クーマエでアポッロの神託を告げた巫女。アエネーアースを冥界へ案内した。
シビュラとは何の神様か
シビュラはひとことで言えば神の言葉を人に取り次ぐ巫女です。
もっとも有名なのがクーマエのシビュラ。ナポリ湾に面した町クーマエの、岩をうがった洞に住みました。
洞には百の口があり、そこから答えの声が響いた。
『アエネーイス』第6巻で、アエネーアースは父に会うため冥界へ下ろうとします。その道を示したのがこの巫女でした。黄金の枝を折って持つことが条件だと教え、みずから先に立って案内します。
アポッロに愛され、望みを問われて「手に握った砂の数だけの年」を求めたという話も伝わります。ところが若さを願い忘れました。 年月とともに身は縮み、壺に吊るされたとされます。
ローマにとってさらに重いのは、この巫女が残したとされる予言書です。国家の危機のたびに開かれ、外から神を迎える根拠になりました。
シビュラのローマ名・ギリシャ名と読み方
日本語では「シビュラ」「シビュッラ」「シビラ」が使われます。書物の名としては「シビュラの書」がほぼ定着しています。
英語読みの「シビル」は、予言者めいた女性を指す普通名詞としても使われます。
シビュラは名前ではなく、役目の名です。
この点がいちばん誤解されます。 ウァロは十のシビュラを挙げ、クーマエ・エリュトライ・デルポイなど土地ごとに別の巫女を数えました。同じ人物が各地にいたのではありません。
個人名としてはデーイポベーと伝える書き手もいますが、広く用いられた名ではありません。語の起こりについても定説はなく、わかっていません。
Sibylla(シビュラ)
ラテン語の綴り。個人名ではなく、神託を告げる巫女を指す職名として使われた。
Sibylla Cumana(シビュラ・クーマーナ)
クーマエのシビュラの意。ローマで参照された予言書は、この巫女に帰された。
Libri Sibyllini(リブリー・シビュッリーニー)
シビュラの書。国家の危機のたびに神官団が開いた予言書を指す。
シビュラの物語
クーマエの洞 ─ 百の口から響く声
クーマエは、ギリシャ人がイタリア半島に置いたもっとも古い植民市の一つです。
その丘に、岩を掘り抜いた長い通路があります。
側面に窓が並び、奥へ進むほど光が変わる。
20世紀の発掘でこの通路が見つかり、シビュラの洞と呼ばれるようになりました。ただしこれが詩に書かれた洞そのものかどうかは決まっていません。 軍事用の通路とみる説もあります。
『アエネーイス』の描写では、神が降りると巫女の姿が変わり、声が人のものでなくなります。
髪は乱れ、胸は波打ち、口から出る言葉は自分のものではなかった。
神託は木の葉に書かれたとも伝えられます。風が吹くと葉が散り、順序がわからなくなる。求める者は答えを得ても読み解けない、という話です。
答えを与えながら、答えを読めなくする。 神託というものの性格が、この一点によく出ています。
冥界への案内 ─ 黄金の枝
『アエネーイス』第6巻は、叙事詩の中央に置かれた巻です。
アエネーアースは、亡き父アンキーセースに会うため冥界へ下ろうとします。シビュラの答えはこうでした。
下るのはたやすい。戻ることが難しいのだ。
条件として示されたのが黄金の枝です。森の中の一本の木に生え、選ばれた者の手には自然と折れて従うとされました。
もう一つ、葬られぬままの仲間がいることも告げられます。これがラッパ手ミーセーノスでした。葬りを済ませてから、二人は地下へ向かいます。
冥界では、川の渡し守カローン、番犬ケルベルス、罰を受ける者たちの場を通り、エリュシウムにたどり着きます。
そこで父が示したのは、これから生まれてくるローマの人々の姿でした。ローマの未来が、死者の国で語られます。
案内を終えると、シビュラは静かに退きます。役目を果たしたあと、詩から姿を消しました。
砂の数だけの年 ─ 願い忘れた若さ
シビュラの老いの話は、オウィディウス『変身物語』第14巻に見えます。
