頭に魚を戴く、エジプトでただ一柱の魚の女神。
ハトメヒトとは何の神様か
ハトメヒトはひとことで言えば例外の神です。
頭上に魚を戴いた女神で、名は「魚たちの先頭にあるもの」と解されます。
エジプトの神は、牛、隼、猫、ワニ、蛇、蛙と、さまざまな動物を器にしました。しかし、
魚を戴く神は、この女神だけです。
理由は、魚の扱いにあります。エジプトでは魚を食べましたが、同時に
神官は魚を口にしない。
聖なる日には魚を避ける。
という禁忌が広く見られました。日常の食べ物でありながら、聖なる場からは遠ざけられていました。
背景には物語があります。オシリスの遺体が切り刻まれて撒かれたとき、
一部を魚が食べてしまった
と伝えられます。
信仰の中心はメンデス。デルタ東部の町で、牡羊の神の妻として祀られました。
ハトメヒトのヒエログリフの表記と読み方
エジプト語では ḥꜣt-mḥyt。日本語ではハトメヒト、ハトメヒィト、ハトメヒュトと表記が揺れます。
名は二語からできています。
ハト(先頭・前にあるもの)+ メヒト(魚の一種)。
つまり「魚たちの先頭にあるもの」。魚の長、という意味です。
もうひとつの読みとして、
「北にあるもの」
と解する見方もあります。デルタの神であることと合います。
中心地の名も重要です。
エジプト語でジェデト。ギリシャ語でメンデス。
この町の名は、ジェド柱という意匠と語根を共有するとされます。オシリスの背骨を表すとされる、四段の横木が入った柱です。
夫とされる牡羊の神の名は「ジェデトの主の魂」を意味します。町の名が、神の名に何重にも入り込んでいます。
ḥꜣt-mḥyt(ハト・メヒト)
ヒエログリフの転写。「魚たちの先頭にあるもの」と解される。
ḏdt(ジェデト)
この女神の中心地のエジプト語名。ギリシャ語ではメンデスと呼ばれた。
bꜣ-nb-ḏdt(バ・ネブ・ジェデト)
「ジェデトの主の魂」。この町の牡羊の神で、この女神の夫とされる。
ハトメヒトの物語
魚を戴く ─ エジプトでただ一柱
エジプトの神の姿を思い浮かべてください。
隼のホルス。牝牛のハトホル。猫のバステト。ワニのソベク。蛙のヘケト。
身の回りの動物が、次々に神になっています。
しかし、魚はほとんど出てきません。
ナイルには魚が豊富にいました。壁画には漁の場面が繰り返し描かれ、庶民の重要な食料でした。それでも、
魚を頭に戴く神は、この女神だけです。
理由は、扱いの複雑さにあります。
エジプトでは、
神官は魚を口にしない。
聖なる日や場所では、魚を避ける。
という禁忌が広く見られました。日常の食べ物でありながら、聖なる場からは遠ざけられていました。
背景として語られるのが、オシリスの物語です。
遺体が十四に切り刻まれて撒かれたとき、一部を魚が食べてしまった。
イシスが集めて回ったなかで、その部分だけが見つかりませんでした。
神の体を食べた動物という位置づけです。
その魚を頭に載せる女神が、デルタの町にいました。エジプトの信仰が一枚岩でないことが、よく分かる例です。
メンデスの町 ─ 牡羊の神の妻として
この女神の中心地は、
エジプト語でジェデト。ギリシャ語でメンデス。
と呼ばれた町です。デルタの東部にありました。
この町の主神は、牡羊の神です。名は「ジェデトの主の魂」を意味します。
ハトメヒトは、その妻とされました。子は幼子の神です。
父、母、子の三柱。
エジプトの都市に共通する組み方です。
興味深いのは、もともとこの女神のほうが古いとする見方があることです。
先に町の神であったハトメヒトの位置に、後から牡羊の神が入った。
主神が入れ替わる例は、エジプトでは珍しくありません。テーベでモンチュからアメンへ移ったのと同じ構図です。
ギリシャの歴史家ヘロドトスも、この町の牡羊について記録を残しています。
生きた牡羊が、神として飼われていた。
メンフィスのアピス牛、アルマントのブキス牛と同じ仕組みです。
遺跡は現在も発掘が続いており、デルタの都市がどう作られたかを知る手がかりになっています。
オシリスの断片 ─ 各地が主張したもの
オシリスの物語には、続きがあります。
遺体は十四に切り刻まれ、エジプト各地に撒かれた。
