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ギリシャ神話

イピゲネイアとは何の神様か|家系図・物語

Ἰφιγένεια  / イピゲネイア

英雄

刃の下で牝鹿とすり替えられ、遠い岸の巫女となった王女。

イピゲネイアとは何の神様か

イピゲネイアはひとことで言えばすり替えられた生贄です。

ギリシャ軍の総大将アガメムノンの娘。トロイアへ向かう艦隊がアウリスの浜で凪に止められ、進むことも退くこともできなくなりました。

占い師カルカスが告げます。アルテミスの怒りを鎮めるには、総大将の娘を捧げるほかない、と。

呼び寄せる口実は、アキレウスとの結婚でした。娘は花嫁として支度をととのえ、母とともに浜へ来ます。祭壇が自分のために用意されていることを、着いてから知りました。

刃が振り下ろされた瞬間、女神は少女を牝鹿とすり替え、遠い北の岸へ運びます。そこで人身御供を司る神殿の巫女となりました。

生贄を捧げていた娘が、生贄を捧げる側になった。

弟オレステスと再会し、女神像を抱えて逃げ帰るまでが物語です。殺されたのか、救われたのか。原典は二つに割れています。

イピゲネイアのギリシャ名・ローマ名と読み方

古代ギリシャ語では Ἰφιγένεια。「強い」を意味する語と「生まれ」を意味する語を合わせた形で、強く生まれた者と読めます。

生贄にされる娘の名としては、いささか強すぎる名前です。

この違和感は、古くから指摘されてきました。ヘシオドスの伝える古い系譜では、この娘は「イピメデ」と呼ばれています。 こちらは「強く支配する者」と読めます。

そして、その古い伝えでは殺されていません。 アルテミスが救い、不死の存在にしたと記されます。

ここから、有力な見方が出ています。もとはアルテミスの一つの姿、あるいはその近くにいた古い女神だったのではないかという説です。人間の王女に格下げされ、生贄の物語に組み込まれた、という筋です。

根拠はほかにもあります。アッティカ地方のブラウロンには、この娘に関わる祭祀が伝わりました。人間の王女に祭祀があるのは異例です。

ローマ経由の「イフィゲニア」という形は、歌劇や絵画の題として広く使われています。

Ἰφιγένεια(イピゲネイア)

古代ギリシャ語の表記。「強く生まれた者」「力ある生まれの者」と読める語形。

イーピゲネイア(イーピゲネイア)

長音を残した学術的な表記。

イフィゲニア(イフィゲニア)

ラテン語を経た読みにもとづく表記。歌劇や絵画の題ではこちらが使われる。

イピメデ(イピメデ)

ヘシオドスの伝える古い形の名。救われたのち不死の存在にされたと記される。

イピゲネイアの物語

  1. 婚礼という嘘 ─ アウリスの浜で起きたこと
  2. 牝鹿とのすり替え ─ 誰も見ていない救い
  3. タウリケの巫女 ─ 弟との再会

婚礼という嘘 ─ アウリスの浜で起きたこと

艦隊はアウリスの浜に集まりました。風が吹きません。 何日待っても、船は出せない。

占い師カルカスが原因を告げます。アルテミスが怒っている。鎮めるには、総大将の娘を捧げるしかない。

怒りの理由も伝えられます。アガメムノンが女神の聖なる鹿を射て、女神でもこうはいくまいと言ったからだ、という説が一つ。父アトレウスが黄金の羊を捧げなかった報いだ、という説もあります。

