トールの頭の砥石を抜こうとした魔女。死してなお息子に呪文を授けた。
グローアとは何の神様か
グローアはひとことで言えば呪歌で人を助ける女です。魔女、あるいは巫女として語られます。夫はアウルヴァンディル、子は英雄スヴィプダグ。
この名が出てくる場面は二つあります。ひとつは、決闘のあとトールの頭に食いこんだ砥石の破片を抜こうとしたこと。呪歌を歌って治療にあたりました。
もうひとつが、古エッダ?の『グローアの呪文歌』です。ここではすでに死んでいます。息子が墓のそばで呼び起こし、母は九つの呪文を授けて旅の苦難から息子を守りました。
二つの場面には対比があります。生きているときはトールを治しきれず、砥石は頭に残りました。死んでからは、息子を守り抜きます。
死んでからのほうが力を発揮したという、珍しい形の女性です。
グローアの名前の表記と読み方
古ノルド語では Gróa(グローア)。日本語ではグロア、グローアと書かれます。
名は「生い茂る」「癒える」を意味する語と同じ形とされます。傷が塞がることも、草が伸びることも、北欧語では同じ言葉で言い表せました。治療する女に、そのまま「治る」という名が付いていることになります。
この女性が主人公となる詩は『グローアの呪文歌』と呼ばれます。息子スヴィプダグの物語の前半にあたり、後半の『フョルスヴィーズルの言葉』と合わせて一続きの詩として読まれるようになりました。
日本語の文献では、魔女と訳されることも巫女と訳されることもあります。
Gróa(グローア)
古ノルド語の表記。「生い茂る」「癒える」を意味する語と同じ形とされる。
Grógaldr(グローガルドル)
「グローアの呪文歌」。この女性が息子に呪文を授ける古エッダの詩。
Aurvandill(アウルヴァンディル)
夫の名。トールに救われた男として『詩語法』に現れる。
グローアの物語
砥石を抜く ─ 途中で終わった治療
巨人フルングニルとの決闘で、トールは勝ちました。しかし無傷ではありません。
投げられた砥石は槌とぶつかって砕け、その破片がトールの頭に食いこみました。 抜けません。
そこで呼ばれたのが、この女性でした。呪歌を歌い、治療にあたります。歌ううちに砥石は緩み始めました。
ところが『詩語法』は、砥石は取り除かれず、そのまま頭に残ったと伝えます。
なぜ抜けなかったのか、原典の記述だけでは追いきれません。神話でもっとも強い神が、頭に石を刺したまま歩き続けている。 その状態を作ったのが、途中で止まったこの治療でした。
なお、夫アウルヴァンディルはトールに助けられて川を渡ったと語られ、この夫婦は雷神と縁の深い一家です。
墓を訪ねる息子 ─ 九つの呪文
古エッダ『グローアの呪文歌』は、墓の前から始まります。
呼びかけるのは息子スヴィプダグ。母はすでに死んでいます。継母に無理な言いつけを与えられ、どうにもならなくなって、母の墓を訪ねたのです。
目を覚ませ、グローアよ。よき女よ、目を覚ませ。死者の扉のもとで、わたしはおまえを呼ぶ。
母は応じました。そして九つの呪文を授けます。重荷を軽くする呪文、道に迷わぬ呪文、川を渡る呪文、敵に打ち勝つ呪文、鎖を解く呪文、海を鎮める呪文、霜を防ぐ呪文、死者に襲われぬ呪文、巨人と言葉を交わす呪文。
母は、息子がこれから遭う困難をすべて言い当てています。
死者のほうが先を知っている。 北欧神話が繰り返し描く形です。
死者を呼び起こす ─ 北欧の降霊
この詩でもうひとつ重要なのは、死者を呼び起こすという行為そのものです。
同じことを主神オーディンもしています。バルドルの死の夢を確かめるため、死者の国へ下って古い巫女を呪文で起こしました。
つまり北欧神話では、死者に問うことが、未来を知るためのまっとうな手段でした。
違うのは動機です。オーディンは知るために起こしました。スヴィプダグは助けを求めて起こします。
呼び起こされる側にも差があります。 オーディンが起こした巫女は迷惑がり、早く帰らせろと繰り返しました。この母は違います。息子の求めに応じ、九つの呪文を惜しみなく与えます。
