ローマ最後の王。傲慢な統治のすえ追われ、王政が終わった。
タルクィニウス・スペルブスとは何の神様か
タルクィニウス・スペルブスはひとことで言えばローマの王政を終わらせた王です。伝えでは前534年から前509年まで在位しました。
添え名スペルブスは「傲慢な者」を意味します。生前の呼び名ではなく、追放されたのちに定着した名です。
位は、階段から始まりました。
先王セルウィウス・トゥッリウスを元老院の建物の階段から突き落とし、その血の上に王座を得ました。妻トゥッリアは父の遺体の上に車を進めたと伝えられます。
治世は、元老院に諮らない統治として語られます。裁きも死刑も追放も、王ひとりで決めました。議員の数は減り、集会は開かれなくなります。
外に向けては成功しました。ラテンの諸都市を従え、ガビイを内から崩し、カピトリウムの神殿を完成させています。
しかし、息子がひとりの女性を辱めたことで、すべてが崩れました。 前509年、王家は市を追われ、二度と戻りませんでした。
タルクィニウス・スペルブスのローマ名・ギリシャ名と読み方
日本語では「タルクィニウス・スペルブス」「タルキニウス・スペルブス」の両方が使われます。「傲慢王タルクィニウス」と訳して呼ばれることもあります。
タルクィニウス二世という呼び方も見かけますが、第五代の王との血のつながりは、古代の書き手のあいだでも一致していません。
子とする伝えと、孫とする伝えがあります。
在位の年数と世代を突き合わせると、子では合わないという指摘が古くからあり、孫とみるほうが自然とされてきました。
添え名スペルブスは、ラテン語で高ぶること、人を見下すことを指します。似た意味の語が、いまも西ヨーロッパの言語に受け継がれています。
家名タルクィニウスの由来は、エトルリアの町タルクィニイです。この王の名は、出身地と評判の二語でできています。
Tarquinius Superbus(タルクィニウス・スペルブス)
スペルブスは傲慢を意味する語。王を追った側が定めた呼び名で、当人が名乗った添え名ではない。
Lucius Tarquinius Superbus(ルキウス・タルクィニウス・スペルブス)
ローマ風の三つの名を並べた形。歴史書ではこの形で記されることが多い。
Sextus Tarquinius(セクストゥス・タルクィニウス)
息子の名。ルクレティアを辱め、王家の追放を招いた人物として語られる。
タルクィニウス・スペルブスの物語
位の奪い方 ─ 階段と罪の通り
先王セルウィウス・トゥッリウスは、民に土地を分け、人を財産で区分けした王でした。古い家柄の側からは、恨まれていました。
王の二人の娘は、ともにタルクィニウス家に嫁いでいます。そのうち気の強いトゥッリアが、野心のある義弟と結びつき、それぞれの連れ合いを除いて夫婦になったと伝えられます。
やがて機が来ます。彼は元老院を招集し、王の衣をまとって王座に座りました。
駆けつけた老王を、彼は抱え上げて建物の外へ投げます。老王は階段を転げ落ち、逃げる途中で追手に討たれました。
娘の車が、父の遺体の上を通った。
御者は手綱を引きましたが、トゥッリアは進めと命じたといいます。その通りは以後ウィクス・スケレラートゥス、罪の通りと呼ばれました。
ローマ人は、王政の最後を「一族の内側の殺し」から語り起こしています。
諮らぬ王 ─ ケシの花とガビイ
この王は、元老院に相談しませんでした。 裁きも、死刑も、財産の没収も、自分と少数の側近だけで決めています。議員が死んでも補充しませんでした。
近隣の町にも、力ずくと策略で臨みます。もっとも有名なのがガビイの落とし方です。
息子セクストゥスが、父に虐げられたふりをしてガビイへ逃げ込み、町の信頼を得て軍の指揮を任されました。そこから父のもとへ使いを送り、どうすべきかを尋ねます。
王は何も答えません。庭に出て、杖でケシの花の頭を次々に払い落としました。
