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ローマ神話

タルクィニウス・プリスクスとは何の神様か|家系図・物語・ゆかりの地

Tarquinius Priscus  / タルクィニウスプリスクス

建国の人々

ローマ第五代の王。エトルリアから来て、大神殿と下水道の造営を始めた。

タルクィニウス・プリスクスとは何の神様か

タルクィニウス・プリスクスはひとことで言えばローマを都市の形にした王です。伝えでは前616年から前579年まで在位しました。

生まれはローマではありません。エトルリアの町タルクィニイの人で、もとの名はルクモといいます。

よそ者が、王になった。

ローマ人はこの事実を隠しませんでした。第五代の王は移住者であり、その名は出身の町から取られています。

治世に語られるのは、戦よりも普請です。カピトリウムのユーピテル神殿の造営を始め、谷の水を抜く大下水道クロアカ・マクシマを掘り、競走場キルクス・マクシムスの場を定めました。

元老院の議員も増やしています。古い家柄だけで固まっていた場に、新しい家を入れた王でした。

最後は、先王の子らが差し向けた牧人に討たれます。妻タナクィルが死を隠して時間を稼ぎ、婿セルウィウス・トゥッリウスへ位をつなぎました。

タルクィニウス・プリスクスのローマ名・ギリシャ名と読み方

日本語では「タルクィニウス・プリスクス」のほか、「タルキニウス・プリスクス」とも書かれます。古タルクィニウスタルクィニウス一世という呼び方も見かけます。

区別が要るのは、最後の王タルクィニウス・スペルブスと同じ家名だからです。

先のタルクィニウスと、傲慢なタルクィニウス。

ローマ人はこの二人を、添え名で呼び分けました。プリスクスは「先の」、スペルブスは「傲慢な」を意味します。

家名タルクィニウスは、エトルリアの町タルクィニイ(現在のタルクィニア)から来ています。人の名が先ではなく、町の名が先です。

もとの名ルクモも、個人の名ではなく身分を指す語だった可能性があります。この王の名は、二つとも出自を示す言葉でできています。

Tarquinius Priscus(タルクィニウス・プリスクス)

プリスクスは「先の」「古いほうの」という意味。同名の最後の王と区別するために付けられた呼び分け。

Lucius Tarquinius Priscus(ルキウス・タルクィニウス・プリスクス)

ローマ風に整えた三つの名。ローマへ移ってから名乗ったとされる形で、歴史書ではこの形が多い。

Lucumo(ルクモ)

エトルリアでの名。もっとも、これはエトルリア語で王や首長を指す語だったとみる説がある。

タルクィニウス・プリスクスの物語

  1. タルクィニイからの道 ─ 鷲がさらった帽子
  2. 王になる ─ 後見人が位に就く
  3. 石と水の仕事 ─ 神殿・下水道・競走場
  4. 砥石と斧 ─ 占いを疑った王の最期