この筋書きが、思わぬ働きをしました。
多くの町が、うちにオシリスの一部がある、と主張できるようになった。
物語が、各地の主張を後からまとめる仕組みになっています。
メンデスも、そのひとつです。
この町に来たのは、背骨。
とされました。
背骨を表す意匠が、ジェド柱です。
四段の横木が入った、柱の形の記号。
安定と永続を意味し、護符としても大量に作られました。
町の名ジェデトと、ジェド柱は、語根を共有するとされます。
地名と、意匠と、神話が、一つに結びついています。
ハトメヒトは、この町の古い神として、その中心にいました。
魚が神の体を食べたという話と、神の体の一部がこの町にあるという主張が、同じ場所で並んでいます。
エジプトの神話は、整理されていません。 矛盾したまま、両方が残ります。
なぜ記録が少ないのか ─ デルタという条件
ハトメヒトについて残っているものは、多くありません。
最大の理由は、場所です。
デルタの遺跡は、条件が悪いのです。
地下水位が高く、遺構が湿った土に沈む。
石材が後代に持ち去られ、建材に転用される。
上に耕地と村ができる。
上エジプトの乾いた谷とは、保存の条件がまったく違います。
実際、
下エジプトのウアジェトの町ブトも、耕地のなかの土の丘。
ソペドの町も、立っている建物がない。
デルタの神は、軒並み資料が乏しくなります。
第二の理由が、主神の交代です。
後から入った牡羊の神が、町の代表になった。
記録は新しい主神の名で残ります。
第三に、魚という器です。
神殿の場から遠ざけられる動物。
図像として広まりにくい条件がそろっています。
それでも、この女神は消えませんでした。 頭に魚を載せた姿は、エジプトでただ一つの形として残っています。記録の少なさは、信仰がなかったことを意味しません。
ハトメヒトの家系図と家族
ハトメヒトの性格と人物像
ハトメヒトは、例外の神です。
エジプトでただ一柱、魚を頭に戴く。
他に同じ形の神がいません。
注目すべきは、その魚が、神の体を食べた動物であることです。
オシリスの遺体の一部を、魚が食べた。
その魚を、頭に載せています。エジプトの信仰が一枚岩ではないことを、これ以上はっきり示す例はありません。
もうひとつ、この神は譲った側です。
後から入った牡羊の神が、町の主神になった。
テーベでモンチュがアメンに譲ったのと、同じ構図です。エジプトは古い神を消さず、位置を下げて残します。
そして、この神はデルタの神です。
湿った土に沈み、石を運び去られ、耕地の下になる。
上エジプトの神が石の神殿とともに残ったのに対し、デルタの神は資料が乏しくなりました。
残り方の差は、信仰の差ではありません。 地形の差です。
ハトメヒトを祀った神殿と遺跡
ハトメヒトの神殿は、立っていません。
中心地はデルタ東部の町でしたが、
地下水位が高く、石材が持ち去られ、上に耕地ができた。
ため、上エジプトの神殿のようには残りませんでした。
同じ事情は、デルタの神に共通します。
ウアジェトの町ブトも、耕地のなかの土の丘。
ソペドの町も、立っている建物がない。
そのため、この女神を訪ねるなら
博物館の小像と、上エジプトの神殿の壁
を見ることになります。残り方の差は、信仰の差ではありません。 地形の差です。
アビドス(Abydos)
オシリスの断片をめぐる主張の中心地
エジプト政府の年代解説は、アビドスを
ナカダ2期のもっとも重要な遺跡のひとつであり、上エジプトにある
と記しています。オシリス信仰の最大の聖地です。
ハトメヒトの神殿ではありません。比べるために挙げます。
オシリスの遺体は十四に切り刻まれて撒かれた、と伝えられます。そのため、
多くの町が、うちにオシリスの一部がある、と主張しました。
アビドスは頭、メンデスは背骨。 物語が、各地の主張を後からまとめる仕組みになっています。
アビドスは石の神殿がよく残り、
メンデスは、デルタの湿った土の下。
同じ物語に連なる二つの町が、まったく違う残り方をしました。 保存の条件の差です。
ルクソールから車で行ける。デンデラと合わせた一日の行程が一般的。
エジプト博物館(タハリール)(The Egyptian Museum)
魚を戴く姿とジェド柱が見られる場所