使いは、王が何もせず庭を歩いていたと報告した。
息子はその意味を読み取ります。高く伸びた者から順に消せ。 町の有力者は次々に殺され、追放され、ガビイは戦わずに落ちました。
この逸話は、後世まで独裁を語るときの型として使われています。背の高い花を刈るという比喩は、ここから来ています。
シビュラの書 ─ 九巻から三巻へ
この王の代に、ローマは予言の書を手に入れたと伝えられます。
クーマエの巫女シビュラと呼ばれる老女が、九巻の書を携えて王のもとを訪れました。法外な値を告げます。
王は笑って断りました。老女は三巻を火にくべ、残る六巻を同じ値で示します。
王はまた断りました。老女はさらに三巻を焼き、残る三巻をやはり同じ値で示します。
ここで王は、言い値を払った。
三巻はシビュラの書として神殿の地下に納められ、専任の役人が管理しました。国に異変があるたびに開かれ、どの神をどう祀るべきかを読み取る書物になります。
買わなかった六巻の中身は、永久に失われました。 高くつく決断を先送りした者が、結局もっと高い代価を払うという話として語られてきました。
書物そのものは前83年の火事で焼け、各地から集め直されたと伝えられます。
追放 ─ ルクレティアの死と王政の終わり
戦陣で、若者たちが妻の品定めを始めました。夜中に馬を飛ばして家々を回ると、ほかの妻は宴に興じ、ルクレティアだけが灯のもとで羊毛を紡いでいました。
その姿を見た王子セクストゥスが、数日後にひとりで彼女の家を訪ね、刃を突きつけて辱めます。
翌朝、彼女は父と夫を呼び、報復の誓いを立てさせてから自らの胸を刺しました。
その亡骸を広場に運び、民に示したのがブルートゥスです。民会は王家の追放を決め、市の門は閉ざされました。前509年のことです。
王は軍を率いて戻ろうとしましたが、市は迎えませんでした。エトルリアの王ポルセンナを頼り、次にラテンの諸都市を動かしてレギッルス湖畔で戦い、いずれも及びません。
老いた王はクーマエへ退き、そこで死んだと伝えられます。
なお、カピトリウムのユーピテル神殿を完成させたのはこの王です。しかし奉献されたのは、王が追われたあとの年でした。最高神殿と共和政が、同じ年に始まっています。
タルクィニウス・スペルブスの家系図と家族
タルクィニウス・スペルブスの親: タルクィニウス・プリスクス親子とする伝えがある
タルクィニウス・スペルブスの性格と人物像
この王は、悪い王として書かれた王です。伝えるのは、王を追った側の子孫たちだからです。
書かれた事績を並べると、二つの顔が出てきます。ひとつは、殺して位を奪い、諮らずに裁き、策略で隣町を落とす顔。もうひとつは、大神殿を仕上げ、ラテンの諸都市を従えた顔です。
有能で、そして恐れられた。
ローマ人が問題にしたのは、能力ではなく手続きでした。民に選ばれず、元老院に諮らず、法の外で決めたこと。共和政の側は、この王を「王というものの正体」として語り継ぎます。
そのため、のちの世で誰かを非難するとき、「王になろうとしている」という言い方が最も重い言葉になりました。カエサルに向けられた非難も、この形をとっています。
実在は否定されていません。 前6世紀末のローマにエトルリア系の支配者がいたことは、多くの研究が認めるところです。ただし、伝えられる個々の場面がどこまで史実かはわかっていません。
タルクィニウス・スペルブスゆかりの地と遺跡
タルクィニウス・スペルブスを祀った神殿は、当然ながらありません。 追放された王だからです。像も碑も、公に立てられた記録は残っていません。
ここに挙げたのは、この王が関わった場所です。完成させた神殿、崩した町、逃れて死んだ町、そして予言書の巫女に結びつく岩窟。
祈られた場所ではなく、関わった場所です。
そのため、この節の見出しを「ゆかりの地」としています。
