宮中に仕える女官の神。稲荷五社のひとつ。
オオミヤノメとは何の神様か
オオミヤノメはひとことで言えば取りなす神です。伏見稲荷大社に祀られる五柱のひとつにあたります。
名は大きな宮に仕える女性を指し、宮殿に仕える女官を神格化したものとされます。
天皇と臣下の間を取りもち、言葉を和らげて争いを防ぐ役目を担うとされました。そのため接客業の守り神として信仰されています。
オオミヤノメの漢字表記と読み方
読みは「おおみやのめ」です。「オオミヤ」は大きな宮(宮殿)、「ノメ」は女性を指します。
「メ」は、アメノウズメやミズハノメと同じく女性を表す語尾です。
アメノウズメと同一とする説があります。どちらも神と人、上と下の間に立つ性格を持つためです。
アメノウズメは天岩戸で舞い、猿田彦との交渉にも当たりました。あいだをつなぐという点が共通しています。
大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
伏見稲荷大社での表記。
大宮売神(おおみやのめのかみ)
延喜式などでの表記。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
同一とする説がある。天岩戸で舞った女神。
オオミヤノメの物語
祝詞に現れる神
オオミヤノメには、神話の物語がありません。
記紀に登場せず、代わりに祝詞(のりと)に繰り返し現れます。
大殿祭(おおとのほがい)の祝詞は、この神をこう述べます。
天皇の御前に仕へ奉りて、言(こと)の甘(うま)く美しく取り持ち、下つ人の過ちを直し和らげ…
言葉を和らげ、下の者の過ちをとりなす。それがこの神の働きです。
言葉によって場を保つという職能が、そのまま神になっています。
伏見稲荷の五柱
伏見稲荷大社は、五柱の神を祀ります。
宇迦之御魂大神 ─ 主祭神。稲の霊。
佐田彦大神 ─ 導きの神。猿田彦とされる。
大宮能売大神 ─ 取りなしの神。
田中大神
四大神
稲・導き・取りなしという三つが揃っている点が特徴です。
商売において、物があり、客が来て、話がまとまる。その三つが必要です。稲荷が商売の神として広まった理由の一端が、この構成に見えます。
なぜ接客業の神なのか
オオミヤノメが接客業や人間関係の守り神とされるのは、その職能によります。
立場の違う者のあいだに立つ。
言葉のとげを取る。
争いになる前に収める。
古代の宮廷において、これは高度な専門技能でした。
身分の違う者が同じ場にいるとき、直接ものを言えば角が立ちます。あいだに入って言葉を整える役目が必要でした。
現代の接客業や、人と人を仲介する仕事と、やっていることは変わりません。
女性の職能が神になる
日本神話には、女性の職能を神にした例がいくつかあります。
アメノウズメ ─ 舞と神がかり
オオミヤノメ ─ 宮中での取りなし
タマヨリヒメ ─ 神を迎える巫女
いずれも個人名ではなく、役目の名です。
古代において、神と人、上と下をつなぐのは女性の役目とされました。その職能が神格として定着したものです。
物語を持たないのは、もともと人ではなく働きだったからといえます。
オオミヤノメの家系図と家族
オオミヤノメの性格と人物像
オオミヤノメは、場を保つ神です。
戦わず、罰せず、争いが起きる前に収めます。神話の中で目立つ場面はありませんが、祝詞では欠かせない神として扱われてきました。
物語の主役になる神と、儀式で必要とされる神は、必ずしも同じではありません。
この神は後者にあたります。日々の運営を支える働きが神格になった例です。
オオミヤノメを祀る神社
オオミヤノメを祀るのは、伏見稲荷大社が代表です。五柱のうちの一柱として祀られます。
京都府京丹後市の大宮売神社は、この神を主祭神とする古社です。大宮という地名の由来にもなっています。
全国に約3万社あるとされる稲荷社の多くが、五柱をまとめて祀ります。そのためこの神は、社の数のうえでは広く祀られていることになります。
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)
二十二社
全国に約3万社ある稲荷社の総本宮。千本鳥居で知られる。
稲荷山全体が境内にあたる。
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オオミヤノメが現代に残した痕跡
オオミヤノメの名は、祝詞に残りました。
大殿祭: 宮殿を清める儀式。その祝詞にこの神の働きが述べられる。
大宮: 京都府京丹後市の地名。大宮売神社に由来する。
オオミヤノメのご利益
商売繁盛
伏見稲荷大社の五柱のひとつであることによる。
人間関係
取りなしを担う神であることによる。
接客業守護
言葉を和らげる働きによる。
オオミヤノメについてよくある質問
オオミヤノメとはどんな神様ですか。
宮殿に仕える女官を神格化した神です。天皇と臣下の間を取りもち、言葉を和らげて争いを防ぐ役目を担うとされました。
なぜ接客業の神とされるのですか。
立場の違う者のあいだに立ち、言葉を整えて場を保つという職能によります。人と人を仲介する仕事の守り神とされています。
アメノウズメと同じ神ですか。
同一とする説があります。どちらも神と人、上と下のあいだに立つ性格を持つためですが、確定はしていません。