フレイヤの猪。その正体は、女神の愛した人間だったともいう。
ヒルディスヴィーニとは何の神様か
ヒルディスヴィーニはひとことで言えば中身が人間かもしれない猪です。愛の女神フレイヤが持つ猪で、名は「戦いの猪」を意味します。ヒルディスヴィンとも書かれます。
登場するのは古エッダ?の『ヒュンドラの歌』です。そこで語られるのは、正体をめぐる話でした。フレイヤの愛人である人間のオッタルが、女神の術で猪に変えられた姿だというのです。
乗り物の中身が、乗せている女神の恋人である。 北欧神話でも指折りの妙な設定です。
フレイヤはふだん二匹の猫に車を引かせますが、この猪に乗って移動することもあります。双子の兄フレイも黄金の猪グリンブルスティを持ち、それに乗ります。
兄妹そろって猪に乗るのには理由があります。猪は子をたくさん産む獣であり、豊穣を司るヴァン神族?の聖獣とされたためです。
ヒルディスヴィーニの名前の表記と読み方
古ノルド語では Hildisvíni(ヒルディスヴィーニ)。前半の「ヒルド」が戦い、後半の「スヴィーニ」が猪を指し、あわせて「戦いの猪」あるいは「戦いの家猪」と読めます。
ここで少し引っかかるのが、戦いという語が入っていることです。フレイヤは愛と豊穣の女神として知られますが、同時に戦死者の半分を自分の館に迎える女神でもあります。
猪の名に戦いが入っているのは、この女神の二つの顔のうち、戦のほうを指しているとみられます。
日本語ではヒルディスヴィーニ、ヒルディスヴィン、ヒルディスウィーニなどと書き分けられます。
Hildisvíni(ヒルディスヴィーニ)
古ノルド語の表記。「戦いの猪」を意味する。
Óttarr(オッタル)
フレイヤの愛人である人間の男。この猪の正体とされる。
Gullinbursti(グリンブルスティ)
フレイの猪。「黄金の毛」を意味し、この猪と対をなす。
ヒルディスヴィーニの物語
ヒュンドラの歌 ─ 家系を暗唱する勝負
この猪が出てくる詩は、変わった筋を持っています。
フレイヤの愛人オッタルが、アンガンチュールという人物と先祖の名の暗唱比べをすることになりました。黄金が賭けられています。
オッタルは自分の家系を覚えていません。そこでフレイヤが助けに入りました。
女神はオッタルを猪に変え、それに乗って女巨人ヒュンドラのいる岩穴へ向かいます。
目的は、ヒュンドラにオッタルの家系を語らせることでした。詩の大半は、その家系の暗唱に費やされます。
ヒュンドラは機嫌を損ね、記憶の麦酒をオッタルに渡そうとしません。フレイヤが脅すと、今度は呪いをかけようとします。女神は最後まで愛人をかばい抜きました。
猪の正体 ─ 乗っているのは恋人
この詩でいちばん奇妙なのは、乗り物の正体です。
フレイヤが乗っている猪は、変身したオッタル本人だとされます。
恋人を猪に変え、その背に乗って旅をする。 北欧神話にも変身の話は多くありますが、この形は他に見当たりません。
助けるために姿を変えたのか、隠すために変えたのか、詩ははっきり書いていません。 ヒュンドラのもとへ人間を連れていくのを避けるためだった、という読み方もあります。
なお、この一件から先の話は伝わっていません。オッタルが人に戻れたのか、暗唱比べに勝ったのかも書かれていません。
開いたままで終わるのは、北欧の詩ではよくあることです。
猪という獣 ─ ヴァン神族の聖獣
フレイヤと兄フレイは、そろって猪を持っています。妹はこの猪、兄は黄金の猪グリンブルスティです。
偶然ではありません。猪はヴァン神族の聖獣とされました。