ローマ市内のウィクス・スケレラートゥス、罪の通りは、名だけが伝わり、正確な位置はわかっていません。 エスクィリーヌスの丘のふもとあたりとされますが、確かめられていないため住所を挙げていません。
ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿(Templum Iovis Optimi Maximi)
ローマ国家の最高神殿
ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿の住所: イタリア ローマ カピトリーノの丘(北緯41.8922 東経12.4817)
ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿の祀られた神: ユーピテル・ユーノー・ミネルウァ
ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿に残るもの: 基礎と壁体の一部(カピトリーニ美術館の地下で見学できる)
ユーピテル・オプティムス・マクシムス神殿のご利益: 国家の安全
祖父にあたるとされる王が始めた工事を、この王が完成させました。
基礎を掘っていたとき、土の中から人の頭が出てきたという話が伝わります。占い師はこう答えました。
この場所は、いずれ世界の頭になる。
丘の名カピトリウムを「頭」の語に結びつける説明で、名の由来を後から作った話とみられています。
完成はしましたが、奉献の式に王はいません。式が行われたのは、王家が追われた翌年でした。
カピトリーニ美術館の地下で基礎を見学できる。丘の広場からは広場跡が見渡せる。
ガビイのユーノー聖域(Templum Iunonis Gabinae)
ガビイの町の中心の聖域
ガビイのユーノー聖域の住所: イタリア ラツィオ州 ローマ東方 ガビイ(北緯41.8869 東経12.7158)
ガビイのユーノー聖域の祀られた神: ユーノー・ガビーナ
ガビイのユーノー聖域に残るもの: 神殿の基壇と階段状の広場(前2世紀の造り)
ガビイのユーノー聖域のご利益: (この王を祀る場ではない)
ケシの花の逸話の舞台となった町です。息子セクストゥスが逃げ込んだふりをして信頼を得、内側から町を崩したと伝えられます。
いま残る大きな聖域は、この出来事よりずっと後の前2世紀のものです。斜面を階段状に組んだ構えで、劇場のような形の広場を持ちます。
王の時代の建物ではありません。 この町が長く重んじられ続けたことを示す遺構として挙げています。
ローマ東郊、旧プラエネスティーナ街道沿い。柵越しに全体を見渡せる。
クーマエ(Cumae)
ギリシャ人がイタリアに築いた最古級の植民市
クーマエの住所: イタリア カンパニア州 ナポリ西方 クーマエ(北緯40.8479 東経14.0564)
クーマエの祀られた神: アポッロ・ユーピテルほか
クーマエに残るもの: アクロポリスの神殿跡、城壁、下の市街
クーマエのご利益: (この王を祀る場ではない)
追われた王が最後に身を寄せ、そこで死んだと伝えられる町です。当時この地を治めていた僭主アリストデーモスのもとに逃れたとされます。
クーマエはギリシャ人がイタリア半島に築いた最も古い植民市のひとつで、ローマより古い町です。
王は、ローマより古い町で死にました。
丘の上には神殿の跡が並び、下の市街には浴場や広場の跡が広がります。予言書を持ち込んだ巫女も、この町の名で呼ばれます。
フレグレイ平野の考古公園として公開。ナポリから鉄道とバスで行ける。
シビュラの洞(Antrum Sibyllae)
巫女の託宣所と伝えられる岩窟
シビュラの洞の住所: イタリア カンパニア州 アウェルヌス湖畔(北緯40.8350 東経14.0767)
シビュラの洞の祀られた神: アポッロ
シビュラの洞に残るもの: 岩を掘り抜いた長い通路
シビュラの洞のご利益: (この王を祀る場ではない)