アポッロは彼女を愛し、望みを問いました。彼女は砂をひとつかみ握り、こう答えます。
この手の砂の数だけ、誕生日を迎えたい。
願いは叶いました。しかし、若さを願い忘れていました。
年月がたつにつれ身は縮み、ついには声だけが残ったとされます。
ペトロニウスの作品には、壺に吊るされたシビュラが「死にたい」と答える場面が出てきます。
子どもたちが「何が望みか」と尋ねると、彼女は「死にたい」と答えた。
この一節は20世紀の詩に引かれ、近代文学のなかで最も知られたシビュラの姿になりました。
願いの言い落としが取り返しのつかない結果を生む。長寿そのものが罰になるという型が、ここから広く使われるようになります。
シビュラの書 ─ 国家が開いた予言書
ローマにとってのシビュラは、物語よりも制度として重要です。
伝えでは、老女が王タルクィニウス・スペルブスのもとへ9巻の書を持ち込み、高値を付けました。
王は断った。老女は三巻を焼き、残る六巻を同じ値で示した。
再び断ると、また三巻を焼く。残った三巻を、最初の九巻の値で王は買いました。
このシビュラの書は神殿の地下に納められ、専任の神官団が管理しました。人数は次第に増え、最後は十五人神官団となります。
開くのは元老院が命じたときだけです。疫病、異常な前兆、大敗。そうしたときに書が開かれ、どの神をどう祀るべきかが示されました。
この手続きによってローマに迎えられた神には、マグナ・マーテル、アポッロ、アスクレピオスがあります。外来の神を受け入れる正式な入口がここでした。
前83年のカピトリウム炎上で書は焼失し、各地から集め直されています。
シビュラの家系図と家族
シビュラの性格と人物像
シビュラは、自分の言葉を持たない人物として描かれます。
口から出るのは神の言葉であり、その最中の彼女は苦しみます。第6巻では、神を振り落とそうとして暴れる馬のように書かれました。
予言する力は、与えられたものであって、選んだものではありません。
ここが、みずから技を選んだ医師イアーピュクスとの違いです。片方は選び、片方は選ばされました。
一方で、冥界の案内の場面では落ち着いた導き手です。恐れる主人公を叱り、進む道を示し、必要な手続きを一つずつ挙げます。取り乱す巫女と、冷静な案内人が同じ人物のなかにあります。
研究では、クーマエのシビュラはギリシャ由来の予言の伝統がローマの国家祭祀に取り込まれた形とみられています。個人の巫女がいたかどうかは確かめられていません。
ローマが必要としたのは、人ではなく書物のほうでした。
シビュラゆかりの地と遺跡
シビュラを祀った神殿は、記録に残っていません。
彼女は神ではなく、神に仕える巫女だからです。祀られたのは、仕えた先のアポッロのほうでした。
巫女には神殿がなく、書物がありました。
ローマでのシビュラは、シビュラの書という形で国家祭祀のなかに存在しています。書はカピトリウムのユーピテル神殿の地下に納められ、のちにアポッロ・パラティーヌス神殿へ移されました。
場所ではなく、書物として制度に組み込まれた点が、この巫女の特徴です。
そのため、この節は「ゆかりの地」としています。挙げたのはいずれも物語と発掘の舞台であり、祈りの相手ではありません。
クーマエのアクロポリス(Cumae Arx)
アポッロ神殿とユーピテル神殿が置かれた丘
クーマエのアクロポリスの住所: イタリア カンパニア州 クーマエ遺跡の丘(北緯40.8490 東経14.0540)
クーマエのアクロポリスの祀られた神: アポッロ・ユーピテル
クーマエのアクロポリスに残るもの: 神殿の基壇と階段(後代に聖堂へ転用)
クーマエのアクロポリスのご利益: 神託
クーマエの町を見下ろす丘です。アポッロの神殿と、その上の段に別の神殿の跡が残ります。
シビュラはこのアポッロに仕える巫女とされました。神殿は後にキリスト教の聖堂へ転用され、洗礼用の水槽が床に残っています。
ここは巫女を祀った場所ではなく、巫女が仕えた神の場所です。
丘からはナポリ湾が見渡せ、ギリシャ人がこの地を選んだ理由がよくわかります。
