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ローマ神話

ホスティウス・ホスティーリウスとは何の神様か|家系図と物語

Hostus Hostilius  / ホスティウスホスティーリウス

建国の人々

サビニ戦でローマ軍の先頭に立ち、フォルムで討たれた勇士。

ホスティウス・ホスティーリウスとは何の神様か

ホスティウス・ホスティーリウスはひとことで言えば倒れることで神殿を生んだ武人です。

ロームルスの時代、サビニ人との戦いの場面に現れます。カピトリウムの砦を奪われたローマ側は、丘のあいだの低地へ兵を出しました。のちにフォルム・ロマーヌムとなる谷です。

ローマ側の先頭に立ったのが、この男でした。

しばらく互角に押し合いましたが、彼が討たれると、ローマ軍は一気に崩れます。

逃げる兵の中で、ロームルスがユーピテルに誓いました。 ここで軍を踏みとどまらせてくれるなら、この場に神殿を建てる、と。

兵は踏みとどまり、戦線は持ち直します。この誓いから、引き留める者を意味するユーピテル・スタトルの祭祀が始まったと語られます。

一人の武人が倒れた場所から、国家の神殿が生まれる筋書きです。

第三代の王トゥッルス・ホスティーリウスの祖父にあたるとされ、この家がローマの王を出す由来としても語られました。

ホスティウス・ホスティーリウスのローマ名・ギリシャ名と読み方

日本語では「ホスティウス・ホスティーリウス」のほか、「ホストゥス・ホスティリウス」とも書かれます。ラテン語の個人名はホストゥスに近い形で、日本語の書物では表記が揺れています。

名と氏族名が、ほとんど同じ音で続きます。

これは古いローマの人名にしばしば見られる形です。氏族の名が先にあり、そこから個人の名が作られたのか、その逆なのかはわかっていません。

ホスティスというラテン語は、もとは「よそから来た客」を、のちに「敵」を意味しました。この氏族名を、その語に結びつける説明があります。

孫とされるトゥッルス・ホスティーリウスは第三代の王で、こちらは日本語の書物にもよく出てきます。祖父のほうを探すときは、王の名と取り違えないよう注意が要ります。

Hostus Hostilius(ホスティウス・ホスティーリウス)

ラテン語の主格。個人の名ホストゥスと氏族の名ホスティーリウスが並ぶ、古い形の二名式になっている。

Hostilius(ホスティーリウス)

氏族の名だけで呼んだ形。古い辞書のような書物では、この形で墓の言い伝えが記されている。

Tullus Hostilius(トゥッルス・ホスティーリウス)

孫にあたるとされるローマ第三代の王の名。この家の名を後世に伝えた人物である。

ホスティウス・ホスティーリウスの物語

  1. サビニ戦の先頭 ─ フォルムの低地で
  2. 誓いの神殿 ─ ユーピテル・スタトルの起こり
  3. 王を出した家 ─ 孫トゥッルス・ホスティーリウス
  4. 妻と墓 ─ 定まらない伝えと、記録の少なさ