理由は、猪が子をたくさん産む獣だからです。豊穣と多産を司る一族の獣として、これ以上ふさわしいものはありません。
神々の乗り物には、それぞれ意味が込められています。 オーディンは八本足の馬、トールは山羊の車、フレイヤは猫の車と、この猪。
北欧では猪は狩りの獲物でもあり、力の象徴でもありました。戦いの猪という名は、その両面を含んでいます。
そしてフレイヤは、愛と豊穣の女神でありながら戦死者の半分を迎える女神でもあります。豊穣の獣に、戦いの名が付いている。 この一頭は、女神の二つの顔をそのまま名前にしています。
ヒルディスヴィーニの家系図と家族
ヒルディスヴィーニの性格と人物像
ヒルディスヴィーニは、性格を語れない獣です。
中身が人間かもしれないのに、その人間の言葉も記されていません。オッタルは詩のなかで繰り返し「愚かなオッタル」と呼びかけられますが、猪になっているあいだの様子は書かれていません。
それでもこの猪が印象に残るのは、フレイヤという女神の性格をそのまま映しているからです。
愛人のために女巨人のもとへ乗りこみ、脅し、加護を願う。この女神は、守ると決めた相手には手段を選びません。
猪はその足になりました。姿を変えられ、背に乗せられ、岩穴まで運ぶ。
乗り物であり、守られる者であり、恋人でもある。 三つを兼ねる存在は、北欧神話にほかにいません。奇妙な設定ですが、フレイヤという女神を語るうえでは外せない一頭です。
ヒルディスヴィーニゆかりの地と遺跡
この猪を祀った場所は見つかっていません。 名を含む地名も伝わっていません。
ただし猪そのものは、豊穣を司るヴァン神族の聖獣として扱われました。フレイの黄金の猪グリンブルスティと対をなす存在ですが、この猪と直接結びつけられる遺跡や出土品は確認できていません。
ヒルディスヴィーニが現代に残した痕跡
この猪の名は、詩の一節と、猪をめぐる北欧の信仰に残りました。
『ヒュンドラの歌』: この猪が現れる唯一の詩。フレイヤが愛人オッタルを猪に変えて岩穴へ向かう場面が歌われる。
グリンブルスティとの対: フレイが持つ黄金の猪。兄妹そろって猪に乗るという形が、ヴァン神族と猪の結びつきを示している。
「戦いの猪」という名: 愛と豊穣の女神が、戦いの名を持つ猪に乗る。フレイヤが戦死者の半分を迎える女神でもあることと重なっている。
ヒルディスヴィーニが司るもの
豊穣
多産の獣として、豊穣を司るヴァン神族の聖獣とされた。
戦
「戦いの猪」という名を持ち、戦死者を迎える女神の獣とされる。
ヒルディスヴィーニについてよくある質問
ヒルディスヴィーニとは何ですか。
愛の女神フレイヤが持つ猪です。名は「戦いの猪」を意味し、古エッダ『ヒュンドラの歌』に現れます。
猪の正体は人間なのですか。
そう伝えられます。フレイヤの愛人である人間オッタルが、女神の術で猪に変えられた姿だとされます。
フレイヤは猫の車に乗るのではないのですか。
どちらにも乗ります。二匹の猫に引かせた車で移動することもあれば、この猪に乗ることもあると伝えられます。
なぜヴァン神族は猪を持つのですか。
猪が子をたくさん産む獣であるためです。豊穣と多産を司る一族の聖獣とされ、フレイも黄金の猪グリンブルスティを持ちます。
ヒルディスヴィーニと併せて覚えたい言葉・用語
古エッダ(こエッダ)
詩の形で伝わる北欧神話の歌謡集。13世紀の写本に収められたが、成立はさらに古い。作者は不明。
ヴァン神族(ヴぁんしんぞく)
豊穣と富を担う神々の一族。アース神族と戦って和睦し、ニョルズ・フレイ・フレイヤが人質としてアースガルズへ渡った。