。
過ちを繰り返さないこと
惑わされた者も償わねばならないという考えが、この女神をめぐる場面に示されている。
失敗からの立て直し
祈りの女神たちが後から来て癒すとされ、遅れて訪れる手当てと対になる。
厄除け
取り憑かれることを避けたい相手として、遠ざけることが願われた。
アーテが登場するゲーム・アニメ
創作でのアーテは、抽象の神としては珍しく、姿を借りやすい神です。 頭の上を歩く、足が速い、髪をつかまれて落とされた。原典に具体的な描写が残っているためです。
ただし、この女神が主役になることはほとんどありません。誰かを惑わせる役であって、自分の物語を持たないからです。人物というより、登場人物に降りかかるものとして使われます。
アーテが登場する文学
ホメロス『イリアス』第19歌
アガメムノンが自分の失策をこの女神のせいだと語り、ゼウスが天から投げ落とした話を伝えます。
ホメロス『イリアス』第9歌
老将ポイニクスが、祈りの女神たちがアーテを追いかける話を語ります。謝罪を拒む者に何が起きるかという説得です。
アーテが登場するゲーム・創作
破滅を司る存在としての登場
判断を狂わせる力として名が使われます。姿の描写が原典にあるぶん、造形の手がかりがあります。
悲劇を下敷きにした作品
驕りから破滅へ向かう筋立ての説明として、この語が引かれることがあります。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
アーテについてよくある質問
アーテはどんな神ですか。
人の判断を狂わせ、破滅へ向かわせる力です。名は「惑い」と「その結果としての破滅」の両方を指します。ホメロスはゼウスの長女とし、ヘシオドスは争いの女神エリスの子とします。
なぜ天から投げ落とされたのですか。
ヘラクレスの誕生をめぐって、ゼウス自身がこの女神に惑わされたからです。誓いの言葉に隙があり、ヘラの策で別の子が先に生まれてしまいました。怒ったゼウスはアーテの髪をつかみ、二度と天へは戻さぬと誓って地上へ投げ落としました。以後この女神は人間のあいだを歩いています。
祈りの女神たちとは何ですか。
アーテの後を追いかけるゼウスの娘たちです。足が悪く、皺だらけで、目を伏せています。アーテは速く先を行き、この女神たちは遅れて来て癒します。謝りに来た相手を拒む者には、次はアーテが付くと『イリアス』は語ります。
驕りから破滅へという流れは本当ですか。
後の時代の研究者が複数の作品から取り出して整理した図式です。原典にこの順序をはっきり書いた箇所はありません。ホメロスのアーテは罰ではなく、ただ神が投げ込むものでした。悲劇の時代になって、因果の色が濃くなります。
アーテを祀った神殿はありますか。
確かめられませんでした。取り憑かれたくない相手であり、招く神ではないためです。落ちた場所がのちにトロイアの町が築かれた丘だとする伝えはありますが、遺構として確かめられるものはありません。