サビニ戦の先頭 ─ フォルムの低地で

ローマ人がサビニ人の娘たちを奪ったのち、サビニ王ティトゥス・タティウスが軍を起こしました。

カピトリウムの砦は、守将の娘タルペーイアの裏切りで落ちます。サビニ人は丘の上を押さえ、ローマ人はパラティウムの側に残りました。

両軍が向き合ったのは、丘にはさまれた低地です。当時はまだ湿った谷で、のちにフォルム・ロマーヌムとなる場所にあたります。

ローマ側の先頭に立ったのが、ホスティウス・ホスティーリウスでした。

彼は不利な地形をものともせず、押し返したと伝えられます。しかし、そこで討たれました。

指揮の要を失った軍は、たちまち崩れます。兵は退き、パラティウムの門へ向かって逃げました。

建国の物語のなかで、ローマ軍が最も追い詰められた場面です。 この崩れが、次の章の誓いを呼びます。

誓いの神殿 ─ ユーピテル・スタトルの起こり

逃げる兵にまじって退きながら、ロームルスは手を天へ上げました。

神々の父よ、ここで恐れを止め、この恥ずべき逃走を押しとどめたまえ。

そして誓います。ここに引き留める者の名で神殿を建て、後の世に、この都市があなたの助けによって救われたことを伝えよう、と。

言い終えると同時に、兵は足を止めたと伝えられます。ロームルスは向き直って、ここが踏みとどまる場所だと叫びました。

戦線は持ち直し、やがて奪われた女たちが両軍のあいだに走り込んで、戦そのものが終わります。

こうしてユーピテル・スタトルの祭祀が始まりました。パラティウムの丘のふもと、旧道の門のあたりに聖所が置かれたとされます。

もっとも、石造りの神殿が建つのはずっと後です。 前294年に執政官が同じ神に誓いを立て、そのときに正式な神殿が建てられました。

誓いは伝えられ、建物は数百年遅れて実現したことになります。

王を出した家 ─ 孫トゥッルス・ホスティーリウス

この武人は、第三代の王トゥッルス・ホスティーリウスの祖父にあたるとされます。

ローマの王は世襲ではなく、そのつど選ばれる位でした。それでも、選ばれるには理由が要ります。

ホスティーリウス家の場合、その理由が祖父の戦死でした。国のために先頭で倒れた家、という由緒です。

家の名は、倒れ方によって残りました。

孫のトゥッルスは、伝えでは前673年から前642年まで在位し、戦の王として描かれます。アルバ・ロンガを滅ぼし、住民をローマへ移し、その指導者たちを元老院に加えました。

ホラーティウス三兄弟とクリアーティウス三兄弟の決闘も、この王の代の出来事です。

祖父も孫も、語られるのは戦の場面だけです。ローマ人はこの家を、武によって立った家として一貫して描きました。

なお、この王の名で呼ばれるクリア・ホスティーリア、すなわち古い元老院の議事堂も、孫のほうの事績とされています。

妻と墓 ─ 定まらない伝えと、記録の少なさ

この人物について伝えられることは、多くありません。 生年も、家族の詳しい構成も記されていません。

わずかに残るのが、妻をヘルシリアとする伝えです。ヘルシリアは、略奪されたサビニの女たちのうちただ一人の既婚者とされ、両軍のあいだに割って入った女性です。

ヘルシリアをロームルスの妻とする伝えも、並んで残っています。

古代の書き手のあいだで一致していません。 妻をロームルスとした場合、ヘルシリアは死後にホーラ・クゥイリーニという女神になります。この武人の妻とする形では、そこまでの続きがありません。

もうひとつ伝わるのが、墓の言い伝えです。ローマ人の言葉を集めた古い書物には、集会場の黒石が置かれた場所を、ロームルスの乳父ファウストゥルスの墓、あるいはトゥッルス・ホスティーリウスの祖父ホスティーリウスの墓とする説が記されています。

同じ場所に、三通りの説明が並んでいます。 記録がこれだけ乏しいのは、彼が戦の一場面のためにだけ語られる人物だからです。

ホスティウス・ホスティーリウスの家系図と家族

ホスティウス・ホスティーリウスの妻・夫: ヘルシリア夫婦とする伝えがある

ホスティウス・ホスティーリウスの性格と人物像

ホスティウス・ホスティーリウスには、性格を語る材料がほとんどありません。 伝えられるのは、先頭に立ったことと、倒れたことだけです。

それでも、この人物が置かれた位置ははっきりしています。ローマ軍が崩れる理由です。

誰かが倒れなければ、誓いは生まれません。

叙事詩や歴史の物語には、味方が崩れる転機を作るために、勇士がひとり倒れる型があります。この人物は、その型にきれいに収まっています。

ただし、名が家の名として実在した点は見逃せません。ホスティーリウス家は共和政期にも記録に現れます。物語の必要から作られた人物に、実在する家の名が与えられたのか、その逆なのかは決められません。

ローマ人にとって、この武人は「国のために最初に倒れた者」でした。フォルムに立つとき、そこは彼が倒れた谷でもあったことになります。

ホスティウス・ホスティーリウスゆかりの地と遺跡

ホスティウス・ホスティーリウスを祀った場所は、記録に残っていません。 ローマの武人が神として祀られることは、ふつうありませんでした。

ここに挙げたのは、いずれもこの人物が関わる場所です。倒れたと伝えられる谷と、墓とする説がある黒石の区画です。

どちらも、祈られた場所ではありません。

そのため、この節の見出しを「ゆかりの地」としています。

なお、彼の死をきっかけに誓われたユーピテル・スタトル神殿は、パラティウムの丘のふもと、旧道の門のあたりにあったとされますが、正確な位置は確かめられていません。 そのため住所を挙げていません。

フォルム・ロマーヌム(Forum Romanum)

ローマの中心広場

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フォルム・ロマーヌムの住所: イタリア ローマ フォロ・ロマーノ(北緯41.8925 東経12.4854)

フォルム・ロマーヌムの祀られた神: (この人物を祀る場ではない)

フォルム・ロマーヌムに残るもの: 神殿・議事堂・凱旋門などの跡が広がる

フォルム・ロマーヌムのご利益: (祀る施設ではない)

サビニ人との戦いが行われた低地にあたります。この人物が先頭に立ち、そこで倒れたと伝えられる場所です。

当時はまだ広場ではありません。丘にはさまれた湿った谷で、水を抜く工事が行われるのは第五代の王の代とされます。

戦の場が、のちに国の中心になりました。

いまは神殿と議事堂と凱旋門の跡が並び、ローマでもっとも人の集まる遺跡になっています。この人物を祀る施設は、ここにはありません。

コロッセオ側の入口から入れる。パラティウムの丘と共通の券で見学できる。

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ラピス・ニゲル(Lapis Niger)