タルクィニイからの道 ─ 鷲がさらった帽子

父は、コリントスから逃れてきた商人デーマラートスと伝えられます。エトルリアの町タルクィニイに落ち着き、そこで子をもうけました。

子のルクモは財を継ぎ、土地の名家の娘タナクィルを妻に迎えます。しかしよそ者の子として扱われ、町では上に立てませんでした。

妻が言った。ここでは無理です、ローマへ行きましょう。

夫婦は荷を車に積み、ローマへ向かいます。ヤニクルムの丘にさしかかったとき、一羽の鷲が舞い降りました。

鷲は夫の帽子をさらって空高く舞い上がり、また戻ってきて、その頭に載せ直します。

タナクィルは占いに通じていました。彼女はこれを、神が高いところから冠を授け直したしるしと読みます。

移住の物語が、はじめから王位の予告として語られています。 ローマ人は、外から来た王を迎えるにあたって、前兆をひとつ用意しました。

王になる ─ 後見人が位に就く

ローマに入った一家は、財を惜しみなく使い、人と交わりました。まもなく第四代の王アンクス・マルキウスに近づき、その信を得ます。

王は死にあたって、幼い二人の子の後見人にこの男を指名しました。

後見人が、そのまま王になった。

王が死ぬと、彼は子らを狩りに出させ、そのあいだに民会を開かせます。そして自ら弁を振るい、王に選ばれました。

手続きは踏まれています。 民が選び、元老院が承認しました。ローマの王は世襲ではなく、そのつど選ばれる位だったからです。

とはいえ、後見すべき子の位を奪った形にはなります。この一点が、後の暗殺の理由になりました。

即位のあと、彼は元老院に百人を加えました。新しく加えられた家は小家柄の父と呼ばれ、古い家と区別されたと伝えられます。

石と水の仕事 ─ 神殿・下水道・競走場

この王の事績は、建てたもので語られます。

第一に、カピトリウムの丘のユーピテル神殿です。サビニ人との戦いの誓いから始まったとされ、地ならしと基礎はこの王の代に行われました。完成するのは最後の王の代です。

第二に、クロアカ・マクシマ。丘に囲まれた谷は水がたまる湿地で、そのままでは町の中心になりません。石で覆った大きな溝を通し、水をテウェレ川へ落としました。

広場が広場になったのは、水を抜いたからです。

フォルム・ロマーヌムという場所は、この工事の上に成り立っています。

第三に、キルクス・マクシムス。パラティウムとアウェンティヌスのあいだの谷に、観覧の席を割り当てました。

神殿と下水道と競走場。ローマという都市の骨組みが、この治世に出そろいます。 どこまでが史実かはわかりませんが、発掘では前6世紀に広場が舗装され、湿地が埋め立てられたことが確かめられています。

砥石と斧 ─ 占いを疑った王の最期

王は騎兵の隊を増やそうとしました。ところが占い師アットゥス・ナウィウスが、鳥占いの許しがなければならないと止めます。

王は占い師を試しました。

私がいま考えていることは、できるか。占ってみよ。

占い師は鳥を見てから、できると答えます。王は笑って言いました。砥石を剃刀で切ることだ、と。

差し出された砥石は、剃刀で真っ二つになったと伝えられます。

以後、この王は占いに従いました。集会の場には、この出来事を記す像が立てられたといいます。

最期は突然でした。アンクス・マルキウスの子らが、二人の牧人を差し向けます。牧人は喧嘩を装って王の前へ引き出され、一方が振り向かせた隙に、もう一方が斧で王の頭を割りました。

タナクィルは窓から民に告げます。王は気を失っただけだ、しばらく婿のセルウィウス・トゥッリウスが代わりを務める、と。

死は数日伏せられました。 その間に、次の王の地位は固まっていました。

タルクィニウス・プリスクスの家系図と家族

タルクィニウス・プリスクスの子・子孫: タルクィニウス・スペルブス親子とする伝えがある

タルクィニウス・プリスクスの性格と人物像

この王は、外から来て、内側を作り変えた人物として描かれます。

戦の話が無いわけではありません。サビニ人やラテンの諸都市と戦い、凱旋もしています。しかし後世に残ったのは、石と水の仕事のほうでした。

よそ者だからこそ、古い決まりを動かせた。

元老院に新しい家を入れ、騎兵の隊を改め、エトルリア風の王のしるしを持ち込んだと語られます。紫の衣、象牙の椅子、束桿を持つ先導者。ローマの権威の見た目は、この王の代に整ったとされます。

実在については、慎重に見る必要があります。前6世紀のローマがエトルリアの強い影響下にあったことは、出土する品からわかっています。しかし、個々の王の名まで発掘でたどり着けるわけではありません。

ローマ人にとって重要だったのは、この都市が移住者を王に迎えたという筋書きそのものでした。

タルクィニウス・プリスクスゆかりの地と遺跡

タルクィニウス・プリスクスを祀った神殿は、記録に残っていません。 ローマの王は、ロームルスを除いて神とされなかったためです。

ここに挙げたのは、いずれもこの王に関わる場所です。ひとつは出身の町の神殿跡、もうひとつは造営を始めた神殿です。

祈られた場所ではなく、働いた場所です。

そのため、この節の見出しを「ゆかりの地」としています。

クロアカ・マクシマとキルクス・マクシムスも、この王に帰される仕事です。いずれも現在まで場所が続いていますが、いま見える構造物は後の時代のもので、この王の代のものではありません。

アラ・デッラ・レジーナ(Ara della Regina)

エトルリアの都市タルクィニイの最大の神殿跡

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アラ・デッラ・レジーナの住所: イタリア ラツィオ州 タルクィニア(北緯42.2588 東経11.8015)

アラ・デッラ・レジーナの祀られた神: エトルリアの神々(この王を祀る場ではない)

アラ・デッラ・レジーナに残るもの: 大きな基壇。有翼の馬の浮彫は市内の博物館に移されている

アラ・デッラ・レジーナのご利益: (祀る施設ではない)

この王が出たとされる町タルクィニイの中心にあった神殿の跡です。丘の上に長い基壇が残っています。

飾られていた有翼の馬の浮彫は、エトルリア美術を代表する作品として知られ、いまはタルクィニア市内の博物館にあります。

ここでこの王が祀られていたわけではありません。 出身の町の姿を伝える場所として挙げています。丘のふもとには彩色された墓室の群れが広がり、こちらも見学できます。

タルクィニアの市街から歩いて上がれる。墓室の見学は別の入口から。

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ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿(Templum Iovis Optimi Maximi)