呼び寄せる手立ては、でした。

アキレウスがあなたの娘を妻に望んでいる。 婚礼のために、娘をよこせ。

母クリュタイムネストラは喜び、娘を連れて浜へ来ます。花嫁衣裳を着た娘が着いた先に、祭壇がありました。

エウリピデスの悲劇は、この場面を執拗に書きます。父は目を合わせられません。アキレウスは自分の名が使われたことを知って激怒します。母は取りすがります。

そして娘は、途中で態度を変えます。命乞いをやめ、自分から祭壇へ歩いていくのです。

ギリシャのために死にます。 私の体は、この国のものです。

この転回をどう読むかで、この作品の評価は分かれ続けてきました。 気高い決意と読むか、追い詰められた者の言葉と読むか。

牝鹿とのすり替え ─ 誰も見ていない救い

刃が振り下ろされます。そこで、伝えが分かれます。

古い叙事詩の伝えと、アポロドーロスが記す筋では、アルテミスが少女をさらい、代わりに牝鹿を置きました。 娘は遠い北の岸、タウリケの地へ運ばれます。

祭壇の上には、息をしている鹿がいた。

見ていた者は、何が起きたのか分かりません。神が霧で覆ったとも、一瞬のことだったとも語られます。

エウリピデスの『アウリスのイピゲネイア』では、この報告は使者の口から伝えられます。舞台の上では起きません。しかも、母は信じません。

慰めのために、そう言っているのではないか。

救われたという証拠は、誰の手にもないのです。

実際、母クリュタイムネストラはこの日を忘れませんでした。戦から帰った夫を、風呂場で討ちます。娘を殺した男として殺したのです。

救われたことが伝わらなかったために、殺しが連鎖しました。この点が、すり替えの物語を単なる救済譚にしていません。

神は救った。 しかし、誰にも知らせなかった。

トロイア戦争の後の惨劇は、この行き違いから始まっています。

タウリケの巫女 ─ 弟との再会

運ばれた先はタウリケ、黒海の北の岸です。そこには、漂着した異国人をすべてアルテミスに捧げるという掟がありました。

イピゲネイアは、その神殿の巫女になります。生贄にされかけた娘が、生贄を用意する側に立ちました。

私は、自分がされかけたことを人にしている。

何年もののち、二人の若者が捕らえられます。一人は、母を討った罪で狂気に追われていたオレステス、彼女の弟でした。

互いに気づきません。故郷の話をするうちに、少しずつ分かってきます。エウリピデスの『タウリケのイピゲネイア』は、この気づいていく過程を長く書きました。

互いに死んだと思っている姉と弟が、名乗り合う場面です。ギリシャ悲劇のなかでも、とりわけ有名な再会の型になりました。

二人は女神像を持ち出す計略を立て、船で逃げます。追手が迫ったところへアテナが現れ、収めました。

この作品には、誰も死なない結末があります。 ギリシャ悲劇では珍しいことです。

持ち帰られた女神像は、アッティカのブラウロンに納められたと語られます。そしてイピゲネイア自身も、その地で祀られたと伝えられます。

イピゲネイアの家系図と家族

イピゲネイアの子・子孫: ディオスクロイ母クリュタイムネストラは双子の姉妹にあたる

イピゲネイアの性格と人物像

イピゲネイアは、途中で人物像が変わるという珍しい書かれ方をしています。

アウリスの場面での前半、この娘は必死に命乞いをします。エウリピデスは、その言葉を容赦なく書きました。

生きることは甘い。 死んだ者には何も無い。 醜くても生きているほうがましだ。

ギリシャ悲劇で、これほど率直に死を拒む台詞は多くありません。

ところが後半、この娘は態度を変えます。自分から祭壇へ歩き、ギリシャのために死ぬと言い出すのです。

この転回は、古代から議論されてきました。アリストテレスは、性格の一貫性を欠いた例としてこの作品を挙げています。

命乞いをした娘と、進んで死ぬ娘が同じ人物に見えない。

近代以降は、別の読み方も出ています。逃げ場のない者が、最後に選べるのは死に方だけだという読みです。どちらにせよ死ぬのなら、進んで行ったことにする。それが唯一残された自由だった、と。

タウリケでの後半生は、また違う顔を見せます。生贄を用意する側になったこの女は、掟に従いながら苦しみ、故郷を思い続けます。

弟と分かった瞬間の反応は素早く、逃げる計略も彼女が立てました。救われるのを待つ人物から、自分で動く人物へ変わっています。

一人の人物が、三度書き換えられている。 そのぶん、後世の作家が手を入れる余地も大きく残りました。

イピゲネイアを祀った神殿と遺跡

住所を確かめられた神殿はありませんでした。 ただし、この人物に祭祀があったことははっきりしています。

アッティカ地方のブラウロンには、タウリケから持ち帰られた女神像が納められ、イピゲネイア自身もそこで祀られたと伝えられます。人間の王女に祭祀があるのは異例です。

この地のアルテミスの祭では、少女たちが熊の役を務める儀礼が行われました。少女と女神と犠牲を結ぶ古い祭祀の場だったことになります。

一方、メガラには「ここでイピゲネイアは死んだ」とする伝えがあり、パウサニアスがそれを書き留めています。救われたとする伝えと、死んだとする伝えが、土地ごとに並んでいます。