黒い石で覆われた古い聖域

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ラピス・ニゲルの住所: イタリア ローマ フォロ・ロマーノ 集会場跡(北緯41.8927 東経12.4850)

ラピス・ニゲルの祀られた神: (祭神は特定されていない)

ラピス・ニゲルに残るもの: 黒い敷石と、その下の祭壇・円柱・古ラテン語の碑

ラピス・ニゲルのご利益: (祀る施設ではない)

集会場の一角を覆う黒い敷石です。その下から、祭壇と円柱、そしてローマ最古級の古いラテン語の碑が見つかりました。

古代のローマ人自身、この場所が何であるかを決めかねていました。ロームルスの墓、乳父ファウストゥルスの墓、そしてトゥッルス・ホスティーリウスの祖父ホスティーリウスの墓という三つの説が並んで伝えられています。

いずれの説も、確かめられていません。 碑の文字も摩耗が激しく、全文は読み取れていません。

フォロ・ロマーノの北西、元老院議事堂の前。屋根に覆われた区画として見える。

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ホスティウス・ホスティーリウスが現代に残した痕跡

この人物の名は、家の名と、誓いの神殿として残りました。

ユーピテル・スタトル: 引き留める者を意味する神の呼び名。彼が倒れたあとの誓いから始まったとされ、後の世まで祀られた。

ホスティーリウス家: 第三代の王トゥッルスを出した家。共和政期にも同じ名の人物が記録に現れる。

クリア・ホスティーリア: 古い元老院の議事堂。孫にあたる王が建てたとされ、その名を長く残した。

ラピス・ニゲル: フォロ・ロマーノの黒石。この人物の墓とする説が、古代から伝えられている。

ホスティウス・ホスティーリウスが司るもの

先陣

軍の先頭に立って倒れた者として、勇士の型を語る際に引かれた。

誓いの起こり

ユーピテル・スタトルの祭祀が生まれるきっかけとなった。

家の由緒

ホスティーリウス家が王を出す根拠として語られた。

ホスティウス・ホスティーリウスが登場するゲーム・アニメ

この人物が作品の主役になることは、ほとんどありません。 名を知られているのは、孫にあたる第三代の王のほうです。

サビニ戦を描いた絵では、倒れる兵のひとりとして置かれます。

主題として選ばれるのは、女たちが割って入る場面です。その手前で誰が倒れたかまでは、絵の中では区別されません。

日本では、ローマ建国伝説を紹介する本のなかで、ユーピテル・スタトルの誓いの説明として名が出る程度です。単独で扱われることはまずありません。

ホスティウス・ホスティーリウスが登場する古典の記述

ローマ建国以来の歴史

第1巻12章。サビニ戦の場面で、先頭に立って倒れる者として記されます。

ローマ古代誌

ギリシャ語の歴史書。サビニ戦の経過をより詳しく伝えています。

ホスティウス・ホスティーリウスが登場する絵画・創作

サビニの女たちを描いた作品

この戦を主題とする絵の中に、倒れた勇士として置かれることがあります。

建国期を扱う読み物

サビニ戦の場面で、名を挙げて紹介されることがあります。

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ホスティウス・ホスティーリウスについてよくある質問

ホスティウス・ホスティーリウスは何をした人ですか。

ロームルスの時代、サビニ人との戦いでローマ軍の先頭に立った武人です。のちにフォルム・ロマーヌムとなる低地で討たれ、その死をきっかけにローマ軍が崩れました。リウィウス第1巻12章に記されます。

ユーピテル・スタトルとどう関係しますか。

彼が倒れて軍が崩れたとき、ロームルスがユーピテルに向かい、兵を踏みとどまらせてくれるならここに神殿を建てると誓いました。引き留める者を意味するユーピテル・スタトルの祭祀は、この誓いから始まったと語られます。

第三代の王とはどういう関係ですか。

第三代の王トゥッルス・ホスティーリウスの祖父にあたるとされます。ローマの王は世襲ではありませんでしたが、国のために先頭で倒れた家という由緒が、この家から王が出る理由として語られました。

妻は誰ですか。

ヘルシリアとする伝えがあります。ただしヘルシリアをロームルスの妻とする伝えも並んで残り、古代の書き手のあいだで一致していません。どちらが古い形かも決まっていません。

墓はどこにありますか。

フォロ・ロマーノの黒石ラピス・ニゲルの下とする説が伝えられています。ただし同じ場所について、ロームルスの墓とする説、乳父ファウストゥルスの墓とする説も並んで残っており、確かめられていません。