下エジプトを守るコブラの女神。王の額で鎌首をもたげる。
ウアジェトとは何の神様か
ウアジェトはひとことで言えば王の額にいる神です。
下エジプト、つまりナイル下流のデルタ地帯を守るコブラの女神です。名は「緑の者」を意味します。パピルスの茂る湿地の色です。
信仰の中心はブト。エジプト語では、
ペル・ウアジェト(ウアジェトの家)
と呼ばれました。町の名がそのまま、この女神の家という意味です。
もっともよく知られた姿は、神像ではなく王冠の一部です。
鎌首をもたげたコブラが、王の額から前を見すえている。
ウラエウス?と呼ばれます。近づく敵を炎で焼くとされました。
上エジプトのネクベトと対になり、二柱そろって「二女神」と呼ばれます。王の正式な称号のひとつが、この二柱の名でできています。
ウアジェトのヒエログリフの表記と読み方
エジプト語では wꜣḏt。日本語ではウアジェト、ウアジト、ウァジェトなどと表記が揺れます。
語根の意味は「緑」です。ただしエジプト語の緑は、
若い、健やか、みずみずしい
という広がりを持ちます。色の名前であると同時に、状態の名前でした。
重要なのは、ウジャトの目という語がここから出ていることです。
ホルスが失い、トートが癒した左目。その護符の名。
この名は「完全にされたもの」を意味し、女神の名と語根を共有します。別の神の話に、この女神の名が残っているという関係です。
ギリシャ人はブトの町をブトーと呼び、女神をウトと記しました。日本で「ブト」という地名が定着しているのは、この経路によります。
wꜣḏt(ウアジェト)
ヒエログリフの転写。「緑の者」「パピルス色の者」を意味する。
Οὐτώ(ウト)
ギリシャ語形。ヘロドトスはこの名で記し、ギリシャの女神レトと重ねた。
wꜣḏt-jrt(ウジャトの目)
同じ語根からできた語。「完全なもの」「健やかなもの」を意味し、ホルスの目の護符の名になった。
ウアジェトの物語
ブトの女神 ─ デルタの湿地から
ブトは、ナイルのデルタにある古い町です。
上下エジプトが統一される前、下エジプトの中心のひとつだった。
と考えられています。
この町の守り神が、ウアジェトでした。
湿地の神である点が重要です。
パピルスが茂り、水鳥が集まり、コブラが潜む土地。
上流の乾いた谷とは、まったく違う風景です。下エジプトの神は、水と緑の神になりました。
ブトには神託所があったと伝えられます。ギリシャの歴史家ヘロドトスは、
エジプトでもっともよく当たる神託
として、この地の名を挙げています。
遺跡は現在テル・エル・ファライーン(王たちの丘)と呼ばれ、カフル・エッシェイク県にあります。デルタの遺跡は、
湿った土に埋もれ、石が持ち去られ、耕地の下に沈む
条件が重なるため、上エジプトの神殿のようには残っていません。下エジプトの神が語られにくいのは、この保存条件のせいでもあります。
ウラエウス ─ 王の額で鎌首をもたげる
エジプトの王の像を思い浮かべてください。額のところに、蛇がいます。
これがウラエウスです。
鎌首をもたげたコブラが、正面をにらんでいる。
この蛇がウアジェトです。
役目は明確です。
王に近づく敵を、炎で焼く。
呪文には「火を吐く者」という表現が繰り返し現れます。守るのではなく、先に攻撃する形の守りです。
ウラエウスは王だけのものではありません。
神々の冠にもつく。神殿の壁の上端にも、コブラが並ぶ。
神殿の屋根の縁を、鎌首をもたげたコブラの列が飾ります。建物そのものを守る囲いです。
ツタンカー?メンの黄金のマスクには、
コブラとハゲワシが、並んで額についています。
ウアジェトとネクベト、下エジプトと上エジプトです。王が両方を治めていることを、顔の正面で示しています。
二女神 ─ ネクベトと組で王を名づける
エジプトの王は、五つの名前を持ちました。そのうちの一つが「二女神名」です。
ネブティ名。ネブティとは「二人の女主人」を意味する。
この二人が、ネクベトとウアジェトです。
対応は決まっています。
ハゲワシのネクベトが上エジプト、白冠。
コブラのウアジェトが下エジプト、赤冠。
王が両方の冠を重ねてかぶることを「二重冠」といいます。国が一つであることを、頭の上で示す仕組みです。
注目すべきは、守り神が二柱とも女神であることです。
戦の神でも、太陽の神でもない。
王を守るのは、母のように覆う鳥と、額で威嚇する蛇でした。
この組み合わせは、エジプトが国家である三千年のあいだ、ほぼ変わりませんでした。 王朝が替わり、都が動き、主神が入れ替わっても、