クーマエ考古公園として公開。丘の上まで石段で登る。
シビュラの洞(Antrum Sibyllae)
巫女が神託を告げたとされる岩の通路
シビュラの洞の住所: イタリア カンパニア州 クーマエ アウェルヌス湖の西(北緯40.8350 東経14.0767)
シビュラの洞の祀られた神: (祀られた神は特定されていない)
シビュラの洞に残るもの: 台形の断面をもつ長い岩窟通路
シビュラの洞のご利益: (祀る施設は無い)
岩を掘り抜いた長い通路です。1932年に見つかり、シビュラの洞と呼ばれるようになりました。
側面に窓が並び、奥へ進むにつれて光の入り方が変わります。詩の描写と重なるため、この名で紹介されています。
ただし、詩に書かれた洞そのものだと確かめられてはいません。 軍港を結ぶ軍事用の通路とみる説も有力です。
近くのアウェルヌス湖は、古代には冥界への入口とされました。鳥が飛び越えられない湖という言い伝えがあります。
クーマエ考古公園の入口近くから入る。奥は行き止まりで、往復して戻る。
シビュラが現代に残した痕跡
シビュラの名は、予言する女性を指す言葉として残りました。
システィーナ礼拝堂の天井画: ミケランジェロが五人のシビュラを預言者と並べて描いた。クーマエのシビュラは筋骨たくましい老女の姿で表されている。
シビュラの書: 国家の危機に開かれた予言書。外来の神を迎える正式な手続きの根拠になった。
怒りの日の歌詞: 中世のラテン語聖歌に、ダビデとシビュラが並んで証人として挙げられる一節がある。
荒地の題辞: エリオットの詩の冒頭に、壺に吊るされたシビュラの一節が引かれている。
シビュラが司るもの
先を見通すこと
アポッロの神託を告げる巫女として、問いに答える役目を負った。
危機の際の指針
予言書が国家の危機のたびに開かれ、取るべき祭祀を示した。
冥界との行き来
死者の国へ下る道と、戻る条件を示す案内人とされた。
シビュラが登場するゲーム・アニメ
作品でのシビュラは、若い巫女として描かれることが多くあります。
老いて縮んだ姿を絵にした例は多くありません。願いの言い落としの話より、神託を告げる場面のほうが図になりやすいためです。
日本では「シビュラ」の名が、予測する仕組みの名として使われることもあります。
そのため、もとが古代の巫女であることを知らずに名だけを知っている人も少なくありません。
シビュラが登場するゲーム
古代ローマを舞台にした戦略ゲーム
神託や予言書が、方針を決める仕組みとして取り入れられています。
神話を題材にした探索ゲーム
冥界への入口を示す案内役として登場することがあります。
シビュラが登場する絵画・彫刻
システィーナ礼拝堂の天井画
クーマエのシビュラを含む五人が、旧約の預言者と交互に配されています。
ドメニキーノのシビュラ像
楽譜と冠を持つ若い女性として描かれ、後世の典型的な図像になりました。
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シビュラについてよくある質問
シビュラは一人の人物の名ですか。
個人名ではなく、神託を告げる巫女を指す職名です。ウァロは十のシビュラを挙げ、クーマエやエリュトライなど土地ごとに別の巫女を数えました。ローマで重んじられたのはクーマエのシビュラです。
シビュラの書とは何ですか。
国家の危機のたびに開かれた予言書です。疫病や異常な前兆があったとき元老院が命じて開き、どの神をどう祀るべきかを示しました。マグナ・マーテルなど外来の神を迎える根拠になっています。
シビュラの書は今も残っていますか。
残っていません。前83年のカピトリウム炎上で焼失し、各地から集め直されました。現在「シビュラの託宣」と呼ばれる文書は、後代に別の系統で作られたものです。
なぜシビュラは壺に吊るされたのですか。
砂の数だけの年を願いながら若さを願い忘れたため、身が縮んでいったと伝えられます。ペトロニウスの作品では、壺のなかから死にたいと答える場面が語られます。