さらにヘシオドスの古い系譜では、救われたのち不死の存在にされたと記されます。

遺構の位置を一次の資料で確かめられなかったため、この欄は空にしています。

イピゲネイアが現代に残した痕跡

イピゲネイアの名は、歌劇と悲劇の題として現代に残りました。

歌劇の題名: グルックが十八世紀に「アウリスのイフィジェニー」と「タウリードのイフィジェニー」の二作を書き、この物語を歌劇の定番にした。

人身御供の代わりの獣: 人の代わりに獣を捧げる形の由来を語る話として、宗教史の議論で繰り返し引かれる。

姉弟の再会の型: 互いに死んだと思っていた者が、少しずつ気づいて名乗り合う場面は、演劇の型として受け継がれた。

小惑星イピゲニア: 1870年に発見された小惑星112番の名。

イピゲネイアが司るもの

身代わり

刃の下で牝鹿とすり替えられたと伝えられる。人身御供の代わりに獣を捧げる形の由来として語られてきた。

逃れる者の守り

タウリケの掟から弟とともに逃れ、船で故郷へ帰り着いた。

祭祀の定め

持ち帰られた女神像を納め、その地の祭祀を定めたと伝えられる。

苦しみを取り除く

狂気に追われていた弟オレステスは、この再会を経て救われることになる。

イピゲネイアが登場するゲーム・アニメ

イピゲネイアは、後世にもっとも書き換えられた人物の一人です。 命乞いと決意の落差、救われたのに伝わらない不条理、姉弟の再会。書き手が手を入れたくなる隙が、どこにも空いています。

ゲーテは計略と嘘を退け、正直に告げることで解決する筋に変えました。原典と読み比べると、時代ごとの価値観がそのまま見えてきます。

イピゲネイアが登場する演劇・音楽

エウリピデス『アウリスのイピゲネイア』

婚礼の嘘で呼び寄せられ、祭壇に立つまでを描きます。作者の死後に上演された作です。

エウリピデス『タウリケのイピゲネイア』

巫女となった姉と、捕らえられた弟の再会を描きます。誰も死なない結末を持つ珍しい作です。

グルックの二つの歌劇

十八世紀にこの物語を二作に分けて作曲し、いずれも歌劇の定番になりました。

イピゲネイアが登場する絵画・文学

ポンペイ出土の壁画

祭壇へ運ばれる娘と、雲の上に牝鹿を抱えるアルテミスを同じ画面に描いた壁画が見つかっています。

ゲーテ「タウリスのイフィゲーニエ」

1787年の戯曲。原作の計略を退け、言葉によって解決させる筋に書き換えています。

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イピゲネイアについてよくある質問

イピゲネイアはどんな人物ですか。

ギリシャ軍の総大将アガメムノンの娘です。トロイアへ向かう艦隊が凪に止められ、アルテミスの怒りを鎮めるための生贄に指名されました。刃の下で牝鹿とすり替えられ、遠い岸の神殿の巫女になったと伝えられます。

どうやって呼び寄せられたのですか。

アキレウスとの結婚という嘘の口実です。娘は花嫁の支度をととのえて母とともに浜へ来て、着いてから祭壇が自分のために用意されていることを知りました。

イピゲネイアは死んだのですか。

原典が割れています。すり替えられて助かったとする伝えと、そのまま死んだとする伝えの両方があります。母クリュタイムネストラは助かったと信じず、帰国した夫を討ちました。

弟オレステスとの再会はどんな話ですか。

タウリケの神殿に捕らえられた若者が弟だと気づき、女神像を持ち出す計略を立てて船で逃げる話です。エウリピデスの作では誰も死なずに終わります。

イピゲネイアを祀った場所はありますか。

住所を確かめられた場所はありませんでした。アッティカ地方のブラウロンで祀られたと伝えられ、一方でメガラには死んだ地とする伝承も残ります。ヘシオドスの古い系譜では、救われたのち不死の存在にされたと記されています。

イピゲネイアと併せて覚えたい言葉・用語

トロイア戦争(トロイアせんそう)

ギリシャ軍とトロイアの十年に及ぶ戦争。パリスがスパルタ王妃ヘレネを連れ去ったことから始まった。ホメロス『イリアス』はその十年目を描く。