ローマ国家の最高神殿

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ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿の住所: イタリア ローマ カピトリーノの丘(北緯41.8922 東経12.4817)

ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿の祀られた神: ユーピテル・ユーノー・ミネルウァ

ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿に残るもの: 基礎と壁体の一部(カピトリーニ美術館の地下で見学できる)

ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿のご利益: 国家の安全

ローマ国家の中心にあった神殿です。造営を始めたのがこの王と伝えられます。

サビニ人との戦いの折に立てた誓いによるもので、地ならしと基礎がこの代に行われました。完成と奉献は、孫にあたるとされる最後の王の代を待ちます。

始めた王と、仕上げた王が別でした。 ローマでもっとも大きな建物が、二代にまたがって造られたことになります。

いま地上に残るのは基礎の一部だけで、美術館の地下から見ることができます。

カピトリーニ美術館の館内から基礎を見られる。丘の上の広場からは広場跡を一望できる。

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タルクィニウス・プリスクスが現代に残した痕跡

この王の名は、建物と地名の形で残りました。

クロアカ・マクシマ: ローマの大下水道。造営を始めたのがこの王とされる。現在も一部が排水路として機能している。

キルクス・マクシムス: 戦車競走の会場。場所を定めたのがこの王とされ、いまは広い草地の公園になっている。

タルクィニア: この王の出身とされる町。彩色された墓室の群れで知られ、世界遺産に登録されている。

王のしるし: 紫の衣・象牙の椅子・束桿を持つ先導者。エトルリアから持ち込まれたと語られる権威の道具立て。

タルクィニウス・プリスクスが司るもの

町づくり

下水道と広場の造営者として、都市の基盤を整えた王とされた。

立身

よそ者から王位に上った経歴が、身を立てる者の手本として語られた。

占いの尊重

砥石の一件から、鳥占いに従うべきことの由来として語られた。

タルクィニウス・プリスクスが登場するゲーム・アニメ

創作でこの王が主役になることは、ほとんどありません。物語として強いのは、最初の王と最後の王だからです。

一方で、ローマの都市の成り立ちを扱う番組や書物では、必ずといってよいほど名が出てきます。

下水道の話になると、この王が呼び出されます。

日本では、ローマの王政七代をまとめて紹介する本のなかで触れられることが多く、単独で取り上げられる機会は限られています。

タルクィニウス・プリスクスが登場する古典の記述

ローマ建国以来の歴史

第1巻34章から41章に、移住から暗殺までがまとめて記されています。

ローマ古代誌

ギリシャ語で書かれた歴史書で、造営の仕事を詳しく伝えています。

タルクィニウス・プリスクスが登場するゲーム・映像

歴史をあつかう戦略ゲーム

王政期の指導者として、都市の整備に関わる能力で登場することがあります。

古代ローマを描いた記録番組

下水道の回で、造営を始めた王として名が挙がります。

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タルクィニウス・プリスクスについてよくある質問

タルクィニウス・プリスクスはどこの出身ですか。

エトルリアの町タルクィニイ、現在のタルクィニアの出とされます。父はコリントスから逃れてきた商人デーマラートスと伝えられ、本人はもともとルクモという名でした。ローマの王としては第五代にあたります。

なぜ王になれたのですか。

第四代の王アンクス・マルキウスの信を得て、その子らの後見人に指名されたためです。王が死ぬと子らを狩りに出させ、そのあいだに民会を開かせて自ら王に選ばれました。手続きは踏まれていますが、後見すべき子の位を奪う形になっています。

何を造った王ですか。

カピトリウムのユーピテル神殿の造営を始め、大下水道クロアカ・マクシマを掘り、競走場キルクス・マクシムスの場を定めたとされます。谷の水を抜いたことで、フォルム・ロマーヌムが広場として使えるようになりました。

砥石を剃刀で切った話は何ですか。

占い師アットゥス・ナウィウスの逸話です。鳥占いを軽んじた王が、砥石を剃刀で切れるかと問うたところ、占い師はそれをやってみせたと伝えられます。以後この王は占いに従うようになったとされます。

どのように死にましたか。

前の王アンクス・マルキウスの子らが差し向けた二人の牧人に、斧で頭を割られたと伝えられます。妻タナクィルは死を数日伏せ、そのあいだに婿セルウィウス・トゥッリウスへ王位をつなぎました。

タルクィニウス・プリスクスと併せて覚えたい言葉・用語

アンク(ꜥnḫ/生命の記号)

輪のついた十字形。「生命」を意味する。神が王の鼻先に差し出す場面が神殿に繰り返し刻まれた。