呼ばれた死者が味方である、という点で、この詩は北欧の降霊の場面のなかでも例外的です。
なぜ資料が少ないのか
この女性についての記述は、二つの場面に限られます。それ以外は伝わっていません。
生まれも、素性も、いつ死んだのかも書かれていません。魔女とされますが、どの一族の出かもわかりません。
理由として考えられるのは、二つの物語がもともと別だったことです。トールの頭の砥石を抜く話は新エッダ?の『詩語法』に、息子へ呪文を授ける話は古エッダの詩にあります。同じ名の女性が、別々の伝えに現れているとも読めます。
どちらも「呪歌を歌う女」という点では一致します。そのため同一人物として扱われてきました。
別人かもしれない、という可能性は残っています。 資料が乏しいときに起きる、よくある事情です。
グローアの家系図と家族
グローアの子・子孫: スヴィプダグ母子。死後に九つの呪文を授ける
グローアの性格と人物像
グローアは、求めに応じる女です。
トールに呼ばれれば歌い、息子に呼ばれれば墓から答える。自分から何かを望む場面がありません。
それでいて、力は確かです。 抜けないはずの砥石を緩ませ、息子が遭う困難を先回りして九つ言い当てます。求められたときだけ、正確に働きます。
北欧神話の女性には、この形がしばしば現れます。すべてを知りながら語らないフリッグ。運命を知りながら黙るゲフィオン。知と力を持ちながら、こちらから動かない。
ただしこの女性には、ひとつ違う点があります。死んでからも応じたことです。
墓の下から息子に答える母。北欧神話にはむごい場面が多くありますが、この一場面は数少ない温かい場面として読み継がれてきました。
北欧神話で癒しを担う存在としては、ほかに「最良の医者」と呼ばれた女神エイルがいます。
グローアゆかりの地と遺跡
この女性を祀った場所は見つかっていません。 地名にも人名にも残っていません。
物語のうえでのゆかりの場所は、息子が呼びかけた墓です。古エッダの詩は「死者の扉のもと」と歌いますが、どこにあるとも書かれていません。北欧には呪文を刻んだルーン石が各地に残りますが、この女性に結びつくものは確認できていません。
グローアが現代に残した痕跡
この女性の名は、詩の題名と、癒しをめぐる言葉に残りました。
『グローアの呪文歌』: 古エッダの詩の題名にこの女性の名が残る。息子スヴィプダグの物語の前半にあたる。
「生い茂る」「癒える」: 名と同じ形の語が、草が伸びることと傷が塞がることの両方を意味した。治す者に治るという名が付いている。
トールの頭の砥石: 抜けなかった砥石は、そのまま雷神の頭に残ったと伝えられる。治療が途中で終わったことの痕跡が、神の体に刻まれている。
グローアが司るもの
魔術
呪歌をあやつる魔女、または巫女として語られる。
医薬
呪歌によってトールの傷を治そうとしたことによる。
呪文
息子に九つの呪文を授けた場面が古エッダに残る。
グローアについてよくある質問
グローアは誰ですか。
呪歌をあやつる魔女、または巫女です。アウルヴァンディルの妻で、英雄スヴィプダグの母にあたります。
トールの砥石は抜けたのですか。
抜けませんでした。呪歌によって緩み始めたものの取り除かれず、そのまま頭に残ったと『詩語法』は伝えます。
死んでいるのに息子と話せるのですか。
『グローアの呪文歌』では、息子が墓のそばで呼びかけ、死者となった母が応じて九つの呪文を授けます。北欧神話では、死者を呼び起こして問うことが未来を知る手段として描かれます。
二つの話は同じ人物ですか。
どちらも呪歌を歌う女として一致するため、同一人物として扱われてきました。ただし出典が新エッダと古エッダに分かれており、別人の可能性は残ります。
グローアと併せて覚えたい言葉・用語
古エッダ(こエッダ)
詩の形で伝わる北欧神話の歌謡集。13世紀の写本に収められたが、成立はさらに古い。作者は不明。
新エッダ(しんエッダ)
1220年頃にアイスランドのスノッリ・ストゥルルソンが著した散文の書。神話を体系的に整理しており、現在の北欧神話の理解はこの書に多くを負う。