予言書を王のもとへ運んだとされる巫女シビュラに結びつけられてきた場所です。凝灰岩を掘り抜いた通路が、まっすぐ奥へ伸びています。
『アエネーイス』第6巻で、主人公が冥界への道を尋ねるのもこの巫女です。
通路そのものは軍事用の坑道とみる説が有力で、託宣所であったと断じることはできません。場所の伝えと、掘られた目的が一致していません。
クーマエの考古公園とは別区画。湖畔から歩いて入口に着ける。
タルクィニウス・スペルブスが現代に残した痕跡
この王の名は、権力を戒める言葉として残りました。
王という語の重み: この追放ののち、ローマでは王を名乗ることが最大の非難になった。カエサル暗殺の理由づけにも使われている。
ケシの花の比喩: 高く伸びた花から刈るという言い回し。抜きん出た者が狙われることを指す表現として各国に広がった。
シビュラの書: 国難のたびに開かれた予言の書。外来の神をローマに迎える判断も、この書によって下された。
共和政の紀元: 前509年を共和政の始まりとする数え方。ローマ人は執政官の名で年を呼び続けた。
タルクィニウス・スペルブスが司るもの
権力への戒め
手続きを踏まない支配がどうなるかを示す例として語り継がれた。
大工事の完成
カピトリウムの神殿を仕上げた王として、造営の締めくくりに名が挙がる。
予言の書
シビュラの書を買い取った王とされ、国難のときの伺いの起こりとされた。
タルクィニウス・スペルブスが登場するゲーム・アニメ
創作で前に出るのは、王本人よりも息子セクストゥスとルクレティアの場面です。絵画・詩・歌劇に繰り返し取り上げられてきました。
王は、背景として立っています。
ケシの花の逸話は、専制を表す寓意画の主題として使われました。杖を持つ王と、首を落とされた花という組み合わせです。
日本では、ローマの王政七代を紹介する本のなかで最後の王として扱われるほか、共和政の始まりを語る文脈で名が出ます。
タルクィニウス・スペルブスが登場する古典の記述
ローマ建国以来の歴史
第1巻46章から60章に、簒奪から追放までが連なって記されています。
ルクレティアの陵辱
シェイクスピアの物語詩。事件を女性の側から長く語り直しています。
タルクィニウス・スペルブスが登場する絵画・彫刻
ブルートゥスの誓い
ルクレティアの亡骸の前で復讐を誓う場面。近世に繰り返し描かれました。
タルクィニウスとケシ
杖で花の頭を払う王を描いた画題。専制の寓意として用いられました。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
タルクィニウス・スペルブスについてよくある質問
なぜ傲慢と呼ばれたのですか。
元老院に諮らずに裁き、殺し、追放したためとされます。議員が死んでも補充せず、集会も開きませんでした。添え名スペルブスは追放後に定着した呼び名で、当人が名乗ったものではありません。
どうやって王になりましたか。
先王セルウィウス・トゥッリウスを元老院の建物の階段から突き落として位を奪ったと伝えられます。妻トゥッリアは父の遺体の上に車を進めたとされ、その通りは罪の通りと呼ばれました。
ケシの花の話はどういう意味ですか。
息子から助言を求められた王が、答える代わりに庭でケシの花の頭を杖で払い落としたという逸話です。町の有力者から順に消せという指示と読み取られ、ガビイは戦わずに落ちました。
シビュラの書とは何ですか。
クーマエの巫女が持ち込んだ予言の書です。九巻を提示され、断るたびに三巻ずつ焼かれ、最後に残った三巻を九巻の値で買い取ったと伝えられます。国難のたびに開かれる書物になりました。
この王はどこで死にましたか。
クーマエで死んだと伝えられます。前509年に追われたのち、エトルリアの王ポルセンナやラテンの諸都市を頼って戻ろうとしましたが果たせず、レギッルス湖畔の戦いのあとに南のクーマエへ退きました。