二女神名だけは残り続けました。
シンボル ─ 緑の名と、ホルスを隠した湿地
この女神をめぐる図像は、三つあります。
一つめがウラエウス。王の額のコブラです。
二つめがパピルスの柱。下エジプトを表す植物で、この女神の持ち物です。
上エジプトは蓮、下エジプトはパピルス。
神殿の柱の形にも、この区別が使われました。
三つめがウジャトの目?です。名の語根が同じで、
完全なもの、欠けのないもの
を意味します。エジプトでもっとも多く作られた護符が、この名を持っています。
物語のなかでの働きも伝えられています。
イシスがセトから隠れて、幼いホルスをデルタの湿地で育てた。
このときの隠れ場所を守ったのがウアジェトである、とする伝えがあります。ケムミスと呼ばれる浮島です。
目に見える形では、この女神は
王の額と、護符と、神殿の縁
にいます。独立した神像より、他のものの一部として残った神です。
ウアジェトの家系図と家族
ウアジェトの性格と人物像
ウアジェトは、先に噛む神です。
王に近づく者を、炎で焼く。
待って守るのではありません。
注目すべきは、この女神が顔の正面にいることです。
王の像を見る者は、必ずこの蛇と目が合う。
三千年のあいだ、エジプトの王は例外なく額に蛇をつけていました。神像ではなく、王の身体の一部として残った神です。
そして、名が「緑」であることを見落とせません。
攻撃的な神が、みずみずしさの名を持っている。
湿地の神だからです。パピルスが茂り、水鳥が鳴き、その足元にコブラがいる。豊かさと危険が同じ場所にあるという、デルタの土地そのものです。
もうひとつ。この女神は単独では語られません。
かならずネクベトと二柱で扱われる。
一柱では国の半分にしかならないからです。対であることが、この神の性格です。
ウアジェトを祀った神殿と遺跡
ウアジェトの聖地は、残り方が悪い神の代表例です。
中心地ブトは、耕地のなかの土の丘。
デルタは水位が高く、石材も後代に運び去られました。同じ二女神でありながら、上エジプトのエル・カブとは残り方がまったく違います。
そのかわり、この女神は
王冠、護符、神殿の縁飾り
という形で、エジプト中に散らばって残りました。
博物館でエジプトの王の像を見るとき、額を見てください。そこにいます。
テル・エル・ファライーン(ブト)(Tell el-Faraeen / Buto)
ウアジェト信仰の中心地
テル・エル・ファライーン(ブト)の住所: エジプト カフル・エッシェイク県
テル・エル・ファライーン(ブト)の祀られた神: ウアジェト
テル・エル・ファライーン(ブト)に残るもの: 都市遺構と墓域(発掘中)
エジプト語でペル・ウアジェト、「ウアジェトの家」と呼ばれた町です。現在の名テル・エル・ファライーンは「王たちの丘」を意味します。
観光光地化された神殿ではありません。
見えるのは、平らな耕地のなかに盛り上がった土の丘。
デルタの遺跡は、湿った土に沈み、石材が後代に持ち去られたため、上エジプトのようには残っていません。
それでも、この町は
下エジプトで最初にまとまった勢力の中心
と考えられています。エジプト政府の記録でも、この地は下エジプト最初の組織的な国家の首府として扱われています。
ギリシャの歴史家ヘロドトスは、ここによく当たる神託所があったと記しました。
出土品の一部はカフル・エッシェイク博物館に展示されている。
エジプト博物館(タハリール)(The Egyptian Museum)
ウラエウスの実物が見られる場所
エジプト博物館(タハリール)の住所: エジプト カイロ
エジプト博物館(タハリール)の祀られた神: ウアジェト・ネクベト
エジプト博物館(タハリール)に残るもの: 王の冠・黄金のマスク・護符
ウアジェトを見るなら、神殿ではなく博物館です。
この女神は独立した大神像がほとんど残らず、
王冠の額、護符、装身具
という形で伝わりました。
もっとも有名なのが、ツタンカーメンの副葬品です。額には、
コブラとハゲワシが並んでついています。
下エジプトと上エジプトを、王の顔の正面で並べた造形です。
カイロのこの館は、中東で最も古い考古博物館とされ、ファラオ時代の収蔵品の規模は世界最大級です。近年は主要な収蔵品の一部が新しい館へ移されているため、
訪問前に、目当ての品がどちらにあるかを確かめる
必要があります。
カイロ中心部。展示替えが続いているため公式の案内を確認したい。
エル・カブ(Elkab)
対になるネクベトの聖地
ウアジェトの相方であるネクベトの中心地です。二女神は対で扱われるため、