ハトメヒトを実物で探すなら、小像と浮き彫りです。
頭上に魚を載せた女性。
エジプトでただ一つの形です。 数は多くありませんが、見分けやすい姿をしています。
あわせて見たいのが、ジェド柱の護符です。
四段の横木が入った、柱の形の記号。
安定と永続を意味し、大量に作られました。オシリスの背骨を表すとされ、この女神の町の名と語根を共有します。
カイロのこの館は中東でもっとも古い考古博物館とされ、ファラオ時代の収蔵品の規模は世界最大級です。近年は主要な収蔵品の一部が新しい館へ移されているため、
訪問前に、目当ての品がどちらにあるかを確かめる
必要があります。
カイロ中心部。展示替えが続いているため公式の案内を確認したい。
ハトメヒトが現代に残した痕跡
ハトメヒトの姿は、頭上の魚という、ただ一つの形に残りました。
魚を戴く姿: エジプトで、魚を頭に載せる神はこの女神だけ。他に同じ形の神がいない。
ジェド柱: 四段の横木が入った柱の形の記号。安定と永続を意味し、オシリスの背骨を表すとされる。この女神の町の名と語根を共有する。
メンデスという地名: エジプト語ジェデトのギリシャ語形。ヘロドトスもこの町の牡羊について記録を残している。
魚の禁忌: 神官は魚を口にせず、聖なる日には魚を避けるという習慣。日常の食べ物でありながら、聖なる場からは遠ざけられていた。
ハトメヒトが司るもの
町の守り
メンデス(ジェデト)の古い守り神として、この町を代表した。
水と漁
エジプトでただ一柱、魚を頭に戴く神。デルタの水辺と結びつく。
死者の守り
オシリスの遺体の一部がこの町に来たという伝えと結びつき、葬送に関わる。
安定
町の名は、安定と永続を意味するジェド柱と語根を共有するとされる。
ハトメヒトが登場するゲーム・アニメ
ほぼ知られていません。
デルタの神は、軒並み創作から抜け落ちます。神殿が残っていない土地の神は、語られる機会がありません。
しかし、
神の体を食べた動物を、頭に載せる女神がいた。
という事実は、エジプトの信仰が一枚岩でないことを示す好例です。矛盾したまま両方が残る、という体系の性格が現れています。
ハトメヒトが登場するゲーム
ハトメヒトが登場するアニメ・漫画・映像
古代エジプト展
珍しい図像として、頭上に魚を戴く像が紹介されることがあります。
エジプトの食を扱った書籍
魚の禁忌の話題で、この女神が例外として引かれます。
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。
ハトメヒトについてよくある質問
ハトメヒトは何の神様ですか。
頭上に魚を戴いた女神です。名は「魚たちの先頭にあるもの」と解されます。デルタ東部の町メンデス(エジプト語でジェデト)の守り神で、牡羊の神の妻として祀られました。
エジプトに魚の神は他にいますか。
いません。魚を頭に載せる神は、この女神だけです。エジプトでは神官は魚を口にせず、聖なる日には魚を避けるという禁忌が広く見られました。日常の食べ物でありながら、聖なる場からは遠ざけられていました。
なぜ魚が避けられたのですか。
オシリスの遺体が切り刻まれて撒かれたとき、一部を魚が食べてしまったと伝えられます。イシスが集めて回ったなかで、その部分だけが見つかりませんでした。神の体を食べた動物という位置づけです。
メンデスとはどこですか。
エジプト語でジェデトと呼ばれたデルタ東部の町です。町の主神は牡羊の神で、その名は「ジェデトの主の魂」を意味します。ヘロドトスも、この町で生きた牡羊が神として飼われていたことを記録しています。
ジェド柱との関係は何ですか。
町の名ジェデトが、ジェド柱と語根を共有するとされます。ジェド柱は四段の横木が入った柱の形の記号で、安定と永続を意味し、オシリスの背骨を表すとされました。この町には、オシリスの背骨が来たと伝えられています。
なぜこの女神の記録は少ないのですか。
三つの理由があります。デルタの遺跡は地下水位が高く石材も持ち去られて残りにくいこと、後から入った牡羊の神に主神の座を譲ったこと、そして魚が神殿の場から遠ざけられる動物だったことです。残り方の差は、信仰の差ではなく地形の差です。