一方の聖地には、もう一方の姿も刻まれています。
この地は先王朝時代からギリシャ・ローマ時代まで途切れずに使われました。上エジプトの守護女神の町として、エジプト政府の遺跡案内にも記載があります。
見どころは、集落全体を囲む
日干し煉瓦の巨大な囲壁
です。神殿だけでなく、町ごと囲った規模が残っています。
下エジプトのブトが土の丘になっているのに対し、上エジプトのこちらは石と煉瓦が立っています。同格の二女神が、まったく違う残り方をしました。
ルクソールとアスワンのあいだ、ナイル東岸。エドフ方面と合わせて回れる。
ウアジェトが現代に残した痕跡
ウアジェトの姿は、王の額と、護符の名として残りました。
ウラエウス: 王冠の正面につく、鎌首をもたげたコブラの意匠。エジプトの王の像であれば、時代を問わずほぼ必ずついている。
二女神名(ネブティ名): 王の五つの名前のひとつ。ネクベトとウアジェトの名で構成され、三千年にわたって形が変わらなかった。
ウジャトの目: この女神の名と語根を共有する護符の名。「完全なもの」を意味し、古代エジプトでもっとも多く作られた護符となった。
ブトという地名: ギリシャ人による呼び名が現代の呼称として定着した。エジプト語の名は「ウアジェトの家」を意味するペル・ウアジェトだった。
ウアジェトが司るもの
王の守護
王冠の正面につくウラエウスとして、近づく敵を焼くとされた。
下エジプトの守り
デルタ地帯を代表する女神。赤冠とパピルスがしるし。
魔除け
ウジャトの目の護符と語根を共有し、欠けを埋め完全にする力とされた。
子の守り
イシスが湿地で幼いホルスを育てたとき、その場所を守ったと伝えられる。
ウアジェトが登場するゲーム・アニメ
神としてより、意匠として知られている神です。
王の額の蛇。
この形は誰でも知っていますが、それが女神の名を持つことは、あまり触れられません。
また、ネクベトと対であるという点も省かれがちです。原典では、
一柱だけでは国の半分にしかならない
扱いでした。
ウアジェトが登場するゲーム
ウアジェトが登場するアニメ・漫画・映像
古代エジプト展
王冠や黄金のマスクの解説のなかで、額のコブラとしてこの女神が紹介されます。
エジプトを扱った映像作品
王の額の蛇は、エジプトらしさの記号として繰り返し使われています。
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ウアジェトについてよくある質問
ウアジェトは何の神様ですか。
下エジプト(ナイル下流のデルタ地帯)を守るコブラの女神です。王冠の正面につくウラエウスとして、王に近づく敵を焼くとされました。
ウラエウスとは何ですか。
王冠の額の部分につく、鎌首をもたげたコブラの意匠です。この女神そのものを表します。ツタンカーメンの黄金のマスクにもついており、隣にはネクベトのハゲワシが並びます。
ネクベトとの違いは何ですか。
守る範囲が違います。ウアジェトが下エジプトでコブラと赤冠、ネクベトが上エジプトでハゲワシと白冠です。二柱そろって「二女神」と呼ばれ、王の正式な称号のひとつを構成しました。
ウジャトの目とは関係がありますか。
あります。語根が同じで、どちらも「緑の者」「完全なもの」という意味の系統に属します。ウジャトの目はホルスが失って癒された左目の護符ですが、その名はこの女神の名と共有されています。
ウアジェトの神殿はどこにありますか。
中心地はデルタのブト(現テル・エル・ファライーン、カフル・エッシェイク県)ですが、現在は耕地のなかの土の丘で、立っている神殿はありません。ウラエウスの実物はカイロの博物館で見られます。
なぜ守り神が蛇なのですか。
デルタは水と緑の土地であり、そこに潜むコブラは実際に危険な存在でした。エジプトは危険なものを排除するのではなく、王の側に置いて敵に向けるという考え方をとります。名が「緑の者」であるのも、この湿地の風景から来ています。
ウアジェトと併せて覚えたい言葉・用語
ウラエウス(jꜥrt/額のコブラ)
王冠の額に立つコブラ。敵に炎を吐いて王を守る。アトゥムが自分の目を額に置いたことが起源とされる。
カー(kꜣ/生命力)
人と一緒に生まれ、死後も供物を受け取る生命力。クヌムがろくろで人を作るとき、肉体とカーの二体を同時に形作った。
ウジャトの目(wḏꜣt/完全なもの)
セトに奪われ、トートが癒して完全にしたホルスの左目。「失われたものが取り戻される」象徴として、最も多く作られた護符の一つ。ラーの目(攻撃と破壊)とは性格が正反対。